DachuRa Ⅰ -最低で残酷な、ハッピーエンドを今-
白城 由紀菜
DachuRa 1st story-ivy-
プロローグ
テーブルに並ぶ、ベリーのジャムとシュガーがトッピングされたカップケーキに、クロテッドクリームが添えられた焼きたてのスコーン。そして、気品溢れるゴールドエンボスの装飾が施された美しいティーカップに注がれているのは、ヴィクトリア女王が最も好んでいると言われている高級茶葉で淹れられた紅茶。
誰もが羨むであろう、贅沢なアフタヌーンティーだ。
だが私はそれ等に目もくれず、ロンドンの街並みが一望できる窓から外を眺めていた。
――時は19世紀末、大英帝国のロンドン。
この国を絶対的に支配するのは、階級制度という名の呪いである。そして私は、その頂に君臨する“上流階級”の1人だ。
自身の暮らしが恵まれていると気付いたのは約5年前、12歳の頃だった。外の世界を遮断されて生きてきた私は、この国は強制的に人間の命に優劣を付け、更には生きる事を許されぬ人間が居るという事をその歳まで知る事は無かった。
「どうかなさいましたか、エルお嬢様」
頭上から聞こえた声に、顔を上げる。
自身に安心感を与える存在である彼は、この屋敷――エインズワース家に最も長く務める老執事だ。彼は私の世話係であり、“普通のお嬢様”は生涯知る事の無い様々な知識を与えてくれる先生でもある。
当時12歳の私に、この国の仕組みを教えてくれたのも彼だった。
「……今日の事、お父様とお母様には内緒にしておいてね」
紅茶の水面に視線を移し、物憂げに言葉を漏らす。
自身の心に深い影が差しているのは、両親の言いつけを破ったからだ。いや、正確に言うのであれば、私の両親であるこの屋敷の主人の命令を、彼――モーリス・バートンを含めた使用人数名が背反した。
“それ”の内容は、決して複雑では無く、至って簡単なものだ。この屋敷の厨房を担当する使用人から、私が料理を教わった。たったそれだけの事である。
本来であれば、厨房は貴族の令嬢が足を踏み入れる場所では無い。高価なドレスが汚れるだけでなく、大体の人間が“厨房の様な場所に、高貴な人間である自分が足を踏み入れる必要は無い”と判断するからだ。
だがそれはあくまで自己判断であり、入ってはいけないと命令をされる事柄では無いだろう。私と同じ様に料理を趣味とし、厨房を出入りする貴族は少なからず居る筈だ。
なのに両親は、何故だか私が厨房に入る事だけでなく、料理や掃除等の教養を身に付ける事にまで酷く厭悪した。
その所為で、この家の使用人が少しでも私に家事の教養をすれば、数時間にも渡って叱責し、更には鼠の居る地下室に数日間監禁する事態にまで至った。
その様な仕打ちを受けた彼らが、私を責めた事は過去に1度も無い。彼らの立場上、この家の令嬢である私を責める事など出来る筈も無いのだが、それでも嫌な顔1つせず、更には教養を身に付けようとする私を止める事もしなかった。
大切な存在である彼らが、酷い仕打ちを受けているのを黙ってみている事は出来ず、それからというもの私は、料理や掃除、洗濯などの教養を両親に隠れて受ける様になった。
「勿論ですとも。彼らにもしっかりと釘を刺しておきました。お嬢様がご心配なさる事は何もありませんよ」
彼が柔らかな口調で告げ、微笑みを浮かべる。
「……そう。ありがとう、モーリス」
彼と同じ様に笑顔を作り、紅茶が注がれたティーカップを手に取った。カップを口元に近づけ、その香りを嗜んでから口に含む。
口の中に広がる渋みの無い味に、鼻に抜けるベルガモットの香り。高価な事も納得出来る程、良質な物だ。強張った体が解れていく様な感覚に、ほっと息を吐く。
だが、心に落ちた影は未だ晴れる事は無かった。言葉にし難い漠然とした不安感と、鬱々とした気持ちは消える事無く続いていく。
――この暮らしが、息苦しいと感じ始めたのは何時頃からだっただろうか。この国の仕組みを知った時からか、それとももっと昔からか。
モーリスやその他使用人からは、心配性な性格なだけだと言われてきた。確かに、それが性格だと言われればそうかもしれない。私は1つの事柄に執着し易く、些細な変化等にも過敏な方だ。
だが、私はどうしてもこの漠然とした不安が、自身の性格だと割り切る事は出来なかった。自身を苛む不安感は最早病的で、私生活に支障をきたす迄に至っている。早くこの不安を取り除かなければ、直に限界を迎えてしまうだろう。
カップを持ったまま溜息を吐くと、モーリスが「まだ何か心配事でも?」と不安気に私の顔を覗きこんだ。「なんでもないの」と慌てて笑顔を作り、再び紅茶を口に含む。
この事を、使用人に話す事は容易い。きっと話を聞いた彼等は、自分の事の様に真剣に悩んでくれるだろう。
だがどうしても、自身の事に彼等を巻き込みたくはなかった。
それは彼等を信頼していないという訳では無い。ただ、高慢な両親への奉仕に日々尽くしている彼等に、これ以上心配事を増やしたく無いだけだ。
母があまり身体が強くない事から、この家に医者が出入りする事が多い。機会があれば、その医者に少し相談をしてみても良いかもしれない。
ぐるぐると回る思考を断ち切る様にそう自身に言い聞かせ、カップの残りの紅茶を全て飲み干した。
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