この先に願う事 弐

「ずっと、付いていてくれたんですか?」


 小さな声で訊ねる形になってしまったが、それはしっかりと蒼馬の耳に入ったようだ。


「ああ。と言ってもさっき夕餉を食べてきたんだが」


 そこで蒼馬は一度言葉を切り、袂の中から俵状の小さな握り飯を取り出した。

 ほんの少しいびつだが、凛の手の平に収まるほどのそれはきっと、蒼馬が手ずから握ったものだろう。


「少し分けて貰ったんだ。起きた時に食欲があればと思って」


 どうだ、と訊ねてくる声音は泣きたくなるほど優しい。


「頂き、ます」


 潤みそうな瞳に力を込め、凛は誤魔化すように小さく鼻を啜った。


「よし、じゃあ湯呑みを貰ってくる」


 凛の返答に柔らかく目を細めると、蒼馬は今度こそ立ち上がった。

 障子に手を掛ける手前、何を思い出したのか顔だけをこちらに向かせる。


「土方さんも居るから呼んでくるが、間違っても起きようとするんじゃないぞ?」


 やんわりと釘を刺し、蒼馬はくりやに続く廊下へ出た。

 蒼馬の足音が完全に聞こえなくなると、凛はむくりと起き上がった。


 不思議と頭の中は冴え渡っており、これならばすぐに立ち上がれそうだ。


(兄上の過保護さは何も今に始まった事じゃないけれど、今回ばかりは迂闊うかつだったかも)


 はぁ、と凛は小さく溜め息を吐く。

 土方の顔を見た時、何故意識を失ったのか分からない。

 蒼馬の「会わせたい人」が土方だと予想していたはずだが、気を抜いていた訳ではないのだ。


 寧ろ神経を研ぎ澄ませ、土方に会える事を楽しみにしていた節がある。

 ただ気が抜けてしまったのならばまだ納得は出来るが、その後に見た夢に数々の疑問が生じたのも事実だ。


(私の行動一つで未来が変わる、という神からの暗示なら……今まで以上に気を引き締めなければだけれど)


 ただ、あまり神経を使うものではないと身に染みて感じた。

 また似たような事が起これば、それこそただでは済まされないだろう。


 薬売りを生業なりわいとし、各地を転々としている土方が昨日の今日、まだ留まってくれていた事が不幸中の幸いと言ってもいい。


 きっと蒼馬はどこかから情報を摑み、凛に会わせようとしてくれたのだ。

 その事に感謝しつつ、凛は僅かに気だるさの残る中ゆっくりと立ち上がる。


(それにしても、一度ならず二度も土方さんに助けられるなんて)


 一度目は過去での事だが、それは今から何年も後の事だ。

 戊辰戦争の真っ只中、凛が弱気になっていた時に居合わせた土方から声を掛けられたのだ。


『お前がそんなのじゃ、覚悟決めて蝦夷まで連れて来た八郎も哀れだろうよ。──泣くな。泣きたいのは他でもない彼奴あいつだ』


 そう言って、不器用な指先で頬に流れる涙を拭ってくれた。

 立ち塞がる敵を何人も殺し、誰よりも勝太の為にと誠を掲げてきた「鬼」から言われた言葉を、一時も忘れたことはない。


 凛が強くなると決めたのは蒼馬から始まり、次に八郎、そして土方の言葉があってこそだろう。

 もしも一人でも欠けてしまえば、凛は蝦夷へ行く事はおろか中途半端なまま、何処かで野垂れ死んでいたかもしれない。


「──早く、強くならないと」


 凛はそっと瞳を伏せる。

 この小さな手では、竹刀はまだ持てそうにない。

 かといって、のうのうと日々を生きていくにはいささか平穏が過ぎて気詰まりしてしまうだろう。


 世の中が動乱の時代となるまで、少なくともあと十年は猶予があるはずだ。

 それまでに凛は『鬼姫』としての片鱗を見せ、多少の差異はあれど同じ過去を繰り返さなければならない。


(無事に蝦夷へ戻らないと、全てが変わってしまう)


 今、蝦夷にある自分の身体はどうなっているのだろうか。

 魂が過去にあるからか、現実の身体が既に冷たくなっていても仕方ないと思うしかないが、僅かでも希望があるのならばそれに賭けたかった。


(それまで生きて……強くなって。出来うる限り、八郎さんのお側に居なければ)


 八郎とは、少なくとも五年足らずで出会う事になるだろう。


 あまり出会った頃の事は覚えていないが、凛のよく知る八郎は心優しく、正義感に溢れる男だった。

 上京は凛の方が一足早かったが、合流した時には屈託のない笑みを見せてくれた。


『お久しぶりです、凛ちゃん。──また、よろしくお願いします』


 普段は物腰柔らかで温厚だが、ひとたび怒るとやや口調が荒くなるところに最初こそ驚いた。

 しかし、それが八郎なりの分別だと凛が知る事になるのは、ずっと先の話だった。


『君に惚れた、なんて言ったら……怒るか? ──なぁ、凛。黙っていないで俺に教えて』


 凛は八郎に言われた言葉の数々を、ゆっくりと思い出す。

 時として決別しそうになったが、その全ては凛を想ってくれての言葉だととうに知っていた。


 江戸や京よりも極寒の地ではあるが、それでも八郎と共に蝦夷まで来た事を凛は少しも後悔していないのだ。

 行く先々で困難な事は何度もあったが、傍には支えてくれる誰かが常に居た。


 その人物が誰であろうと、凛の助けになってくれた。

 蝦夷で死んでいった、かつての仲間も多い。

 支えてくれた者や散っていった者達分まで生きる事が、凛に出来るせめてもの恩返しなのだ。


(八郎さん……)


 何より、愛しい男が遺してくれた子を置いて逝く訳にはいかない。

 その命が尽きる瞬間はこの目で見てはいなかったものの、八郎と共に戦ったあの時だけは凛にとって何よりも変え難いものだった。


 互いを守るように背中合わせで敵を斬り伏せ、時には銃を使って襲い来る敵をほふって来た。


 数多の困難に立ち向かい、それを乗り越えた先が地獄であろうと好いた者と逝けるのなら、それで良かったのだ。

 あの時、腹に子が宿っていると知るまでは。


(例え貴方の辿り着く先が死でも、生でも……私はきっと受け入れる)


 凛は伏せていた瞼をそろりと押し上げ、小さな手を握り締めた。

 その瞬間、すっきりと耳で切り揃えられた黒髪をなびかせ、こちらをじっと見つめる男の姿が視界に入る。


「──なんだ、もう起きてもいいのか」

「っ」


 低く耳に馴染む声音が部屋全体に響き、男──土方はやや不機嫌そうな瞳を凛に向ける。


「あー……薬を持って来たんだが。必要無さそうなら家の奴らにやれ」


 土方はぶっきらぼうに懐から厚みのある袋を取り出すと、凛の眠っていた枕元へ置いた。


 石田散薬と書かれたそれは、その効能に差異はあれど良く効いたり効かなかったりする。

 効果の振れ幅が人によってあるのかは知らないが、貰って損はないことは確かだ。


「そういやあの餓鬼──蒼馬だったか。お前が連れて来られた時、血相変えてたぞ。まぁ俺には知ったこっちゃねぇがな」


 土方の言葉に、凛は黙って聞き入っていた。

 僅かに艶を含んだ声音は、凛のよく知るものだ。

 紡がれる言葉こそ乱雑だが、その実面倒見が良い事をよく知っている。


 こうして態々わざわざ蒼馬の様子を教えてくれ、凛に薬まで持って来てくれたのだ。

 根は誠実で、しかし自ら嫌われ役を買って出る人間を土方以外に知らない。


(土方さんはこの頃から変わらないんだな)


 あまりにも小さな事だが、凛は口角が自然と上がるのが抑えられない。


「おい、口がけねぇのか」


 凛がうんともすんとも言わない為か、突然笑みを浮かべた凛に驚いたのか、焦れたように土方が更に不機嫌な顔を歪ませる。


 歌舞伎役者のように整った顔立ちもあってか、その表情はあまり怖くない。

 しかし、それは凛が見慣れているだけで、他の者が見れば震え上がってしまうほどの表情だった。


「いえ、ありがとうございます。あの……」


 凛が次の言葉を紡ごうとした時、ばたばたと廊下を走る音があった。

 すぱんと障子が音を立てて開けられると、額に汗を浮かべ、息も切れ切れになっている蒼馬が居た。


「はぁ、はぁ……やっと、見つけた! 一体何処に、居たんですか。土方さん……!」

「兄上」

「入れ違ったみたいだな」


 お疲れさん、と土方は呆れ声で言い、小さく溜め息を吐く。


「って、凛! まだ起きるなって言っただろ! 少しは我慢出来ないのか!?」


 視線を土方から凛に向けた瞬間、蒼馬は鬼のような形相でえた。


(兄上が血相を変えた、ってこういう顔なのかも)


 脇目も振らずこちらにやって来て、凛を一番に心配してくれる兄に頭が下がる思いだ。

 時々度が過ぎるきらいもあるが、それは蒼馬なりの気遣いだと知っているからか素直に受け入れられる。


「何を笑ってるんだ」

「ふふ、なんでもないです」


 いさめる言葉とは裏腹に、その口調や凛の頬に触れる手つきは優しい。


(そう、なんでもない)


 自分に言い聞かせるように、凛はもう一度心の中で呟いた。

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