【幕間】蒼馬の想い

(少し急かし過ぎたな)


 蒼馬は竹刀を振りながら、ぼんやりと思う。

 試衛館に来ると周助や勝太はいなかったものの、すぐに二人がやってきた為、蒼馬が来たのは殆ど紙一重と言って良かった。


 ただ、稽古が始まる時まで時間があったからか、蒼馬が座っているほど近くにいた総司が絡んで来たのは、それ即ち好機と言ってもいい。



 ◇ ◇ ◇



 総司の方から蒼馬に話し掛けられ、言いたいことを言い終わるとすぐさま自分の元々座っていた場所へ戻ろうとした。

 丁度周助と勝太が稽古場にやって来た事もあるかもしれないが、楽に元いた場所へ帰してはやれない。


(本当になんでお前に頼もうと思ったんだ)


 試衛館へ来る前、凛に言った言葉を頭の中で反芻する。


『総司を此処に呼んでくるから、それまで待ってて欲しい』


 何故自分の口から、この世の誰よりも嫌いな人間の名前が出たのか蒼馬は分かっていなかった。


「……なぁ、総司」


 しかしそれが駄目元であっても、凛を迎えに行かせていい人間は総司しかいないのだ。


「──で、な? 昨日の芝居見物といったら……! あれは見物だった!」


 通常では宗家が来てから稽古が始まるが、周助は根っからの話好きでもあった。

 昨日から一昨日の出来事について話している為、邪魔をしないよう蒼馬は小声で総司の名を呼んだ。


「うん?」


 蒼馬の声に、総司はこてりと小さく首を傾げる。


(……本当にどうしたもんか)


 昨日の今日、少なくとも総司は凛に興味を持った。

 その事が悪い事とは言わないが、他の話した事もない男に『有楽の屋敷まで迎えに行って欲しい』と言うほど駄目な兄ではない。


「何、蒼馬くん。もっと僕とお話したいの?」


 他でもない蒼馬から話し掛けられた事が嬉しいのか、にこにこと腹の立つ笑みを浮かべ、総司はもう一度蒼馬の傍に座った。


「今から俺の伯父の屋敷に行ってくれないか」


 その言葉には答えず、まっすぐに総司の目を見て問う。


(これで駄目なら万々歳、今すぐにでも此処を出るんだけどな)


 新緑を思わせる瞳は一瞬見開かれ、しかしすぐさまじっとりとした視線に変わる。


「えぇ、それってお使い? 折角のところ悪いけど、近藤さんか周助先生のお使いしか行かないんだよね、僕」


 胡座あぐらをかいた膝に頬杖を着き、さも不機嫌そうな表情で総司は言った。


(そうだな、知ってたよ……! お前があまりにも二人を好いて慕ってるって)


 どこまで行っても口を開けば『近藤さん』か『周助先生』ばかり言う。


 総司の過去に何が起こったのかは知らないが、これと言って興味も無い。

 師として、時に兄や父として、勝太や周助を慕っているとしてもそれは蒼馬になんら関係ない事だ。


此奴こいつと話してると調子が狂う)


 やはり昨日凛の静止を振り切り、一度殴っておくべきだっただろうか。

 無意識のうちに、蒼馬はぎりりと奥歯を強く噛み締めた。


 総司が嫌なように、蒼馬だって嫌なのだ。

 できる事ならば、井上に頼みたい。

 しかし肝心の井上の姿は稽古場になく、今日は来ていないらしい。


「……めちゃくちゃ癪だし、俺だってお前に借りを作りたくない。でも頼む、凛が待ってるんだ」


 たっての頼みというのは大袈裟かもしれないが、凛を待たせては可哀想だと思う。

 ここから有楽の屋敷までそう時間が掛からないとはいえ、このままでは蒼馬の考える『計画』が予定通りに遂行しないのだ。


(折角朱玄しゅげんの奴に頼んだのに、ここまでやって無駄にするもんか)


 幼馴染みの少年の名を、眩しい太陽のような笑みを思い浮かべ、蒼馬はぐっと瞳に力を込める。


「凛ちゃんが? 君、さっき来ないって言ったけどそれって嘘なの?」

「それは」


 蒼馬がどう答えようか考えている時、大きく一度柏手が打たれた。


「──では始めようか。皆、今日も怪我だけはしないようにな」

「はい!」


 声がした方を向けば、勝太がにこにこと決まりの台詞を言ったところだった。


「げ、近藤さんの話聞いてなかったんだけど!?」


(ただ稽古始めの合図をしただけだろうが)


 今日は特別喧しい総司の声を聞き流し、蒼馬は皆にならってゆっくりと立ち上がった。

 このまま総司が行かなければ、自分が行こう。

 そんな願いともいえる言葉を、心の中に落とした。



 ◇ ◇ ◇



 結局のところ、総司は半刻ほど竹刀稽古をした後ひっそりと試衛館を出た。

 周りを見れば勝太もいない為、計画は予定通り進んでいるらしい。


「蒼馬、気が緩んでいるんじゃないか」


 不意に声を掛けられ、蒼馬は声の主を振り向いた。


「し、周助先生」

「そういえば本業の方も稽古だったんだか。疲れているなら来なくても良いんだぞ?」


 自分の挙動がおかしい事を悟られたか、とも思ったがどうやら違ったらしい。

 蒼馬は人知れず胸を撫で下ろす。


「いえ。……用があったので」


 邪魔にならない場所まで移動し、周助の言葉に神経を集中させる。

 普段は好々爺然としているが、試衛館内では誰よりも聡い周助に不審がられては全てが終わるのも時間の問題だろう。


「見たところ凛が来ておらんようだが……お前の用と関係があるのか」

「鋭いですね」

「なに、少し考えれば分かる事よ。しかしなんだ、楽しみにしていたんだがな」


 やや弾んだ声音からして本音のようで、蒼馬は申し訳なくなる。


 凛は総司が連れて来るが、その道中で『ある人』が待っていると知らない。

 いや、僅かに知っている人間はいるが、『ある人』にすら何も詳細を知らせていないのだ。


吃驚びっくりするんだろうな。俺がその顔を見れないのは悔やまれる……)


 試衛館に来た瞬間、怒られても構わない。

「どうして黙っていた」と泣かれても、叩かれても構わない。


 凛が会いたい人間に、それとなく連れて来たのだ。

 その労力の殆どは朱玄にあるが、可愛い妹の喜ぶ顔が見られたら蒼馬はそれで良かった。


「すみません。凛は後から来るらしいので……」

「まだ初代の屋敷に居るのか」


 周助の言う初代とは有楽のことだ。

 歌舞伎にも精通している為か、何度か顔を合わせては酒を酌み交わす仲になっている、と有楽から聞いていた。


「はい。今日は母と妹が居るので。遠回りですが、総司に迎えに行かせて──」

「義父さん!」


 蒼馬の言葉に被せるように、切羽詰まった声が玄関先から稽古場まで響いた。


(勝太さん……? 一体どうしたんだ)


 周助を『義父さん』と呼ぶ者は、試衛館において一人しかいない。

 それを抜きにしても、勝太の声はよく通る。

 あまり感情を表さず、普段から温厚な勝太がこうも焦った声音をするのは珍しい。


 それに加えてか、試衛館へ来るのがいやに早かった。

 ばたばたと複数の足音もあり、何やら急いでこちらに向かっているようだ。


「……っ!」


 蒼馬は瞳をいっぱいに見開く。

 常時開け放されている障子からは、勝太に抱かれる妹の姿があった為だ。


「いきなり倒れて……今、空いている部屋はありますか!?」


 頬を赤くし、苦しそうな呼吸をしているのは本当に凛なのだろうか。

 心做しか顔色も悪いように感じ、蒼馬は己のしでかした事の罪悪感にさいなまれた。


(おれの、俺の所為、か……?)


 無意識のうちに握り締めていた手がかたかたと震え、僅かに血が滲む。

 手を傷付けてしまっては有楽に怒られる、そんな事は頭の中からすっぽりと抜けていた。


「ああ、来い」


 蒼馬が驚愕で何も言えずにいる間に、周助は稽古場を出て行こうとした。


「周助先生……!」


 凛を安静にする為だろうが、全ての責任は蒼馬にある。

 せめて何か出来ないか、そうした思いで声を掛けたが、周助はふっと微笑して蒼馬の頭を撫でた。


「そんな顔をするな。凛が目覚めた時、今のお前を見ては心配されるぞ」


 それに、と周助は勝太の後ろに居た男に目配せする。

 その男は、朱玄に言ってそれとなく連れて来させた青年だった。


「町医者とまではいかないが、今は呼ぶ間すら惜しい。──土方歳三、だったか。この娘をなんとしても生かしてくれ」


 未来の希望になり得る者なのだ、と静かな声音で周助は続けた。

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