試衛館の面々 弐

(思えば私は兄上に何も返せていない)


 屋敷を出てしばらく、蒼馬の背に揺られながら凛は思いを巡らせる。

 蒼馬が鷹城屋の者達と京に上るまで、蒼馬がしてくれた事は沢山あった。


 この時は泣いてばかりいた自分を、その日鷹城屋であった出来事を面白おかしく話してくれ、笑わせてくれた。

 時々、稽古が終わった時には生家へ来てくれ、土産だと言って凛や弟妹らに菓子を分け与えてくれた。


 生家へやってくるのは、両親に元気でやっていると顔を見せる為だろう。

 伯父の屋敷へ身を寄せながら日々稽古に励む息子を、口では言わないが心配しているのは確かだった。


 蒼馬が顔を見せに来た日は両親共に機嫌が良く、その日の食事はほんの少し豪勢になる事が少なくない。

 幼心ながら蒼馬は決まりきっていた未来を進むのが嫌で、単身出ていったのだと思っていた。


 しかし、今よりももっと残酷な現実を知ってしまった凛には分かる。

 蒼馬が心から打ち込みたい事を見つけ、半ば家を飛び出すように伯父の元へ弟子入りしたのだと。


(何か今のうちに……何か、返せたらいいのに)


 蒼馬の肩に控えめに載せている小さな手を、そっと握り締める。

 心優しい兄が自分にしてくれた数々を、凛は蒼馬に返せていただろうか。


 上京してたった一度顔を合わせた時、蒼馬に何か言葉を掛けていただろうか。

 答えは否だ。何も返せていないし、労りの言葉一つ掛けていなかった。


 蒼馬に対する後悔は今も凛の中に渦巻いており、それは時にかせとなった。

 あの時少しでもこうしていたら、疎遠になどならなかったのかもしれない。


 あの時蒼馬を引き留めていたら、喧嘩別れしなかったのかもしれない。

 いや、仮に上手く事が運んだとしても、凛はきっと蒼馬の元から離れていた。


 蒼馬はこれから京の民にとって、なくてはならない存在になるのだ。

 その十年後には江戸に舞い戻って来るが、それを抜きにしても蒼馬が傍に居る時間は、多く見積って数年というところだろう。


(まずは兄上が喜ぶものを知らないと)


 だから何か恩を返したかった。

 蒼馬の帰りと入れ違うように、北へつ自分からせめてもの償いをしたかった。


 凛をここまで強くあろうと思わせてくれた、言わば師とも言える兄に。

 しかし、あの蒼馬のことだ。

 他でもない凛からの贈り物なら、どんなものでも喜ぶだろうと頭ではわかっている。


(……昔からずっと、兄上は私に優しくしてくれた。それなのに、私は何も差し上げられなかったから)


 今の凛の手元に金子があるのかは分からないが、次の日にでも蒼馬に贈るものを決めようと心に決める。


「凛」


 ゆったりと心地よい声が傍近くから届く。


「帰る前に少し寄り道するけどいいか?」


 前を向いたまま、蒼馬が落ち着いた声音で言った。


「寄り道、ですか?」


 凛はこてりと首を傾げる。


(気付かなかったけれど、この道は……)


 知らず物思いにふけっている間に、凛が何度も通り慣れた路地を蒼馬は歩いていた。


「ああ、もう少しで──」

「あれぇ、蒼馬くん?」


 蒼馬の言葉に被せるように、間延びした声が遠くから響く。


「っ」


 凛は無意識の内に、蒼馬の肩に置いていた手に力を込める。

 いやに聞き覚えのある声は、間違えるはずもない。


「試衛館に用〜?」


 僅かに凛から声の主の姿は見えないが、確信するしかなかった。

 程なくして道が開け、段々と周囲に建物がひしめく通りに出た。

 それと同時に、真正面に佇む者の顔形がはっきりしてくる。


 蒼馬と同じか少し年上の、少年と青年の狭間にいるような男。

 肩に付くか付かないかというほどの髪を、蒼い組紐で後ろへ無造作に結い上げ、背に垂らしている。


 普通の町人にしては上等な着物に身を包み、手にはほうきを持っている為、そこらの庭掃除を任されていたのだろう。

 にこにこと腹の読めない笑みで、こちらに笑い掛けてくる男を忘れるはずもない。


総司そうじ


 ──沖田おきた総司。

 後々、新選組しんせんぐみ一番組組長にして幹部になる男だ。

 最もその任は先の事件で剥奪される事になるが、それを抜きにしても剣の腕に長けた男だった。


「蒼馬くんさ、僕の方が年長者なんだから"さん"を付けてよ」


 拗ねた口調ではあるが、歌うように言った総司が蒼馬の傍までやってくる。


「お前を敬う気は無いからそれでいい」


 蒼馬はふいと横を向き、足早に通り過ぎようとした。


「可愛くないなぁ」


 蒼馬と同じ速度で歩きながら、総司はくすくすと小さく笑いながら悪態を吐く。


「あれ」


 未だ蒼馬に背負われていた凛と総司の視線が混じり合った。


(あ)


 総司にじっと見つめられると、何故か居心地が悪くなるのだ。

 樹々を思わせる美しい瞳は、人を屈服させる力でもあるのだろうか。


(……きっと八郎さんと似ているから。絶対にそう)


 口調や年齢、背格好こそ違えど、総司と八郎は表裏一体だと凛は思う。

 互いが互いに『似ていない』と言うが、凛からしてみれば息の合った二人だった。

 最も、その八郎とはこの時ばかりは出会ってもいないが。


「ね、おチビさん。名前は?」


 総司はにっこりと微笑み、凛に問い掛けた。

「え」


 何を言われたのか分からず、図らずも素っ頓狂な声が漏れる。


(おチビさんって……私のこと?)


 今の自分の状況がどこへ置かれているのか理解しているが、精神が『自分は子供』という事を拒否している。

 凛の応えがない事から聞こえていないと捉えたのか、総司は僅かに首を傾げた。


「分かる? 君のな・ま・え」


 総司は口元に人差し指を当て、殊更ゆっくりと問い掛けてくる。

 まるで本当に幼子を相手取るかのような行動に、そこで凛ははたと気付いた。


(あ、そうか。沖田さんとはこれが初対面だったっけ)


 最初に話した時期を忘れていたと言えば嘘になるが、この十年近くで世が目まぐるしく変わったからか、凛の記憶からすっかり抜け落ちていたようだ。


「凛、です」


 これで中々勘の鋭い総司に怪しまれないよう、素っ気なく言った。


「凛ちゃんね」

「わっ」


 名を教えた途端、総司は益々笑みを深め、凛の頭をくしゃりと雑に撫でた。


「行くぞ、凛。馬鹿が伝染うつる」


 されるがままになっている凛を守る為か、はたまた総司から距離を取りたいのか、或いは両方か。

 蒼馬は未だ凛を背負ったまま、試衛館のある場所へ向け足を踏み出した。


「ちょっと、それは聞き捨てならないんだけど!」


 後ろから総司の少し怒った声が響く。

 目指す道は同じだが、蒼馬はこのまま総司をこうとしている。


「あ、兄上」

「ん?」

「下ろしてください」


 やはり試衛館から遠回りする道に入ろうとした蒼馬を、そっと呼び止める。

 総司はこちらの出方を伺っているのか、追い掛けて来てはいない。


「駄目だ、怪我してるだろ。それに──」

「痺れはとっくに治まってます! 歩きたいんです」


 呆れた声ともうんざりした声ともつかない声音に、凛は内心怒りでいっぱいだった。


(兄上が過保護なのは今に始まった事じゃないけれど、いくらなんでも息苦しいもの)


 このまま暴れてしまおうかとも思ったが、凛はもうそこまで子供ではない。


 精神だけは成熟しきった大人のそれなのだ。

 何故過去へと来てしまったのか、少しでも探りを入れないといけない。


 かすり傷一つで妹を縛る兄の背から逃れ、まずは総司に訊ねる事を優先したかった。


「聞いてくれないなら、兄上とはもう話しませんから」


 澄ました口調で言うと、渋々とながら蒼馬はその場にしゃがみ込む。


「……手、繋いでなら良い」


 流石に『話さない』という言葉が効いたのか、凛は図らずも目をみはる。


(私に嫌われたく無さすぎではないですか、兄上)


 声には出さないが、あまりにも蒼馬が想像以上でこの先が心配になる。

 同時に何故自分に甘いのか、という疑問が益々深まった。

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