第16話

「それで、次に頼るのが私ってのはどういう風の吹き回し?」

 ルリ子は目の前の棚を探りながら、オレを横目で見る。

「牧も刑部さんも頼りにくいもんでね。兵隊を借りられるアテもない」

 オレはオレで、ルリ子が見繕ったファイルを片っ端から開き、中身をざっと斜め読みする。ルリ子の手元、研究所に残っている資料を眺めるだけでは、ロジャーの裏金や裏帳簿へ繋がる確たる証拠は見つかりそうにない。

 「街」の連中は良くも悪くも技術の開発や研究に貪欲なあまり、そこへ投じられる費用については、糸目は一切付けないようだ。どれが正規の取引で、どれが水増しや架空なのかも分からないレベルで、ガバガバな取引を繰り返している。

 末端で使役される我々にも、それぐらいガバガバな大盤振る舞いをしてくれても良かったのだが、内部にいる時から給料や手当については文句を垂れた記憶しかない。現場で身体を動かして汗を流す我々のことは、「街」の上層部には全く見えていないようだ。

「向こうの大ボスと会ったのに、手を結ぶとは。刑部さんの思惑も外れちゃったわね」

 ルリ子は残りの目ぼしい資料を抱え、オレの目の前にドンと音を立てて置いた。

「もう、牧も刑部さんも、ただの知人だからな」

 オレの言葉に、ルリ子は肩をすくめる。

 オレより少し早くシャバへ復帰した牧は、単価がいい「街」の仕事や「街」経由でしか手に入らない情報をこちらへ流してくれるいいパイプ役だったが、今はただの手先にしか見えない。刑部さんは刑部さんで、元上司ではあるが、今はただのご近所さん。部隊解散後もそれなりに迷惑をかけ、世話にもなっているが、それ以上でも以下でもない。

「本当にそれで良かったの?」

 ルリ子はなおも怪訝な面持ちでこちらを見遣る。

「妻や娘に危険が及ぶようなら、本気で止めるさ。今はまだ、ただの夢物語に過ぎん」

「正確には、『元』妻ね」

 ルリ子はどうでもいい補足をして、彼らのことを思い描こうとしたオレの想像に横槍を入れた。図書館で出会った彼は、意外と真面目にクーデターについてお勉強しているようだった。

 勉強したからと言って、実践できるとはとても思えない。秘匿された金も探し出せないような人材不足では、夢のまた夢だろう。オレの知己に火の粉がかからないなら、好きなように夢見れば良い。

「元同僚も元上司も投げ打つなんて、アナタにとって野久保って、そんなに大事な人なのね」

 ルリ子に改めて水を差されると、オレは思わず、「いいや、別に」と答えた。よくよく考えれば、同じ仕事をしていた時から、そこまで交流があった相手ではない。現役中も、現役を退いてからも、牧や刑部さんの方が間違いなく関係は深い。

「アイツが姿を消す前に何度か飲み明かして、迷惑を掛けられっぱなしになっているだけの間柄だ」

「あら、素敵じゃない。きっと、ギムレットでも楽しんだんでしょうね」

「ギムレット?」

 アイツと一緒に飲んだのは、そんな洒落た名前のカクテルではない。特別な意味合いがありそうな、値の張るウィスキーでもなかった。ただただ、そこら辺で手に入りそうな安酒を、二人で楽しんだだけに過ぎない。

「ほら、メーカーとか作り方の蘊蓄が出て来るあのお話……」

 彼女は何かを示唆するように、モゴモゴ言った。ギムレットが出て来る物語?

「残念ながらオレはハードボイルドな私立探偵じゃないし、奴から高額な紙幣を受け取ってもいない」

「でも、なんか似てる気もするけど……」

 自分は死んだように見せかけ、顔を作り替えてどこかへ逃亡する。符合する要素がないとは言い切れないが、血液占いレベルのインチキだ。あの物語を踏まえるなら、ヤツは終わり際に、オレの前に姿を現し、事件の真相を語ることになる。

 細やかな友情とも言えない関係も、そこでパタリと終わりを迎える。まだ何も紐解いていないうちから、そんなネタバレは受け入れられない。

 ただ、いつまでもココで資料を漁っても、野久保どころか、ロジャーに関する有力な手がかりが得られるとは思えない。「街」の会計がいかにガバガバかを見せつけられただけだ。

 オレはルリ子が入れてくれたコーヒーを、一気に流し込んだ。すっかり冷めきっていて、味も匂いもほとんど分からない。オレは散らかした資料の山をそのままに、椅子から腰を上げた。

「ああ、そのままで」

 資料を元に戻そうとしたオレに、ルリ子はそう言った。オレは「そうか。すまん」と資料を散らかしたことと、仕事の邪魔をした事を謝った。オレは後の処理を彼女に任せ、研究所を後にした。


 わざわざ「街」へ舞い戻り、ルリ子の手を煩わせてまで資料を読み漁ったというのに、目ぼしいヒントは見つからなかった。次の手を思いつかないまま、手持ち無沙汰に通りをぶらつく。

 オレがどこへ行っても、何をしても、一定の距離を置いて何者かがこちらを観察している。尾行を完璧に隠す能力、もしくはその意図がないらしく、どこから見ているかも、はっきり分かった。何にも分かっていないオレを監視したところで、得るものなど何もないだろうに。ただ、考え事をしながら歩き回りたい時には一定程度の阻害効果があるようだ。全くもって、集中できない。

 事務所へ戻って、鍵をかけて集中するか? そうすると今度は、牧や刑部さんからの圧が掛かる。多少の材料を入手してからでないと、今の自宅兼事務所へは戻りにくい。ホテル暮らしを決め込むほどの金もない。この寒空の下、テントも寝袋もないのに野宿はキツい。昨日立ち寄っただけの、元妻の暮らしを頼ってみるか?

 娘や忍と暮らしていた頃の光景を脳裏に描き、思わずハッとする。

 野久保はきっと、妻子の元だ。元の眼を取り戻した彼が望むのは、子どもに会うことだろう。だが、すでに新しい父親がいる家庭で、野久保はどうやって子どもに近付く?

 野久保の妻子がどこにいるのか、元妻の再婚相手が誰なのか。そこを探れれば、多少のヒントは得られるかもしれない。野久保の個人情報までなら、なんとか入手できるはず。

 オレはケータイを取り出して、さっきまで面と向かって話していた相手に電話を掛けた。しばらく待っていると、「忘れ物でもした?」と面倒臭そうな声が聞こえてきた。オレはその表現に思わず鼻で笑い、「そうだ。忘れ物だ」と今から戻ることを伝えた。彼女は電話口で厄介そうに文句を述べていたが、向こうの予定など、知ったことではない。

 オレは無理やり電話を切り、踵を返して来た道に戻る。向こうがどれだけバタバタしていようが、資料さえ漁れれば同席してもらわなくても構わない。ただ、技術主任の彼女が会議へ引っ張られるまでに辿り着かなくては。ダラダラ歩いては間に合わない。時間との勝負だと、オレは自分に言い聞かせ、自ら老体に鞭を打った。


 自分以外誰もいない部屋で、オレは自分で淹れたコーヒーを飲みながら、ようやく見つけた資料に目を落としていた。立て続けの会議を終え、ボロボロになって帰ってきたルリ子に、「お疲れさん」と声を掛けた。

「どう? 何か見つかった?」

 ルリ子は白衣を脱ぎ、ハンガーに掛けながら言った。オレはそれに頷いた。

「ロジャーと野久保の接点を見つけた。って、お前らはもう、知ってるか」

 オレはルリ子へ見えるように資料を広げ、ある一点を指差した。野久保の元妻が、その後誰と結婚したのか。ルリ子はオレの視線を受け止め、自然に頷いた。彼女は何事もなかったかのように、帰り支度を整える。

 彼らの新しい家族、「稼ぎの立派な父親」がロジャーだったとは。野久保がドクターの元で顔を作り替えてもらった理由も何となく見えてくる。

 ロジャーの母国で、別れたはずの妻子と暮らす。国際的なネットワークがある「街」とは言え、国を跨いだ厳しい追跡というのは限度がある。ましてや、出航後に死体が上がったとなれば、それ以上の深追いもしまい。

 仕掛けは朧げに見えてきたが、肝心の痕跡や金の所在へ至るには、まだ何かが足りていない。あと少しという直感が、非常にもどかしかった。

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