第19話 美空先輩の行動原理を利用した再会の方法

 翌日、俺は一限目の前に急いで部室に向かってみた。ドアを開けたけど、そこには誰もいなかった。


「当たり前か、授業も少ないのに朝から部室になんて来ないよな」


 一般教養棟の4階なんて場所にあるせいで、俺は一日に何度も部室に通うことはほとんどなかった。それでも部室に行けばほとんどいつも美空先輩がいたから、こうして空っぽの部室を見るのは新鮮な気分だ。


「もしいたら、俺はなんて言うつもりだったんだよ」


 自分で自分に問いかける。


 告白だと思われていたら、今更撤回するなんてできるわけがない。告白だと思われていなかったら自分から墓穴を掘って改めて告白することになってしまう。

 探しに来ておきながら、俺は美空先輩が部室にいなかったことにほっとしていた。


 部室に来るために早く来たせいで、まだ一限目には時間がある。誰もいない部室に一人で座る。いつもなら向かいに美空先輩が座っていて、俺の存在に気付かないように本を読み耽っていた。


 俺も美空先輩にいい話題がなくて、黙ってマンガや部室に置いてある美空先輩やOBが残した本をめくっているだけだった。


 それでどれほど距離が詰められていたのかはわからない。輝が来てからはそれを理由にして出かけたこともあったけど、3人で出かけたからって美空先輩に俺のことを印象付けられたような気はしなかった。


「考えれば考えるほどフラれる未来しか見えない」


 そう口に出してみると、それほど残念がっていない自分がいることに気がつく。美空先輩の恋人になることよりも、今は輝が何も言わずに出ていく未来ばかりが脳裏をよぎって仕方がなかった。輝がときどき見せる諦めたような表情が気にかかる。


「たぶんあいつはそういう奴だからな」


 それから授業の合間のたびに4階まで駆け上って部室に通ってみたけど、何度行っても美空先輩の姿はなかった。最後の5限目の授業を済ませて、今日はもう最後にすると心に決めて部室に向かう。


 ドアを開く。

 いつもなら入ってすぐ、よく見える真正面に座っているはずの美空先輩の姿はやっぱりなかった。


「やっぱり、いないか」


 空っぽの部室を見て、俺はまた残念なようなほっとしたようなよくわからない感情が浮かんで消えていった。


 すぐにくるりときびすを返して部室を出ようとした俺の視界に、テーブルの隅に置かれた紙束が飛び込んできた。積み上がったその厚みに少し覚えがある。


 飛びつくように手に取って中を見る。タイトルから元ネタとなる思考実験の内容、ニュートンの逸話まで。次の解説動画のネタ帳に違いなかった。プリントアウトされた文章の余白には美空先輩の手書きのメモが赤色のペンで書きこまれている。


「来てたんだ、先輩」


 いつからいつまでいたんだろう。痕跡を探そうと部室の中を見回すけど、凡人の俺には全然わからない。


 でも、これを残していくってことはまだ思考実験サークルにはいてくれるってことだよな?


 今日一日会えなかっただけで、美空先輩がサークルをやめてしまうんじゃないかという考えが次第に膨らんでいた。部室に来るたびに空っぽの部室を見て、誰もいない光景がこれから普通になるんじゃないかという錯覚を覚えていた。でもそれは杞憂きゆうだったようだ。


 出ていこうと思っていた部室のドアを閉めて、いつもの席に座って資料に食い入るように読んでいく。大学ノートをカバンから取り出して原稿の案を書き出していく。


 次の動画を作ればきっと美空先輩は帰ってくる。そんな気がする。


「というか、再生数が増えたら部室に来ざるを得ないよな」


 新入部員が来るかもしれないと思ったら、あの人は逃げてなんていられない。

 原稿の構成を考えながら、気がつくと口の端に微笑みが漏れていた。


 自分の気持ちに正直で、自分がやりたいと思ったことは誰が何と言おうとどれだけ止められようと絶対にやる。


 美空先輩はそういう人だ。だから思考実験サークルのメンバーが増えるなら自分の気持ちに正直にここで待ちたいと思うはずだ。


 ペンが走る。たった一人の部室でペン先が紙を擦る音だけが響いている。美空先輩の残した資料が、俺の手で一つのストーリーに編み上げられて、これを輝が先生として説明することで一つの動画になる。


「あぁ、もう。これだとまとまらない」


 ノートの箇条書きじゃいつまでも原稿は完成しない。美空先輩の資料をバッグに丁寧に詰めて立ち上がる。部屋に帰ってパソコンで書かなきゃ。原稿を作ったら輝に見せて、スタジオを予約して。やることはもうわかっている。


 部室を出て階段を駆け下りる。毎日嫌になるくらい遠いと思ってたけど、今日ほど部室が4階にあることを恨んだ日はなかった。


 全力で走る俺を奇妙に振り返る大学生の姿も目に入りこんでくるほどの大粒の汗も気にならなかった。大学の敷地を抜けるとすぐに見えてくる俺の部屋があるマンションのエレベーターに入ってようやく息をついた。


 数秒の間の休憩を挟んでエレベーターを出る。部屋のドアを勢いよく開け放つと、大きな音に驚いた輝が慌てて飛び出してきた。


「どうしたの!? 昨日はあんなに落ち込んでたのに」

「そういうことは言わなくていい。次の原稿作るから、動画撮影する準備しとけよ」

「ふーん。じゃあ次の衣装でも選んでおこうかな。美空も喜ぶだろうし」


 とってつけたように輝は一言つけ加えてきた。わかったような口を利く輝に言い返す元気もないまま、洗面台に向かう。そして、顔を拭いたタオルを洗濯機に投げこんですぐに部屋に閉じこもった。

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