かわいそうなのはぬけない

変わり身

VS催眠おじさん

 夜。

 とっぷりと陽が落ち、重たい濃闇の広がる時間帯。


 街を彩る明かりも殆どが消え、残る光は点在する街灯と、夜空に浮かぶ小さな月だけ。

 こんな暗がりを出歩く奇特ものなどそうは無く、がらんどうの街中は只々しんと静まり返っていた。


 ――だが、そんな静寂を乱す足音が二つ。

 一つは人の駆ける音。そしてもう一つは――人ではない何かの駆ける音だった。



「はぁっ、はぁっ、ぁ、ひゅっ……!!」



 路地を覆う闇間から、少女が一人飛び出した。

 着崩した制服を纏った、高校生くらいの少女だ。

 その顔は恐怖に引き攣り、涙と鼻水に塗れ。足を縺れさせながら、必死に何かから逃げていた。



「ひっ、はぁ、は、っ、うあ!?」



 しかし、相当に疲労が溜まっていたのだろう。

 突然少女の膝が崩れ落ち、そのままアスファルトへと転がり込む。体のあちこちに擦過傷が刻まれ、悲鳴が漏れた。



「う、ぐ……!!」



 少女は痛みを堪え、すぐに起き上がろうとするものの、震える足には力が入らず――そうこうする内、その背中に大きな影が被さった。



「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ」


「ひっ……! やだっ、や、あぐッ!?」



 それは『人ではない何か』としか形容できないものだった。

 犬のようでもあり、トカゲのようでもあり。なのに人間のようにも見える、奇妙な形をした獣。

 甲高い鳴き声を上げるそれは二本の腕で少女の身体を抑え込み、地面へと強く押し付ける。



「あ……ぅ……たす、たすけ……!!」



 華奢な少女の身が軋み、肺の空気が押し出される。

 そうして霞み始めた意識の中、少女は自身の衣服が引き裂かれる音を聞いた。

 それの意味する事など考えるまでも無い。先程とは別の恐怖に襲われた少女は、せめてもの抵抗として身を捩るが、そんなもので拘束を抜けられる筈も無く。



「や、だ……やだっ、やだっ、やだぁ……!!」


「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――!」



 獣欲の吐息と共に、おぞましい感触をした『それ』が暴かれた少女の下腹部にあてがわれる。

 直後に襲い来る絶望を悟った少女は、涙を流しながらきつくきつく目を瞑り――。




「――葛の葉、金の蔓」




 突然、涼やかな声が響き。獣の動きが止まった。



「ハッ、ッガァ……!?」



 否、止まったのではなく、止められたのだ。

 獣の四肢にいつのまにか植物の蔓が幾本も巻き付き、骨を折らんばかりに締め上げていた。



「……ああ、よかった。間に合った」



 拘束を解かんと暴れる獣をよそに、道先の暗がりから現れる影があった。

 薄い月明かりに照らし出されたそれは、またも年若い少女のもの。

 青竹色の和装を纏い、艶やかな黒髪に薄月を映し。花のかんばせには安堵の笑みが浮かんでいる。

 獣を縛る植物の蔓は、彼女の足元より伸びており――次の瞬間、勢いよく収縮した。



「ガッ!?」



 獣の身体が宙を舞い、和装の少女の下へと引き寄せられる。

 彼女は自らに迫る巨体を眺めつつ、懐からそっと長方形の紙を取り出した。

 桜の花弁が押された、小さな栞だ。



「葛の葉、銀の華――」



 紡がれる涼やかな声に合わせ、桜の花弁が脈動する。

 そうしてやがては栞そのものを震わせるまでになったそれを、和装の少女は獣の方向へと突き出して、



「――《種子たねつまみ》。えいっ」



 どう、と。

 その言葉、その詠唱を紡ぎ終えた瞬間、栞から蔓の群れが飛び出した。

 最早津波とも言うべきそれは瞬く間に獣の胴体を呑み込むと、そのまま捻じれ、雑巾のように固く絞り上げて行く。

 ぶちぶちと肉が潰れる音が響き、蔓の隙間からぼとぼとと黒ずんだ体液が落ち。ようやく流動が終えた時には、獣は包みに入った飴玉を彷彿とさせる姿になっていた。


 しかし和装の少女はその惨状に眉一つ動かさず、むしろ満足そうな頷きをひとつ。

 そして束られた蔓をひと撫ですれば、その動きに呼応しゆっくりと蔓が緩まり、ぼとりと黒い塊を吐き出した。


 絞られ、無惨な肉塊となった獣の死骸……ではない。

 それは獣とは似ても似つかない、小さく可愛らしい仔犬であった。



(怪我は……させていませんね)



 和装の少女――華宮葛はなみやかずらはそう息を吐き、気を失っている様子の仔犬を抱き上げる。

 その黒い毛並みは小刻みに震え、酷く魘されている事が窺えた。



(ごめんなさい……)



 先程襲われていた少女を見れば、そちらもやはり気絶していた。

 恐怖と嫌悪に精神が耐えられなくなったのだろう。意識が無いにもかかわらず、呼吸は未だ乱れたまま落ち着く様子は感じられない。


 葛はそんな彼女に痛ましげな目を向けると、その横に仔犬を横たえる。

 そしてまたも栞を取り出し何事かを呟いた途端、そこから生まれたスイカズラの華がとろりと蜜を垂れ落とす。


 淡く、そして暖かに光るそれは、ゆっくりと少女と仔犬の口に落ち――やがて、彼女達の呼吸が安らかなものへと変わっていった。



(……やはり、許しておけない。こんな事――)




 そんな様子に安堵しつつも、葛の心中には小さくない怒りが渦を巻き、燐光となって周囲に散る。

 黒髪に差されたヒスイカズラの髪飾りが、その輝きを青く照らし返していた。




 ■




 古来より。この世界には幾千、幾万もの『異常』が在るとされている。


 それは物理法則や世界の在り方を凌駕した、超常のもの。

 人間は勿論、自然と共に生きる野生動物でさえも適合する事の出来ない、強大で不定形の事象。


 例えば魔法、例えば神話、例えば魔物、例えば呪い――――例えば、怪異。


 古今東西世界各地。それらは長きに渡り人の想像や獣の恐怖の裏に張り付き、時に悪辣な魔物や災害として立ち塞がり、時には良き隣人や道具として手を握る。

 当然ながら日本の地にも怪異とそれを鎮める霊能力者という形で顕現し、長い歴史の裏側で人知れず攻防を繰り返していた。


 ――その中にあって、一際大きな力を持つ家が六つ。


 華、酒、稲、魂、舞、刻。

 怪異に捧げ鎮める六つの供物の字を冠し、千年に渡り日本を支え守護する力、その具象。


 奉納六家。

 葛の属する華宮の家はその一つ、死者を悼む『華』を捧げる一族である。




 *




「――で、また出たんだって?」



 とある学校、とある一室。

『地域伝承研究会』というプレートの掲げられたその部屋に、剣呑な声が響いた。



「はい、仔犬を素体とした妖魔が一体。昨夜遅くに本校の女子生徒を追いかけ回していましたよ」


「まーた強姦魔紛いかよ。多くねーか最近」



 妖魔。それは世に蔓延る怪異の一つにして、生物学的には決して存在し得ない獣の事。

 世間一般においては空想のものであるそれも、この場に居る少女達にとっては見慣れた現実の一つでしかない。

 昨夜起きた一件の顛末をすました顔で語る葛に、対面に座る金髪の少女は不快感を隠さず溜息を吐いた。



「同じようなの、これでもう四連続だぜ? 流石に続きすぎだって」


「ええ、何らかの意思が裏にあるような気はしますね。それもきっと、ろくでもない類の」



 葛は頷き、この一週間ほどを振り返る。

 昨夜彼女が解決した、妖魔が女性を襲う事件。それと同様の事件が、ここ数日の内に頻発しているのだ。

 確かに妖魔が性的な被害を齎す事は珍しくはないが、その対象は人間だけではない。

 基本的に生物は同じ種にこそ欲情するものであり、そして昨夜の妖魔は何の変哲も無い仔犬が『何らかの理由』で変容したものだった。であれば、襲う対象は雌犬や似た形をした獣の類が道理だろう。

 だが件の妖魔は他の獣に目もくれず明確に人間の女性を狙い、それが連続。

 二度ある事は三度あるが、四度となれば中々ない。『何らかの理由』に、人間の劣情じみたものを嗅ぎ取るには十分だった。



「……やっぱ誰かが動物を妖魔に変えて、女を襲わせてるのかね。何でだ」


「さて。単なる性癖と片付けるのもイヤですが……すごくすごく、イヤですが……」



 だって華の女子高生。動物と人とのアレソレなど、流石に守備範囲外に過ぎた。

 とはいえ、他に思い浮かぶものも少ない。葛と金髪の少女は共にゲンナリ黙り込み。



「――練習、してるんじゃない?」



 横合いから小さな声が割り込み、二人揃って顔を向けた。

 そこに居たのは、小学生と見紛う程に小柄な女子生徒だ。手に持ったコップの水――なんだかアルコール臭のする――を指でくるくるとかき混ぜている彼女は、感情に乏しい声で続けた。



「そういう力があるけど、うまく使えない。ので、ワンちゃん達で練習します。でも失敗続き……みたいな」


「……どんな力で、何をするつもりかってのは置いといて、本命は人間って?」


「わかんない。けど、あるんじゃないの」



 小柄な少女はそれきり口を閉じると、コップの水――どうしてかアルコール臭のする――をちびちびと啜り始める。

 しかし葛と金髪の少女は気にもせず、暫しそれぞれ黙考し……やがて同時に首を振った。



「わかんね。今考えてもダメなやつだなこりゃ」


「ええ、キチンと調査しなければ……おっと」



 そしてひとまずそう決めた時、葛の携帯端末が小さく鳴った。遅刻防止のアラームだ。

 思ったより話し込んでしまったらしい。葛はすぐに会話を切り上げると、己の荷物をまとめ始めた。



「後ほど話を詰めましょうか。あまりのんびりしたくもないですしね」


「ならこのまま続けようぜ、授業より優先だろ」


「……そういう訳にもいかないでしょ。霊能者であると同時に学生でもあるんですよ、私達」



 葛は真剣な表情でそう言い残すと、金髪の少女とコップに新たな水――やっぱりアルコール臭のする――を注ぎ始めた少女を置いて立ち去った。

 残った二人はそんな真面目な様子に溜息一つ。葛を抜きに話を続けた。



 ――『地域伝承研究会』。それは衆目を誤魔化す為の仮の名だ。

 その実態はここ南歌倉高等学校に属する学生霊能力者の有志による、私設対怪異組織である。


 所属会員は現三名。


『華』の一族。華宮葛。

『舞』の一族。金髪の少女こと、幸若舞こうわかまいしおり。

『酒』の一族。小柄な少女こと、酒視心白さかみしんぱく


 強大な霊力を誇る奉納六家の血統である彼女達は、学生の身であれど確かな霊能を持った実力者。

 またそれに相応しき志も宿している。

 全員が誰に命令されるでもなく自主的に集い、ここ南歌倉およびその周辺地域一帯の霊的防衛を成していた。


 無論、全ては内密に。

 一般市民の中に、彼女達の行いを知る者はまず居ない。


 その整った容姿により三人それぞれ噂の種になっていたが、それだけだ。

 霊能力者としての顔は悟らせる事も無く、表向きにはそれなりに普通な女子高生。


 世間に隠れ、悪辣な怪異妖魔の手から人々を救うその姿は、まるでどこぞの正義のヒロインのようでもあった。



 ……だが、だからこそ。

 そんな高潔で、真っ白な少女達だったからこそ、まずかったのだろう。



 ――彼女達の中に、ムッツリの耳年増が居なかった。

 きっとそれが、まずかった。




 *




(……さて、何から調べましょう)



 校舎一階、一年A組。

 相当の余裕をもって授業の準備を終えた葛は、周囲に流れるクラスメイト達の談笑の中、一人静かに黙考する。


 動物を妖魔へと変え、女性を襲わせる何者か。

 葛はその下手人に心当たりは無かったが、さりとて完全な暗中模索にあるという訳でもなかった。


 これまでに襲われた被害者や、妖魔へと変えられていた動物たちや、被害現場の調査など。

 手がかりとなるものは多くあり、取れる手段も様々だ。

 下手人の存在が頭にある今ならば、改めて調べれば何かしらの情報が見つかるかもしれない。


 ……それと、他にも一つ。

 以前から少しだけ、心に引っ掛かっていたものもある。



「……!」



 すると、ふと目を向けた窓の外。

 この教室棟に繋がる道の端に、丁度その『心に引っ掛かっていたもの』が見えた。



「…………」



 そこにあったのは、ふらふらと校舎へと向かっている男子生徒の姿だ。


 異常にやせ細った体つきと、ぎょろりと蠢く血走った瞳。覚束ない足取りも合わせ、遠目に見ればまるで幽霊のような佇まい。

 あまりにも不気味なその雰囲気に、周りの生徒達どころか近くに居た用務員のおじさんすら気味の悪いものを見る視線を向けていた。


 ――天成社あまなりやしろ


 葛と同じくこの学校の一年生であり、C組に属している生徒だ。


 クラスが違う事もあり特に接点は無いが、葛は以前より彼に若干の注意を向けていた。


 その様子が尋常ではないという事もある。

 しかし最も気がかりであったのは――彼から僅かながら霊力のようなものが漂っていたからだ。


 それ自体はおかしな事ではない。

 一般の生まれで霊力を持つ者は多くはないが、希少という訳でもないのだから。


 だが葛は、社の放つそれが普通の霊力とはどこか違うものであるように感じていた。


 何やら邪であるような、それでいて清らかでもあるような。よく分からない気配。

 気のせいと言われればそれまでの些細な違和感ではあったが、葛に小さな疑惑を抱かせていた。



「……いい機会、か」



 この際だ。手がかりの調査と並行し、彼について深く調べてみても良いかもしれない。

 葛は鋭い瞳で社を見つめ、そっと桜の栞を握り込んだ。




 *




 霊能力とは、限られた者達の血に宿る『異常』の力。

 世のあらゆる法則を捻じ曲げ、破り。千差万別の異常現象を引き起こす。


 例えば発火。例えば凍結。或いは身体強化に自己再生。


 それは個人の資質に大きく左右されるものであり、完全に同一の能力を持つ事は無い。

 性質として似通う事はあれど、それぞれが自分だけの異能を持っているのだ。


 葛の持つ霊能は、霊力により創り出した植物を自在に操るというものである。


 生み出せる植物に制限はなく、またそれにある程度の異能を持たせる事も可能であった。

 植物の蔦に伸縮性を持たせたり、また小さな華からバケツ一杯ほどの蜜を溢れさせるなど。戦闘に使えるものから雑事にまで、行える事は多岐に渡る。


 そしてその霊能を用いれば、要注意人物の監視など実に容易いものであった。






「ぅぅ……ぅぐぅんぅ……」



 のたりのたり。ずるりずるり。

 小さな呻き声を上げながら、天成社が昼休みの廊下を這いずり回る。


 そんな蠢くゾンビのような彼の姿を、窓際に並ぶ鉢の花々がじっと見る。

 葛の生み出した、監視の『目』となる能力を持った植物だ。


 校内の各所には予め葛の植物が多数配置されており、有事の際に機能する。

 今回は社の動向を窺うべく、校舎内の監視の役割を持つ植物全てが彼を追い、遠見という形でその生活風景を葛の脳裏に映していた。


 そして彼が何かしら妙な行動をすれば、即座に拘束する用意もしていたのだが――。



(……なんか、普通ね?)



 そう、午前中いっぱい観察してみたのだが、特に問題点は見当たらなかった。


 否、振る舞い自体はやっぱり不審者極まりないものではあるのだ。何か呻くし、気持ち悪いし。


 だが変な事は何もしない。

 屍のようにずっと席から動かず、クラスメイトからは腫物扱い。

 墓石のようにじっと授業を聞き、教師からも空気のように扱われ。

 昼休みにはゾンビのように廊下を這い進み、途中で用務員のおじさんにぐちゃっと踏まれて「ア゛ッ」と鳴く。哀れだ。


 まぁ挙動的にはどうあれ、学校の過ごし方に限ればおおよそ一般的な生徒のそれであるのは確かである。



(ううん……でも、妙な気配もやっぱりある)



 そしてじっくり観察した分、彼の持つ独特な気配の質が多少は掴めた。


 例えるならば、妖魔と植物の匂いとでも言うべきか。

 葛にとってはある意味同等に親しんでいるそれらが、彼から漂っているのだ。



(妖魔の匂い……でも、悪意とかはまるで感じられないし、多分自覚もしていない……というか植物とは……?)



 己と同じく、植物に関する霊能でも持っているのだろうか。

 改めて社を見つめてみるも、分からず。


 ……色々と不気味でおかしい社だが、今の所は何もしていない。妖魔や悪人と決めつけるのも気が引ける。


 やはり、暫くこのまま監視を続けるしかないだろう。

 葛は上下に彷徨わせていた栞を下ろし、そう決めた。



(もう少し様子を見て、何かあったら直接接触してみましょうか)



 そうして、死にそうな顔でまた這いずり始めた社から目を離さないまま、葛もひとまず地域伝承研究会の部室へと向かったのだった。


 ……ちなみに、社の向かった先は食堂や購買では無く、校舎裏にある花畑。

 何故かそこに飛び込み出て来なくなった彼を、またも通りがかりの用務員のおじさんが気味悪げに眺めていた。意味不明である。




 *




「めんどくせーからぶん殴って吐き出させようぜ」



 昼食がてら社について聞いたしおりは開口一番そう提案したものの、当然採用される筈も無く。

 結局このまま葛が監視を継続し、残りの二人が過去の事件の再調査を行う運びとなった。


 もっとも再調査に関しては二人の間でも既に決まっていた事らしく、聞けば他にも葛抜きで行動計画が組まれていた。

 どことなく疎外感を感じ、葛の頬が膨らんだ。



「……細かくメッセージ送ってくれればよかったのに」


「授業中はスマホ禁止とかいって見ないだろお前」


「いちいち休み時間待ってたら進まないしね。ムダムダ時間」


「うぐぐ……」



 図星である。


 優等生であろうとする葛に反し、しおりと心白は様々な意味でマイペースだ。

 授業のサボりや喧嘩、何故かアルコール臭のする謎の水の常飲など、葛ですら注意を諦めたその素行は不良学生そのものであり、そんな二人と歩幅が合わない事が多々あった。


 それでも何だかんだ気は合っていたのか、(すったもんだあった末)今ではよき親友関係を築けてはいるのだが。



「ま、そういう事だからさ。そっちはそっちで頼んだわ」


「ぼくらはちょっと手分けして回って来るから、あとよろしく」


「えっ、あ、ちょっと待ちなさっ」



 咄嗟に伸ばした葛の手をするりと抜け、しおり達は軽やかに窓から飛び降り走り去っていった。

 今日はもう学校に帰って来る事は無いだろう。



「……はぁ」



 溜息と共に窓を閉め、定位置の席に腰掛ける。

 彼女達の校則違反に今更何を言う気も無いが、こうして一人残されるのは些か気分が悪くなる。


 今回のような事は今まで何度もあった。

 そしてそんな時、葛はいつも小さくない疎外感を持っていた。



「…………」



 ちらと、取り出した栞を見る。


 この小さな栞は、華宮の血を持つ者が霊能を発揮する為に用いる霊具だ。

 紙の中央に圧された桜――御霊華と呼ばれるその花弁を火種とし、華宮の力は発揮される。


 ――そう、火種。


 華宮の受け継ぐ霊能とは、本来は炎に纏わるものだ。

 慈悲、浄化、告別。それら三つの意を重ね、華炎として神や怪異に捧げ鎮めるための力――。


 ……にもかかわらず、葛に宿った霊能は植物の力。

 華宮のものでありながら、その華炎を受け継ぐことが出来なかったのだ。


 幸い、それで一族から迫害を受けたという事は無かった。

 一族の誇る霊能と違う力を授かるという事例はそう珍しいものではなく、何より彼女の力も形は違えど『華』に通ずるものであったからだ。


 しかし、華宮の人間としては。


 元は『火葛かずら』であった名前からも『火』が削られ、ただの『葛』となった。

 霊能力の鍛錬内容も他の家族とは違い、炎の絡まない別種のものが用意された。


 それは炎と相性の悪い植物の力を持った彼女に対する、家族からの心配りではあったのだ。

 葛もそうと分かっていたものの、それでも一族から一人切り離された印象は拭えず、見限られているのではないかと疑心暗鬼を生じてしまう。


 成長した今でもそれは変わらない。

 特に友人にも置いて行かれた今のような状況ともなると、その気持ちが強く呼び起こされ、疎外感と混じり合って際限なく落ち込んでいく――。



「……だめだめ。悪い癖、悪い癖」



 頭を振ってネガティブな感情を追い払う。


 今はコンプレックスでうだうだやってる時では無い。

 葛は努めて心を落ち着かせ、瞑目。静かに掌中の栞を握り潰した。


 すると瞼の裏で何かが繋がり、脳裏に別の場所の景色が映し出される。先程も使った植物による遠見の術だ。


 映すものは当然ながら社の姿。やはり何故か花畑に突っ込んだまま蠢くだけで、未だ移動する様子もない。

 何かしらの変化があればすぐに伝わるようになっていたので、本当にずっとそのままだったのだろう。



(……会いに行くんですか? これに?)



 正直すごく嫌だった。

 というか、ただただ挙動がおかしいだけで霊的には何もしてない訳だし、ほっといてもよいのでは……?


 そんな逃げの思考が広がるが、しおり達に任された以上は無責任な事は許されない。

 葛は先程とは別の意味での溜息を落とし――その時、社が花畑の中から立ち上がる姿が見えた。


 一瞬葛に緊張が走るが、どうやら単に教室に戻るだけのようだ。

 時計を見れば、確かにそろそろ昼休みも終わろうかという頃合いだ。いち生徒としては本当に真面目ではあるらしい。



(ううん、一体どういう人なのか……、ん?)



 ふと、視界の端にまたも通りがかる用務員のおじさんの姿が見えた。

 彼は社をやはり気味の悪いものを見る目で眺め……やがて、すれ違い様わざとらしく肩をぶつけて立ち去った。


 でっぷりと太った中年の身体に、骨と皮だけの身体が耐えきれる筈も無い。

 社は堪らず派手にひっくり返り、またゾンビの呻きを小さく漏らした。



「…………」



 そのあからさまな、そして大人げない嫌がらせに、葛の眉間にシワが寄る。


 確か彼は、社の監視中に度々現れていた用務員の筈だ。

 思えば彼はどのタイミングでも社に対して不快感を向けていた。単に社を気味悪がっているだけなのかもしれないが、それにしても今の行動は行き過ぎたものに見えた。



(……冷静に考えると、少しおかしいわね。あの人)



 振り返ると、かの用務員は監視の目に映り込む頻度が高い事に気が付いた。

 つまり嫌っている筈の社の周囲に自ら近づいているという事で、若干の不自然さが葛の勘に引っ掛かる。


 彼も社の違和感を感じ取っているのだろうか。

 葛は地面で蠢く社の姿を眺めつつも、去り行く用務員の背をちらりと追った。




 *




 午後の授業を終え、迎えた放課後。

 葛は一人、用務員室へと向かっていた。


 仲間と合流しようにも、しおり達は未だ戻らず、返って来たのは調査中とのメッセージだけ。

 監視していた社も、帰りのホームルームが終わった直後机に突っ伏したまま動かなくなってしまったため、教室から人気が無くなるまでは接触を待つ事にした。


 そのため、先に用務員のおじさんへの聞き取りを行う事にしたのだ。

 重要な情報を持っているとも思えないが、何かが出れば儲けもの。少なくとも、ただ時間を潰すよりはいいだろう。



(本当にただ気に喰わない生徒に意地悪しているだけだったら、無駄足も良い所だけど)



 もしそうであったなら、社の担任教師にでも報告しておこう。

 葛は小さく鼻を鳴らすと、辿り着いた用務員室の扉を叩く。用務員が一仕事終え部屋に戻っている事も、監視の目により把握済みである。


 この学校の用務員室は現在では非常に珍しい住み込み式のものであり、生徒からの干渉を避けるためか校舎の隅にひっそりと配置されている。

 放課後という事もあり、人気の少ない廊下にノックの音が残響し――やがて、扉の隙間から青帽子を被った男性が顔を出した。



「……はい、なんですかね」



 監視の目で見たままの、でっぷりと太った中年のおじさんだ。

 唐突な訪問者に訝しげな顔をしていた彼は、葛の姿を認め目を丸くした。



「あぁ? なんでここに……」


「突然の訪問失礼いたします、一年A組の華宮葛と申します。本日はあなたにお尋ねしたい事があり、参りました」



 礼儀正しくそう告げれば、用務員のおじさんは何故か焦ったような表情となり、きょろきょろと周囲を窺った。



「……聞きたいって、何をだい」


「一年C組の天成くんの事です。彼に対するあなたの態度に、少し疑問がありまして」


「あ? あ、ああ、そうか。それか……」



 そう答えれば反対にどこか安堵したように息を吐く。

 そんな不自然な様子に葛の目が鋭く細まるが、用務員のおじさんは気に留めず、数瞬考えた後用務員室の扉を大きく開き、手招いた。



「君が聞きたい内容はまぁ、分かる。ただ話が長くなるから、部屋でしねぇか?」


「…………」



 用務員のおじさんの目が色を帯び、葛の全身を舐め回す。


 思ったよりも最悪なおじさんだ。

 葛は沸き上がる生理的な嫌悪感を堪えつつ、開かれた部屋の中を睥睨する。



(……くさい……)



 汚く、雑多。中年男性の生活感と体臭の籠った部屋。そして――僅かに感じる妙な気配。

 葛は暫し迷った後、掌の中に栞をそっと隠し持った。


 そして一切の油断慢心なく、部屋の中へと足を踏み入れ――。



「――オラッ! 催眠ッ!!」



 ……直後。響いたのは、そんな声。


 驚きも、疑問も、何も無く。

 背後で閉じられた扉の音を最後に、葛の意識は暗転した。




 *




「へ、へへ、なんだよ、簡単じゃねぇか……」



 動きを止め、ぼんやりと佇む葛を前に、用務員のおじさんは下卑た笑みを浮かべた。


 目前で手を振ろうが、肩を揺すろうが、葛は虚ろな表情のまま身動ぎの一つもしない。

 そんな人形のようになった彼女に、用務員のおじさんは満足げに頷き――その時、葛の手から栞が落下。


 反射的に霊能力を使用したのだろう。スイカズラの華と蔓を生やしたそれを、用務員のおじさんは嘲りと共に蹴り飛ばす。

 乱れた花弁の隙間から、甘い香りの蜜がとろりと床に流れた。





 用務員のおじさんは、催眠おじさんである。


 いつ、どうしてそうなったのかは語らない。

 生きる内に用務員となり、ある日ふと遥か祖先のとある大淫魔の血が覚醒し、催眠能力を持っている事を自覚した。それ以外の背景など知る必要のないおじさんだ。


 そして彼は、その催眠能力を己の人生を華やかにするために使おうと思い立った。

 当然だ。人を自在に操れるこの力があれば、何だって出来る。金も地位も、全てが自分の望むままなのだ。


 そして彼が手始めに求めたのが、己の性欲を満たす事。

 つまりは女性を洗脳し、いいように辱める事である。中年のおじさんの性欲は凄いのだ。


 ……ただの用務員のおじさんであった時から、彼には目をつけていた少女達が居た。


 清楚系美少女、華宮葛。

 ギャル系美少女、幸若舞しおり。

 不思議系ロリ美少女、酒視心白。

 学校でも指折りの美少女である三人組だ。


 これまでは妄想で彼女達を穢す事が精々だった。

 だが、この催眠能力があれば、その妄想を現実にする事が出来る。催眠おじさんは文字通りイキり勃った。


 そうして意気揚々と催眠を施しに行こうとして――そこでようやく、葛達がただの小娘で無い事に気付いたのだ。


 異能に目覚めたからこそ分かる、力強くも清廉なるオーラ。

 彼女達が霊力と呼ぶその威圧感に、勢いで襲っていい相手では無いと催眠おじさんは悟ったのである。


 とはいえ彼女達を諦める気も無く、催眠おじさんはその日から入念に準備を行う事とした。

 バレないよう人間相手を避け、犬や猫などの動物を対象に、催眠能力をより巧く使えるよう、そしてどこまでの事が出来るのかの実験を何度も繰り返したのだ。


 弱い催眠であれば、自意識を残したまま行動だけを操れる事。

 逆にあまりに強い催眠をかけると、対象の肉体が化物のようになってしまう事。

 実験を通し、催眠おじさんはよりハイレベルな催眠おじさんへと進化していった。


 そして化物と化した実験動物に対処する葛達の姿も見た彼は、更に念を入れ己の存在感を消す小細工も行った。


 催眠能力に目覚めた時より、催眠おじさん自身も小さいとはいえ妙なオーラを放っている事は自覚している。

 だが幸運にも彼は天成社という存在を発見した。そしてその周辺をうろつき、隠れ蓑として利用したのだ。


 外見や素行と同じく、気持ち悪い雰囲気のオーラを持つ彼。催眠おじさんの気配を隠すには十分役立ったようで、葛達は社の方に気を取られていた。

 ついでに中々葛達を襲えない苛立ちも八つ当たりとして社へとぶつけつつ、催眠おじさんはチャンスを待ち――。


 そして、今日。絶好の催眠プレイ日和が訪れた。






「いきなりで焦ったが、随分と都合の良い展開になったな……」



 ブツブツと独り言を呟きながら、催眠おじさんは扉の鍵をしっかりと閉める。


 突然用務員室に現れた時はすわ己の力がバレたかと慌てたが、見当違いの件で助かった。

 おかげで上手く隙を突き、最高の状況を整えられた。もはや邪魔者も入るまい。



「にしても中々役に立つじゃねぇか、あの気持ち悪いガキもよ」



 お礼に暫くは八つ当たりを止めてやろう。

 そんな事を思いつつ、催眠おじさんは虚ろな目をした葛の尻を鷲掴み、揉み込みながら部屋の奥へと誘導する。無論、悲鳴の一つも上がらない。



「おっほ、ぷりんぷりん♪」



 そうしてビールの空き缶やゴミを蹴散らしスペースを確保し、ハリの良い尻を叩いてその中央へと押し出した。



「へへへ、さーてまずはどうしてやるかね。やりてぇ事は山ほどあるんだよなぁ」


「…………」



 実験よろしく、メス犬やメス猫にして躾けてやるか。

 それともベタ惚れの恋人にしてみるか、或いは従順な奴隷にしてみようか。

 いや、優等生ぶったこの顔を下品なものに歪ませてみるか。いやいや、淫乱なポーズを取らせてみるか。いやいやいや、それより――。



「……ああめんどくせぇ! とりあえず脱げ! ああでも制服で……いやいい最初はスタンダードだ! オラ脱げ脱げ!!」


「…………」



 雌伏の時が長かったせいか、欲望が溢れ纏まらない。

 とはいえ、時間はたっぷりとある。ひとまずは葛の肢体を純粋に堪能する事とし、目を皿のようにしてその脱衣を注視する。



「うほおぉぉ……!」



 一糸纏わぬ姿となった彼女の身体は、まるで美術品のようだった。

 形よく纏まった美乳、すらりと流れるくびれ、そして小ぶりに引き締まった臀部。

 くすみの無いまっさらな肌と艶やかな黒髪のコントラストも美しく、催眠おじさんも辛抱堪らず脱衣せざるを得なかった。



「はぁっ、はぁっ、はぁっ」



 だるんだるんのだらしない腹に濃い体毛。かわりに薄い頭頂部。

 既にかなり興奮しているのか息は荒く、ビキビキと震える怒張が黄ばんだブリーフを押し上げる。


 汚い身体だ。

 だがこの身体に、葛の純潔は穢されるのだ。

 そう考えるだけで、催眠おじさんの怒張がよりおぞましく張りつめた。



「はぁっ、へへッ! オラ、お前のファーストキスは鈴の口ッ! ホラ、ホラァ!!」


「…………」



 そうして屈ませた葛の瑞々しい唇の前で、彼はシミの広がり始めたブリーフを勢いよくずり下げて――。




 ――バァン!!




「うおッ!?」



 突如、用務員室の扉が轟音を上げた。

 咄嗟に催眠おじさんが振り返れば、施錠した扉が大きく歪み、鈍い軋みを上げている。


 見れば蝶番ごと外れかけているようで、催眠おじさんの怒張がしゅるしゅる縮んだ。



「な、なん――、ひっ!?」



 歪んだ扉の隙間から指が生え、力任せにこじ開けた。

 鍵が壊れ、蝶番が吹き飛び。ただの板となった扉が倒れ、部屋のゴミを圧し潰す。


 そうして強引に開け放たれた扉の先に――彼はふらふらと揺らめいていた。



「ぅぅぅ……ぅぁぁぁ……」



 天成社。

 やはり骨と皮のみのゾンビのような身体でもって、彼はそこに立っていた。



「てめ……どうして……!」


「うぁ……ぁぁぁ……」



 催眠おじさんが唾を飛ばして問いかけるが、やはりまともな答えは返って来ない。

 裸の葛にも見向きすらせず、ぼたぼたと涎を垂らしながら部屋を漁り始めた社に、催眠おじさんのこめかみに青筋が走った。



「チッ、どうやってドア開けたのかは知んねぇがよ、やっぱ全然役に立たねぇわお前。混ぜてやる気もねぇしクソほど邪魔だから死んどけや――催眠ッ!」



 苛立ちのまま掌を社へと向け、催眠を放つ。

 これで社は自死への道を歩む。催眠おじさんはニタリと笑みを浮かべ、改めて葛へ向き直る。



「ぅ……ぁぁ……」


「は?」



 が、再び聞こえた呻き声に、すぐ振り向いた。

 そこには先程と変わらず揺れる社が居り、自殺する様子も無くぎょろぎょろと目を蠢かせ、部屋の内部を漁っている。


 催眠能力が全く効いていない――催眠おじさんは酷く顔を歪め、激昂した。



「ふざけんなよ、俺の催眠は絶対なんだろうが……! オラ催眠! 催眠んッ!!」


「……ぁぁ……ウう?」



 しかし幾度発動しようとも、やはり社に効果が無い。傍から見れば、おじさんが何やら喚いているだけだ。

 そうしてムキになって何度も繰り返す内、流石の社も視線を向けた。状況を反芻するかのように、ブリーフ一丁の催眠おじさんと全裸の葛を見比べる。



「クソッ、なんでだ!? オラ催眠ッ! 催眠ッ!! 催眠ンンンッ!!!」


「……ァァ、ぁー? あぁー……」



 数分の時が経った後、社もようやっと状況を理解したようにぱちくりと瞬いた。

 そうして、ぼやけた瞳の焦点が徐々に合っていき――。





「――あっこれ催眠おじさんモノだ!! ヤダーーーーーーーッッッ!!!」





 カッ!!

 絶叫と同時に彼の両眼から光が溢れ、催眠おじさんと葛を照らし出す。



「っ、ぐおお!?」


「…………っ」



 それは強烈に二人を炙り、その影を抜く。

 しかしそれ以上何も起きず、やがて光も収まった。



「な、なんだ……? クソっ、もういい華宮、直接あいつぶち殺せ!!」


「――――」



 催眠がきかないのは業腹だが、それならそれで強力な霊能を持つ葛に処理させればいい。

 少なくとも、彼女にそれが出来るだけの力がある事は、催眠おじさんも把握していた。



「――――」


「あァ!? どうした、あのガキ殺せっつってんだろ! オラやれ早く!!」



 しかし、葛は動かなかった。


 否、動いてはいる。

 わなわなと肩を震わせ、強く拳を握り締め。その白い肌を耳の先まで真っ赤に染めた。


 何かの力を使う前兆か――そうふんぞり返っていた催眠おじさんだったが、段々と様子がおかしい事に気が付いた。

 ……待て、その仕草は、そう、まるで。



「……お、おい。華み――」


「……こ、の……っ」



 ぎりぎり、と。

 どこからか異音を立てながら、葛がゆらりと振り返る。


 その瞳は激怒と屈辱に燃え、幾筋もの涙が流れていた。

 噛み締められた奥歯からは先の異音が鳴り響き、零れそうな嗚咽を無理矢理押し込めている。


 ――催眠が、完全に解けている。



「ッ!? さ、催眠!!」



 何故、どうして。

 そんな疑問を抱く前に、催眠おじさんは再び葛を催眠する。

 だが、



「……この……この……このッ……!」


「はぁ!? なんで、っ催眠! オラ催眠!! 催眠だっつってんだろぉ!?!?」



 出来ない。

 何度試みても催眠がかからず、葛の動きが止まらない。

 先程まで容易く扱えていた筈の能力が、一瞬の内に消え去ったかのよう。

 その事実が、催眠おじさんの自尊心をこっ酷く打ちのめした。



「ちっ、畜生!! 催眠だよ! 催眠されろよぉ!! なぁ!? こんな、俺が催眠できないとかダメだろ――ひぃ!?」


「このっ、このッ!!」



 葛の全身から膨大なオーラが――霊力が噴き上がり、脱ぎ散らかされていた彼女の衣服から無数の蔓が飛び出した。

 仕込まれていた大量の栞が、葛の霊力にあてられ起動したのだ。


 そして当然、その全ては葛の怒りに導かれるまま激流の如く荒れ狂い――。



「――このッ、下衆がァァァァァァァアアアアアッ!!!」


「ぎ、ぎゃああああっがぶぉんぐげれががんむぐぎびぃぎみぎぎぃぃぃッ……!!」



 一切の情け容赦なく、催眠おじさんを呑み込んだ。


 部屋自体を破壊しながら暴れ回る強靭な蔓は、おじさんの身体を締め上げ、肉を潰して骨を外す。

 飴玉の包み紙のようになったその内部より汚い悲鳴が漏れるも、葛の怒りは収まらない。



「ひっく、ぐすっ……わあああああああああああああああああああッ!!」



 叩き付け、圧し潰し、捩じり伸ばして振り回し。

 葛は大声で泣き喚きつつ、滅茶苦茶に蔓を暴れさせ続け、そして、



 ――ぷちゅ、ぷちん。



 ……何か。

 男性においてとても大切な何かが二つ潰れたような音が、蔓の中より小さく響き。

 そこでやっと、蔓の暴走が収まったのだった。




 *




「ふーっ、ふーっ、ふーっ……!」



 葛は力尽きたように座り込み、荒い息を繰り返す。


 霊力の使い過ぎによる疲労。激怒による動悸。その他様々な我を忘れた代償がのしかかる。

 しかし一際大きく彼女の身を震わせるのは、ただの恐怖だ。



(こわ、かった……! すごく、すごく、気持ち悪い……!)



 次から次へと涙が零れ、止められない。震える身を縮こませ、しっかりと己を抱きしめる。


 催眠されていた時の事は全て覚えている。

 動けず、疑問も抱かず、ただ成すがままに凌辱されようとしていた。それが心底恐ろしく、おぞましい。



(み、みられて、さわられて……あまつさえ、あんな汚いのを……う、おぇ……)



 葛は嘔吐きを抑えつつ、下手人を封じた蔓の柱を怯え混じりに睨みつける。


 呻き声すら上げられなくなっているようだが、おそらく死んではいないだろう。

 かといって五体満足のままにしたつもりも無く、このまま放置すれば死に至るのは間違いない。



「う、うぅぅぅぅぅ……!!」



 ……心情的にはどうあれ、殺してしまう訳にもいかない。あんな下衆でも人間なのだ。


 葛が渋々と蔓の柱に触れると、その部分から幾輪かスイカズラの華が咲き出した。

 その身にたっぷりと湛えられた花蜜には、葛の霊力が宿っている。多少の治癒と精神安定の効果があるそれを、催眠おじさんが巻き込まれているであろう場所へ雑に振りかけておく。


 とりあえずこれで死にはしないだろう。死には。

 葛はそれきり逃げるように視線を逸らすと、己が未だ裸である事を思い出し、そそくさと衣服を拾い上げ、



「――ぅぅ、あぁぁ」


「っ!?」



 その時背後から聞こえた声に、背筋が凍った。


 反射的に振り返れば、そこに居たのは天成社。

 先程は理性があったように見えた彼は、何故かまたもゾンビのように虚ろな状態へと戻っていた。

 しかし一点。その瞳にはギラギラとした光が宿り、明確に捕食者の貌を見せている。



「あ、ぁ、忘れ……っやぁ、だ、ダメ!!」



 我に返った葛が両手で身体を隠せば、それが合図となったのだろう。

 社は大きく身を屈めると、まるで獣のように跳躍。葛の方角へと飛びかかる。



「ゥオアァアアアアアア!!」


(は、や――)



 いつも見せている緩慢な動きが嘘のような俊敏さ。


 最早、霊能による防御も反撃も間に合わず。

 葛はただ、こちらに手を伸ばす社の姿を眺める事しか出来なかった――。




 *




「――おい、葛が襲われてるってのマジで間違いねぇんだな!?」



 校舎一階。

 人気の無い廊下を駆け抜けながら、しおりはすぐ前を走る心白へ怒鳴った。



「言ったでしょ、さっき霊力を感じたの。結構ハデハデな反応だったから、面倒なのが相手なのかも」


「調べてた天成って奴か? あーくそ、こっちに付いとくべきだったな」



 互いに焦りを滲ませつつ、しおりと心白は葛の下へと急ぎ走る。


 二人が学校での異常に気付いたのは、今より十数分ほど前の事。

 授業をサボり手分けしての調査を行っていた際、比較的学校の付近に居た心白が荒れ狂う葛の霊力を感じ取ったのだ。


 これはただ事ではないと察した心白は、すぐにしおりと合流。学校外の調査を引き上げ、葛の助力へと向かったのである。



「向こうからの連絡はまだ無しか?」


「んースマホも霊力もダメダメ。ゼンゼン気付いてないっぽい」


「そんだけだったら良いけどな!」



 葛の霊能はどちらかと言えばサポート向きのものであり、直接的な戦闘に優れている訳では無い。

 もし、彼女が連絡も出来ない状態にされていたら――しおりの焦燥が更に大きなものとなり、速まる足が心白の背中を追い抜いた。



「道、こっちで合ってんだよな!?」


「うん、この廊下を抜けた先――うわ」



 そうして走る内、扉の大破した用務員室が見えた。

 明らかに戦闘の痕跡の残るその光景に、二人は瞬時に警戒態勢。それぞれの霊具を構え、しおりが先行して用務員室へと乗り込んだ。



「葛ァ! 無事――」



 そして目に飛び込んだ光景に、彼女の動きが止まった。



「…………」


「……どったの? カズちゃんは……」



 続いて覗き込んだ心白も、部屋の内部を目にした途端しおりと同じく動きを止める。



「――あ、二人とも来てくれたんですね」



 まず目に付いたのは今まさに心配していた葛の姿。

 どことなく疲れた様子で衣服を整えている彼女には大きな怪我も見当たらず、しおり達へと安堵からくる笑顔を向けている。


 次に見たのは大きな大きな蔓の柱。葛が戦闘の際によく使う、攻撃と拘束を兼ねた使い勝手のいい霊能だ。

 これがあるという事は、何かしらの戦いがこの場であったのは間違いないだろう。


 ――で、最後。



「ああっ、アァンアッ! おいしい、おいしい、みたされる……ッ」



 その蔓の柱に抱き着き、スイカズラの蜜を一心不乱に啜っている眉目秀麗な少年・・・・・・・が一人。こいつが分からない。

 全く見覚えが無く、それでいて異質な存在感を放つその姿に、しおりと心白の頭は困惑に占められていた。



「あー………………と、どういう状況……?」



 しおりは長く言い淀み、やがてそう問いかける。

 対する葛は無言のまま、蜜を啜り続ける少年を静かに見つめ。


「……さぁ?」と。釈然としない表情で、ぽつりと零した。

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