忘れられた聖女とひとりぼっちの薬師

雉子鳥 幸太郎

第1話

 荒らされた畑を見て、短くため息をついた。

 噛み跡のついた薬草の食べ残しと、そばに落ちたフンの形を見て、野兎の仕業だなと首を振る。


「よりによって、希少なラクテウスブルーか……まいったな」


 明日はモーレスさんのところに卸しに行く約束だというのに……。

 この地域固有のローズマリーの変種であるラクテウスブルーは匍匐性で、とても鮮やかな蒼色の花をつける。観賞用としても人気があるが、薬効も他の種に比べて高い。


 お茶にしたり、料理のスパイスとしても使われるため、かなりの需要があるのだが、近場の森では中々見つからず、まとまった量を採るには、沢近くの岩場まで足を伸ばさなくてはならなかった。


 目を細めて空を見上げる。

 まだ陽は昇ったばかりだ。でも……行くなら早い方がいいな。


 僕は気持ちを切り替え、急ぎ支度をすませて森へと向かった。


    *


 木漏れ日の中、足早に沢へ向かっていると水の流れる音が聞こえてきた。

 ふいに、山の歩き方を教えてくれた父の言葉が脳裏に浮かぶ。


『シチリ、山を甘く見ちゃだめだ』


 父には色々な事を教わった。


『晴れていても雨が降ると思え』


『慌てるな、まずは深呼吸をしろ』


『迷ったら動くな、方角を調べるのが先だ』


 ……ふふ、懐かしいなぁ。

 父の言葉を道しるべにして、在りし日に想いを馳せた。


 他にもハーブや野菜の育て方、薬の煎じ方に獣の罠の掛け方や家の大工仕事……。

 まだまだ、教えて欲しいことはたくさんあったのに。


 母の死がきっかけで、父は薬師を目指したと言っていた。

 僕は母のことを覚えていない。


 写真が残っているが、顔を見ても懐かしい気持ちにはならなかった。

 ただ、こんなに綺麗な人が僕のお母さんだと思うと、嬉しくて仕方がなかった。


 父に叱られた時は、よく写真の母に慰めてもらってたっけ……。

 あの頃のことが少し照れくさく感じるのは、僕がいくらか大人になったからかも知れないな。



 音のする方向へ茂みを抜けると、一気に視界が開けた。

 瑞々しく澄んだ空気、陽光に輝く美しい沢が姿を見せる。流れる水は透き通っていて、まるで泳いでいる魚が宙に浮いているように見えた。


『いいか、沢は境界線だ。決して越えちゃ駄目だぞ?』


 幼い頃から、ずっと口うるさく言われてきた。


 父からハッキリと理由は教えてもらえなかったが、向かい側にある国有林は、大昔から立ち入りが禁止されているらしく、今でも時折、王都から見回りの使者がやってくるそうだ。


 大きな岩の上に飛び乗り、僕は沢の向こうを眺める。


「こんなに綺麗な場所なのになぁ……」

 皆はあの森を『禁忌の森』と呼んでいた。


 ぴょんと岩から飛び降り、僕はラクテウスブルーを探し始めた。

 が、やはり数が少ない。


 この辺りはどうにも採り尽くした感があるな……。


 探索範囲を広げ、小一時間ほど探してみたが、まだ必要量の三分の一しか集まっていなかった。

 折角、モーレスさんが仕事を振ってくれているのに……。


 きっと、約束の量が集まらなかったとしても、モーレスさんは笑って許してくれるだろう。

 だとしても、一度失った信用は取り戻せない。


 今の僕が仕事を貰えてるのは、生前、父がコツコツと積み重ねた信用のお陰だ。

 それを僕が潰すなんて許されないし、それに……きっと、どこからか見守ってくれている父と母に情けない姿を見せるわけにはいかなかった。


「慌てるな……まだ時間はあるさ」


 僕は大きく深呼吸をして、よしっと気合いを入れ直した。



『ピィイイイーーーーーッ!』



 突然、笛の音のような甲高い音が響いた。


 ――何だ⁉


 咄嗟に身を屈め、大きな岩に身を隠した。


『ピィイッ!』


 あれは……。

 音の方を見ると、そこには木々の隙間に角が絡まった牡鹿が暴れていた。


「可哀想に……」


 あのままじゃ、熊や狼に襲われるかも知れないな……。

 助けてやりたいが、鹿は沢の向こうだ。渡るわけにはいかない。


『ピィッ! ピィーーーッ!』


 悲痛な鳴き声が続く。

 僕は心を鬼にして薬草探しに戻ろうとした。


 だが、鳴き続ける牡鹿の姿に、どうにも耐えきれなくなってしまった。

 鹿は沢の近くだ。

 助けてすぐに戻れば誰にも見つからないはず……。


 ――だけど、もし、祟りや災いが起きてしまったら?


 いや、神様もきっと命を救うためなら許してくださる、うん、きっとそうだ。

 自分にそう言い聞かせるが、足が動こうとしない。


 大丈夫、いける。いけるさ。


 嵌まった首を外してやるだけだ。すぐに戻れば大丈夫。


 そして、何度目かの牡鹿の鳴き声と同時に、僕は岩陰を離れた。


 心臓がドキドキする。

 緊張でじっとりとした汗をかきながら、牡鹿の側まで一気に駆け寄った。


 僕を見た牡鹿は危険を感じたのか、もがき始めた。


 僕は牡鹿を宥めるように、

「大丈夫大丈夫、すぐに外してやるからな」と、鹿の背中を撫でた。


 体が熱い……かなり体力を消耗しているのがわかる。


 鹿は頭ごと木枝に絡まっていた。

 かなり強く暴れたせいで、首筋にうっすら血が滲んでいる。


 幸い、角に絡んだ枝の方は細い。これなら僕でも何とかなりそうだ。

 枝をしっかり持って足を掛け、思い切り引っ張った。


 何本かの枝を折り曲げ、絡んだ角を外してやると上手く首がはずれた。


「おぉ! ははは! 良かったなぁ!」


 鹿が首を振り、何か言いたそうにこっちを見ている。


「どうした、お前も独りかい?」


 牡鹿に話しかけると、茂みの奥からツガイらしき牝鹿が顔を覗かせた。

 そして、二匹はぴょんと跳ねるように森の奥へ消えてしまった。


「お幸せに……僕なら大丈夫さ、ひとりは慣れてるからね」


 あのまま見捨てていたら、きっと後悔しただろう。これで良かった。

 ふと、沢を渡ったことを思い出す。


 ――まずい、戻らないと。


 引き返そうとしたその時、視界の端にラクテウスブルーの蒼い花が見えた。

 思わず足が止まる。


 前のめりになったまま、茂みの向こうに群生するラクテウスブルーに目を向けた。

 頭の中で警鐘が鳴っている。


 だが、冷静に薬草の数を数えている自分がいた。

 ざっと見ただけでも二十はある。


 手付かずの群生か……。

 あれだけあれば明日の納品分は十分に間に合う。


 しかし、ここは禁域指定の森だ、一刻も早く戻らなくては……。


 沢近くの岩に足を掛け、元の森へ戻ろうとする。

 だが、次の瞬間、僕は沢に背中を向けて走っていた。


 いけないことだとはわかっている。


 でも……どうしても間に合わせたかった。

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