第5話 おかえりなさい

風が優しく頬を撫でたような感覚が確かにあった。少し冷たさを含んだその風は、頬に当たるとうっすらうっすら赤色の町に溶け込んでいく。何回かそれを繰り返すと、寒さに震えた私の意識は、気づけば夢の中から現実へと浮上していた。

何回か短めの欠伸をこぼした後、もうすっかり夕焼けに染まっている空をぼんやり眺める。

どうやら今日も夏芽さんは不在のようだ。本当にいつになったら帰ってくるのだろう。急に高天原に呼び出されて、こんなに帰りが遅くなるくらい夏芽さんは何かやらかしてしまったのだろうか。いや、彼女がそんなことをするはずがない。だとしたら、他の神様たちと宴会なんかをして私の存在などすっかり忘れてしまっているとか……。

そんな気がしなくもない。なぜなら、神様であるはずの夏芽さんをこれでもかといじり倒した日があった、というか毎日いじっていたから。やはりそれが原因で急に高天原に行ったのかもしれない。私がその可能性にガクッと肩を落として落胆したその時。


「ええっ!? どうやったらそんな解釈になるの!」


ああ、懐かしい。たしかに夏芽さんはよく透き通った声で私にこんな感じでツッコミをしていたっけ。ホロリと涙が溢れそうになる目尻に指の腹を押し当て、グッとせき止めて我慢する。

けれど、会いたいがために幻覚や幻聴までもが見えたり聞こえたりするのはさすがに重症すぎないか。自分で言うのもなんだが、夏芽さんのこと好きすぎでは。


「え? そ、そう? えへへっ私も百合ちゃんのこと大好きだよ」

「わあ、幻覚に都合のいいことまで喋らせてる……」

「ちょ、いやいや私は幻覚じゃないよ!」

「幻覚が幻覚を否定してる」

「ややこしいよ!」


なんで信じてくれないのー! と、地団駄を踏む私が作り出した幻覚の夏芽さん。……いや、幻覚かもしくは、玉藻前が夏芽さんに化けて出てきたという可能性もあるかもしれない。


「は? 嫌だ、嫌だ。一緒にしないでよ私とあの狐を」

「口悪いなこの夏芽さん……」

「このって……だから私は百合ちゃんが作り出した幻覚でもなんでもない、正真正銘の夏芽です!!」


そんな同じようなことを、説得力もないのに何回も言われても。約一週間もこの神社で待ち続けていても全然姿さえ見せて貰えなかったのだから、急に現れて「夏芽です」と言われたって信じられるわけが無い。そこんとこ分かっているのだろうか、この幻覚は。

夏芽さん(?)は、なぜ怒られているのと困惑しながらも、ずっと納得させる方法を考えていたようで、ある時突然ポンと手を打つ。不思議な会話を続けること数分にして、ようやく名案が降りてきたみたいだ。何をするのだろう。内心楽しみになってきている私に、幻覚なのに心を読んだのかそこ楽しまないと鋭いご指摘がビシッとささる。仕方ない、もし彼女が変な行動をし始めてもそっと見守っておこう。そう思いながらそっと夏芽さん(?)の動向を見守る。

彼女は私から一度距離をとると、何を思ったか大きな声で何かダジャレを言って! とムチャ振りをしてきた。いやいや、急にダジャレを言ってと言われても困るのだが。第一、なぜこんなタイミングでそんなバカげたことをしなければならないのか。

私は彼女の発言に理解に苦しんだが、何やら必死そうな様子なので、今パッと思いついた渾身のダジャレを恥ずかしさを捨て真顔で言い放った。


「夏めな詰め物」

「ぶはっ」

「その笑い方……! 本当に夏芽さんだったんですね……おかえりなさい」

「え……うん。一度百合ちゃんには私をどこで判断してるのか聞く必要があるみたいだね」


どこってもちろん笑い方ですが。

今回のダジャレは少し難しかったかなと思ったのだが、意外と頭の回転が早い夏芽さんはすぐにぶはっと吹き出した。そのおっさんのような笑い方に、なるほど彼女はこれをやりたかったのかと納得し、私はこの夏芽さんが自分で作りだした幻覚では無いと気づき安心と喜びに溢れた。と、素直にそう伝えれば、それまで笑っていた彼女は微妙そうな表情でただいまと返事をする。やはり、今回のことで決定付いたが、夏芽さんといえばダジャレに対して全身全霊で笑い転げることだと思う。普通の人は(人ではないけれど)あんなにツボが浅いことはない。きっと神様ということも含めて彼女は特殊なのだ。うん。


「ちょっとバカにしてるよね!?」

「してないです」

「して……!」

「ないです。……というか、そんなことよりもなんで一週間音沙汰なかったのに、急に帰ってこられたんですか? てか、あっちで何してたらこんなにかかるんですか。おかげで話すこといっぱいたまってるんですからね」

「ちょっと近いよ百合ちゃん! 圧が怖い! 話すから、話すから一旦落ち着いて!!」


夏芽さんのタイムにより、私は一度座って落ち着かされる。夏芽さんはゼェゼェと肩で息をした後、ちょこんと私の横に腰掛けた。いや、むしろ夏芽さんの方が落ち着くべきなのでは。そう思ったが、面倒くさかったのであえて口には出さなかった。相手は彼女だし、勝手に心を読んで理解してくれる。現に今だってさっそく心を読んだのかじとっと見つめてきている。……面白いので、気づいていないことにしよう。


「……」

「ちょ、無言でほっぺ抓らないでください。いひゃいれふ」

「ふふ」


そんなくだらなくも懐かしい遊びをしばらくしていると、気が済んだのかようやく夏芽さんが話す体制に入る。ピシッと居住まいを正してこちらを向くものだから、私も慌ててピシリと緊張で体を強ばらせた。

と、そこで私は同じように夏芽さんの帰りを心配そうに待ち続けていた猫又さんと天狗さんの存在を思い出す。今日はまだ来ていないが、おそらくこの町の中にはいるはずだ。


「あ、あの。天狗さんと猫又さんも呼んできていいですか? 夏芽さんのこと心配してたので」


私は緊張で固まっていた体を無理やり動かし、すくりと立ち上がった。話を遮るようで申し訳ないが、きっと今から話される内容は彼らも聞いておいた方がいいものだ。そう思ったのだが、彼女はだんだんと顔を俯かせ陰りを見せる。


「あー……うん。えっと実はね…………もう、私にそんなに時間は残されていないんだ」

「…………え?」


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