ハルカヒビク

将野ササ

第1話 タチバナ

○ タチバナ

私はあまりクラスで馴染めない。小さい頃からそうだった。

そんな私が心惹かれたのは同じクラスの「橘遥」だった。彼女は私と違って人気があった。誰にでも分け隔て無く接し、顔もよく見ればかわいい。成績も良く先生達からの評判も申し分ない。だが、私には彼女が孤独に見えていた。友達は多いが決まったグループに所属していることもない。本当に(誰とでも)仲が良かった。それは酷く浅い物に私は見えた。

私が彼女に興味を持っていると感じたのは中間テストの時期だった。今まで彼女と特別仲の良かったわけでもない連中が「ノートを貸してほしい」だの「ここを教えてほしい」だの次から次に彼女の元にやってきた。私はひどい苛立ちを覚えた。友達が多いことへの嫉妬からではない。彼女がイヤな顔一つせず皆に笑顔を振りまいて対応しているからだ。

『そいつらはあなたを良い様に利用しているだけだ。なぜそれが分からない? 私なら、普段からあなたともっと仲良くできる』

おかしい。なぜ自分がそんなことを考えているのか。橘遥とは数回言葉を交わしたことがあるぐらいの間柄。知り合いというのすらおこがましいかもしれない。彼女と同級生の間の浅い友達関係を咎める権利は私には一切無い。でも、私は、私だけは彼女の孤独を分かっているただ一人の人間の様な気がしてならなかった。皆は彼女のことを苗字の「橘さん」と敬称付きで呼ぶ。あだ名はない。私はそれも気に入らなかった。

「橘」

夜、犬の散歩をしている彼女を見つけ、そう私が声をかけた時、彼女は少しだけびっくりした様な表情を浮かべた気がする。突然声を掛けられたからか…それとも…



 夜一人で散歩に出るのは日課だった。女の子一人で散歩は危ないと毎日母に言われる。だが今のところ危ない目にあったことはなかった。コースは日によって違うのだが、家の裏に流れる河川に沿って歩くことが多かった。川から漂う少し潮臭い香りと、河川敷に生い茂る雑草の青い土っぽい匂いが混じり合って私の心をなぜかノスタルジックな気分にさせる。

子供の頃の記憶だ。東京に来る前のこと。田舎の田んぼの畦道はここと同じ匂いだった。

東京に越して来て十年。あの田園風景は今はもうない。いつだか里帰りした時に寄ってみると田んぼは潰され綺麗な住宅街になっていた。あの場所の匂いを思い出す人間はきっともうこの世界に私しかいないのだろうと思う。幼少期に犬と散歩したあの道が。タニシや蛙をとって遊んだ用水路が。真っ赤な太陽が沈み、反射して煌めく田畑が。もう誰にも思い出されないのかと思うと、心臓を静かに握られるような鈍い痛みを覚える。寂しくなって泣きそうになる。だが、私はそんな感覚が嫌いというわけでもなかった。だからこうして毎夜散歩に出る。懐かしい記憶に縋り付いているのかもしれない。今という時間から逃げている様な。この目まぐるしい毎日から目を逸らす様な。

 私は変化に弱い。この十七年生きてきてそれは確信していた。

 クラス替えの時も、学年が変わる時も、学校が変わる時も、私は酷く怯えてなかなか一歩を踏み出すことができない。大概最初の二、三ヶ月は友達も出来ないままだ。仮に友達が出来ても、学校の間だけ。放課後遊びに行ったり、休日に会ったりはしない。それで良いと思っていた。学校生活に支障のない範囲で、それなりの、舐められない、いじめられない立場に身を置けるだけでとても安心していた。親友と呼べる人間がいなくても構わない。構わないというか、今までいないのだから居ない辛さなんて知らない。知りたくもない。そんな私がなぜ橘遥に声をかけたのだろう。声を掛けた後になって鼓動が速くなる。

「…境さん??」

橘遥のその敬称つきの返答に私の心は少し傷んだ。

「…何してるの?」

私は何を言っているのだろう。どう見ても犬の散歩をしている。それ以外の何者でもない。橘遥の手にはビニール袋とリードが、その先には白い中型犬が繋がれている。雑種だろうか? 田舎にいた頃は飼っていたが犬に詳しいわけではない。

「え…、ああ、犬の散歩」

そうとしか答えられないよね…。自分の会話の下手さに頭が痛くなる。

「…そっか。かわいいね」

私は犬の側まで寄るとしゃがみ込み、頭を撫でようと手を出す。

ワン!! 犬はそう一回大きく吠えるとグゥゥと唸って私を睨む。コイツ…

「こら! モモ! ごめんね。普段は大人しくて人懐っこいんだけど…」

フォローになっていない。

「フォローになってない…」

声に出ていた。

「あっ…ふふ、そうだね。ごめん。ふふふ」

橘遥は、笑ってそう答えた。

私だけに向けられたその笑い声があまりに自然で、その笑い顔があまりに美しくて、私の胸に風が吹いた。


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