第6話 未知へのカウントダウン

 

日野ひの先生は、『正義の味方』ですか」


 ちょうど一年前。

 どこか冷めた瞳でわたしに問うた少年は、いつから、屈託なく笑うようになったのでしょう。



  *  *  * 



六月むつきてめー、ブッ殺すッ!」


 カッと目を剥いた須藤すどうくんの右手に、サバイバルナイフ。

 彼がなにをするのかは、明白で。


 ――ザシュッ。


「あ……あぁ……あああ!」


 涙があふれます。

 無意味な言葉とともに、あふれて、止まりません。

 そんなわたしを、れいは満足げにふり返るのです。

 腹部を押さえた華奢な指のすきまから、鮮血を滴らせながら。


「おれ……逃げないよ。えらいでしょ?」


 否定のしようがありません。

 それはたしかに、教え子たちが、加害者と被害者となった瞬間でした。

 よろよろ歩み寄るわたしを、やんわりと手で制し、正面へ向き直る零。


「かゆいなぁ……まともにえぐったらどう?」


 まるで、お夕飯のメニューでも訊いているかのような声の調子でした。


「心臓でも突いてみる? ほら、ここ。第五肋間から、狙ってきなよ」


 薄笑いを浮かべた零は、右手をじぶんの血で濡らしながら、左手を胸に当てます。

 その異様な光景に、須藤くんがうろたえました。


「むつ、おま……」


「なにグズグズしてるの。殺すっていうのは口先だけ? おれを消さなきゃ、ふぅちゃんは手に入らない。あのヒトを愛したいなら、もっとおれを憎みなよ」


 一言一言を発するごとに、制服のシャツが紅のにじみもようを広げていきます。

 さして気にとめる様子もなく、矢継ぎ早に言葉を浴びせてくる零に圧倒されたのか、須藤くんは絶句。


「だよね。そんなもんだよ。キミの想いって」


 ちりん――……


 夕暮れにひびく鈴の音。

 須藤くんの後ろで黒猫が一匹、するりと、プールの飛び込み台へ降り立ちます。


「キミとのお遊びは、つまらない。終わりにしよう」


 優雅にしっぽを揺らす黒猫は、たしかに、零の声音で告げました。


「さぁ、これが、キミのごうだ」


 ちりん、ちりん――……


 零が軽やかに水面を飛び跳ねるたび、ひびく鈴の音。

 しなやかな足がふれた先から波紋が広がり、血のようにあかい空へ、渦を巻き上がります。


 にゃあ


 みゅう


 ウゥ……


 ニ"ャ"ア"ア"ア"!!


 おぞましい『なにか』の、うめき声をつれて。


「なん、だよ……アレ」


「これまでキミに殺められた猫たち。キミが犯した罪そのもの」


「――ッ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!! その目で俺を見るなぁッ!!」


 絶叫。発狂。

 須藤くんは、正気を失っていました。


「猫をおいといかい? それは何故?」


 須藤くんへ影がかかり、人形のように顔のととのった黒髪の少年が、のぞき込みます。


「キミの胸に、訊いてみようか」


「や、め……!」


「大丈夫、怖くはないよ。死にたくなるくらい、痛むだけだ」


 口端を三日月形に持ち上げた零は、後ずさる須藤くんの胸に、右手を当て、


 ズブ、ズブブ……


「うぐぁああッ!!」


 信じられ、ません。

 衣服が裂ける音も、皮膚が破ける音も、骨が砕ける音もなく……

 まるで底なし沼のように、須藤くんの身体が、零の手を飲み込んでいるのです。


「うっ……ぐ……ぁ、はっ!」


「痛い? 『あの日』刺されたふぅちゃんは、もっと痛かったと思うよ。おれは、キミが憎くてたまらない」


「っくぅ……みつ、ば……みつ……」


「あぁ、あったあった」


 ニヤリと笑んだ刹那、零は、手首まで浸かった右手を引き抜きます。


「ァ"ア"ア"ア"ッ!!」


「『玖』……九、ね」


 零の手のひらにぽうっと浮かび上がる、 『理玖りく』のふた文字。

 理玖。須藤くんの下の名前です。


「ごめんね。ふぅちゃんを助けるのに夢中で、うっかりしてたみたい」


 零がにこやかに言い放って、グシャリ、とふた文字を握りつぶしました。


「死ぬの、初めてだよね? おめでとう」


「あ……」


「今回は、ちゃんともらっておいたから」


 うつろな表情でひざをつく須藤くん。

 そこへ悠然と歩を進める零の腹部に、傷痕は、影も形もありません。

 けれど紅く染まったワイシャツが、『あったこと』を如実に証明しています。


 ふいに、零のしなやかな右手が伸ばされ、わたしは我に返りました。


「っ、零! 待っ……!」


「じゃあね。須藤理玖くん――だったヒト」


 ……血に濡れたような、茜空でした。


 トンッ……


 華奢な指先が、須藤くんの肩を後押ししするのを、わたしは、止められませんでした。


「未知なる世界へ、逝ってらっしゃい」


 憔悴しょうすいしきった須藤くんの身体は、惰性のまま、重力に従うほかありません。

 彼の背後には、無数の猫が呻き声を上げる渦が、迫っています。


 ……アノ子ガ、死ンデシマウ?


「……ば……」


 ハッと顔を上げた先で、うつろな視線と視線が交わります。


「……ふた、ば……」


 本能のままに、わたしを映す瞳。

 最期の一瞬まで、わたしを求める心。

 それはあまりに純粋で、一途で。


 彼を突き動かしていたのは、本当に、狂気だけなのでしょうか?

 いいえ、そうではないはずです。


 澄んだまなざしを目前にして、わたしが駆け出すのは、当然のことでした。


「須藤くん……理玖くんッ!」


 知りたくないなんて言って、ごめんなさい。

 わたしは、あなたのことを知るべきでした。


 黙って見ているだけは、もういや。

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