第4話「怒らないのですか?」



 ライリーは小川の近くに馬を止め、用意していたお昼をそこで摂った。

 こうして自然に囲まれた中での食事はとても新鮮で、いつもよりも食事が美味しく感じられた。

 途中、キャロルの不運が発揮され、小鳥にパンを奪われたこともあったが、ライリーはそれを見ても楽しそうに笑うだけで、嫌な顔をまったくしなかった。

 だから、だろうか。キャロルもいつになく笑っているような気がした。


 お昼のあと、辺りを少し散策することにした。

 久しぶりに鳥対策ではなく、本来の日除け目的で傘をさし、小川に沿って歩く。

 滑らないように気をつけながら川を覗くと、水が日の光に当たって反射し、水面にキャロルの姿が映る。


「魚はいないのかしら」

「魚は人の気配に敏感なんだ。だから今は岩場の影にでも隠れているんだろう。しばらく待っていれば、油断して戻ってくるかもしれないな」


 そうなのか、とキャロルはじっと水面を覗き込む。

 自分の不運さを考えればきっと魚を見ることはないのだろうけれど、隣には自称強運のライリーがいるのだ。彼がいれば、魚が泳ぐ姿を見られるかもしれない。


(そうだわ。ライリー殿下も一緒に覗いてくだされば、魚が見られるかも……!)


 ライリーに一緒に川を覗いてほしいと頼もうと背後を振り向いたとき、突風が吹いた。

 突然の強い風でよろけた体を支えようと踏ん張ろうとしたが、ちょうどその場所に大きな石があり、ズルッとブーツが滑った。

 そのままキャロルの体は後ろに傾き、川の方に吸い込まれるように落ちていく。


「──姫!」


 咄嗟にライリーがキャロルの手を掴んだが、キャロルの勢いを止めることはできず、一緒に川に落ちた。

 幸い川は浅く、キャロルはすぐに起き上がった。


「も、申し訳ありません……! ライリー様、大丈夫ですか?」


 ライリーはあの僅かな時間で自分が下になり、少しでもキャロルが濡れないように、怪我をしないように庇ってくれたのだ。

 キャロルは慌ててライリーの上から退き、彼の顔を覗き込むと、ライリーは申し訳なさそうに眉を下げた。


「こちらこそ、庇いきれずすまなかった。私はなんともないが……姫にお怪我は?」

「殿下が庇ってくださったお陰で怪我はありません。本当にありがとうございます」

「……礼は必要ない。情けないな……姫を川に落としてしまうなど……陛下や王太子殿下に信頼していただいていたのに」


 弱ったように言うライリーにキャロルは首を振る。

 ライリーはなにも悪くない。キャロルが油断したのと、不運さが発揮されただけだ。


「このままだと風邪をひいてしまう。今日はもう引き上げて帰ろう」

「はい……」


 全部、キャロルの不運のせいだ。

 さっきまでの楽しかったものが、まるでシャボン玉のように弾けて消えていく気がする。


(やっぱり断ればよかった……そうすれば、ライリー殿下がこんな目に遭うことはなかったのに……)


 やはり、キャロルは外に出ることは向いていない。

 キャロルの不運は周りに迷惑ばかりかけてしまう。


「しかし……こんなこと言うと姫に怒られそうだが……」

「なんでしょう?」


 できる限り服が吸い込んだ水を絞っていると、ライリーがぽつりと呟き、キャロルは首を傾げた。


「こんな体験、初めてだった。いやあ、なんとも楽しいな!」


 カラッとした笑顔でそう言ったライリーにキャロルは目を見開く。


「楽しい……ですか?」

「うん。川に落ちるなんて初めての経験だったし、こんなふうに濡れ鼠になるのも初めてだ。初めてのことは楽しい。貴重な経験をさせてもらえた」


 ありがとう、とお礼を言うライリーにキャロルは不思議な気持ちになった。

 なぜこんな目に遭っているのに楽しいと言えるのか。決していい思いはしないはずだ。それを貴重な経験だと言い、お礼まで言う。


 普通なら、文句の一つくらい言っても許される状況だ。いや、むしろライリーはキャロルに対し、なんてことをしてくれたのだと怒るべきだ。

 それなのに、怒るどころか笑っているライリーをとても不思議に思う。


「……怒らないのですか?」

「怒る? なぜ?」

「だって、わたしはライリー殿下を川に落としてしまったのですよ? 怒るのが当然かと」


 心からそう思って尋ねると、ライリーは不思議そうに首を傾げた。


「わざとではないだろう? そもそも姫を助けようとしたのは私の意思だし、それに失敗した私が悪い。それで怒るのは、逆ギレというやつだ」

「ぎゃくぎれ?」

「巷で流行っている言葉で、本来怒るべきではない者が逆上するさまのことを指すらしい」

「そうなのですね……」


 そんな言葉が流行っているのかと感心したが、すぐにそんなことを感心している場合ではないと思い直す。


「でも、今回の件は、殿下が怒ってもおかしくは──くしゅん!」


 きちんと怒るべきなのだと説得しようと口を開いたものの、くしゃみが出てしまい、恥ずかしさのあまりに俯く。

 それをどう思ったのか、ライリーが慌てた様子でキャロルに近づき、手を引いた。


「すまない、姫。すっかり体を冷やしてしまったな……早く帰ろう」

「ですが……」

「話はあとでちゃんと聞く。風邪をひく前に帰ろう。私も鍛えているとはいえ、長い間冷たい服を着続けるのは堪える」

「……はい、そうですね」


 ライリーの言う通りだ。これでは本当に風邪をひいてしまう。キャロルが風邪をひくのは自業自得だが、ライリーはそうではない。

 それに、キャロルが風邪をひいたらライリーが父や兄に責められるかもしれない。それだけは絶対に避けなければならない。


 ライリーは自分の副官になにか言ったあと、キャロルの手をひいてビリーの元へ向かう。


「ビリー、すまないができるだけ早く城に戻りたいんだ。任せてもいいな?」


 そう問うたライリーにビリーは任せろと言うように鳴いた。それにライリーは頷き、すぐに乗馬の準備を整えてキャロルと一緒に馬に乗る。


「姫、行きよりも少し揺れるが、我慢してくれるか?」

「はい」

「ありがとう」


 ライリーはそう言うと、ビリーの手網を握った。

 そしてその言葉通り、行きよりもスピードをあげて走る。


 行きのとき、どれだけキャロルに気を遣って走らせていたのかがわかった。

 乗馬初心者であるキャロルでは、この速さで走られたら景色を楽しむ余裕なんて生まれず、ひたすらビリーにすがりついていただけだろう。

 速く走る分だけ揺れる。そのせいで、行きのときには痛まなかった腰が少し辛い。


 頬に当たる風が先ほどよりも冷たく感じるのは、体が冷えているせいなのだろう。

 今の時期が春でよかった。これが冬だったら、寒くて震え、こうして馬に乗ることさえままならなかっただろう。


 行きよりもだいぶ短い時間で城に戻る。

 ビリーから降りたライリーは、ビリーにお礼を言って撫でたあと、キャロルが降りるのを手伝ってくれた。


「ありがとうございます」

「うん」


 ニコッと笑ったかと思うと、ライリーは「失礼」と言ってキャロルを突然抱き上げた。

 唐突なライリーの行動に驚き、思わずその首に手を回す。


(これってもしかして……お姫様だっこ……?)


 本の中に出てくるお姫様は、よく王子様に横抱きをされている。それを羨ましく思っていたけれど、実際にされるのはひどく恥ずかしい。


「ラ、ライリー殿下……わたしは歩けますから、下ろしてください……!」

「いいからいいから」


 なにもよくない。

 下ろしてほしいと訴えるキャロルに適当な返事をしながら、ライリーは城の中に入っていく。

 出迎えたエフィは目を見張ったあと、うっとりするようにキャロルたちを見つめる。

 きっと、なんて素敵なのかしら、とでも考えているのだろう。


「事前に連絡が行っているとは思うが、姫が川に落ちてしまわれた。すぐに湯浴みと着替えを」

「はい、殿下からご連絡をいただき、準備は整えてございます。こちらへ」


 ライリーに話しかけられ、エフィはすぐにキリッとした表情を浮かべた。

 そういうところはさすがだと思う。

 しかし、その目はキラキラとしているので、あとで根掘り葉掘り聞かれるのは覚悟しなければならない。


「姫は私がお連れしよう」

「そんな……! 本当にわたし一人で大丈夫ですから、殿下もお着替えをしてくださいませ」

「私は鍛えているから平気だ」


 とりあってくれないライリーに困り果て、助けを求めるようにエフィを見ると、彼女はニコニコしていた。

 この様子ではエフィに助けてもらうのは無理だろう。

 他に誰か──と辺りを見回したところで、背後から「殿下」と低い声がした。


「なんだベン」


 ライリーにベンと呼ばれた青年は、目を釣り上げている。ベンはライリーの副官だと、挨拶のときに紹介された。年齢もライリーとそんなに変わりないらしい。

 あからさまに怒っている様子の彼に、ライリーは頓着ない。


「なんだではありません! いつまでそのような格好でいるつもりなんですか!」

「姫を部屋へお連れするまで、かな」

「部屋へお連れする? そのような姿で? キャロル姫もいい迷惑でしょう。それにそんなずぶ濡れの状態で城内を歩き回られるのも迷惑です。大人しく着替えてください」


 王子に対するものとは思えない物言いにキャロルは驚く。

 しかし、ライリーは気にした様子はなく笑っている。


「ベンは相変わらず細かいなあ」

「殿下が大雑把すぎるんです! さあ、キャロル姫もお困りのようですし、我々は与えられた部屋へ戻りますよ」


 早く、と促すベンにライリーはやれやれと言うように肩を竦め、そっとキャロルを降ろした。


「……この通り、ベンがうるさいので私は部屋に戻って着替える。姫も早く着替えて体を温めるように」

「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます。ライリー殿下もお体を冷やさぬよう、早くお着替えくださいね」

「ああ」


 ライリーはにっこりと頷くと、ベンに引き摺られるように部屋のある方へ歩いていく。


「仲が良いのですねえ、あのお二人」

「そうみたいね……殿下が風邪をひかれないと良いのだけれど」

「そうですね。ですが、姫様は他人の心配をする前に御自身の心配をなさってください。さあ、早く湯浴みを済ませましょう」


 エフィに促され、キャロルも湯浴みをするために歩き出した。

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