1章8節 再会と邂逅

喜佐美きさみくん。最近、自習頑張ってるね」


「気づいて貰えて嬉しいな。久留巳くるみさんもどう。私語禁止だけど、一緒にやってみようよ」


 数学の問題集とノートを持って喜佐美くんが階段に向かうのが見えたから。廊下にいるうちに急いで声をかけた。


 私の得意教科は数学だ。数学は中学から中央値を上回り続けているから、客観的にもできる方なはず。


 せっかく誘ってもらえたのだし。喜佐美くんに勉強を教えてあげたい。


 だけど私欲に走るのは後だ。もったいないし心残りだけど。私が奪ってしまった生徒会での活動の償いをするのが先だから。


「あの。生徒会のこと。ごめんね」


「気にしないで。久留巳さんが言ってくれるからこうやって毎日お話できるんだ。言いづらいことを、ちゃんと伝えてくれてありがとうっていつも思ってる。本当だよ」


 しまった。謝りたい気持ちが先に来てしまって、本題が伝えられる雰囲気じゃなくなってしまっている。


 でも、今こそが、生徒手帳に挟んでいる若草色のカードの出番なのだ。


「喜佐美くん。前の週末で取ったカードなんだけど、知ってる」


「わあ。救命講習の認定書だね。僕も持ってるんだ。折角だから見てみる」


 喜佐美くんは少し自慢気に、胸ポケットから取り出した若草色のカードを見せてくれた。彼なら知っているとは思っていたけれど、まさか自分で持ってすらいるとは。

 いつから持っていたのだろう。


 助けて貰う側の彼が救命講習を受けているのは意外だったから、手に取ってカードを眺めてみる。


 下の方にある認定年月日を確認すると、日付は二年前のものだった。


「どちらかと言えば僕は救護される側なんだけど。だからかな。助け合いは大事だなって思ってて。友だちと受けに行ったんだ」


 喜佐美くんが上級救命講習を受けていたのは意外だと思ったけれど。話を聞いて、彼にとっても当然のことだと理解した。


 誰かに助けてもらうこと。喜佐美くんにとっての当たり前だ。同じくらい、誰かを助けることも彼にとって当たり前のことなのだ。


「喜佐美くん。今から生徒会に行こう」


「えっ。今日はおやす」


朝野あさの先輩はいるはずだよ」


「僕もそう思うけど、用もないのにお邪魔しちゃ」


「あるよ。喜佐美くんが行きたいんだから行こうよ。朝野先輩だって、きっと待ってくれてる」


 そのために、このカードを手に入れたんだと喜佐美くんに伝える。彼の健康で楽しい学生生活を応援するのが、保健委員の私の仕事なのだから。


 感謝も謝罪も後に回して、私と喜佐美くんは二人で生徒会室に向かう。


 次の日からの学校生活は、目が回るみたいに忙しかった。


「久留巳さん。万洋君。ここから後の作業は時間もかかるし、明日に回して生徒会みんなで片づけましょう」


 はい。と私と喜佐美くんの声が重なる。二人で生徒会の仕事を一緒にこなしていく。一緒にいる時間が増えたこと以上に通じ合っているような心地がするのはなぜだろう。


 上級救命講習を持っていることが、喜佐美くんの健康的な生活にどれほど役立つか。朝野先輩と一緒に考えた内容で、担任や養護の先生にプレゼンをして回った。


 結果として、喜佐美くんは今もこうして生徒会にいる。


「二人へ個人的に話したいことがあるのだけれど。自習の時間を少しだけ貰っていい」


 椅子に並んで座る私たちを見て、朝野先輩は嬉しそうな顔をしている。嘘のない素直な人だから、きっといいニュースだというのはわかった。


「決まったわけではないけれど。一学期の様子を見て、喜佐美くんを正式な生徒会員として迎え入れるように。先生方と話は進めているの」


 一瞬だけ間を置いて、順調なら夏休み明けかも。と朝野先輩は言葉を続ける。


 目を見開いた喜佐美くんは言葉も出せない程に喜んでいるようだった。当然、私も嬉しい。


「おめでとう、喜佐美くん。頑張りが報われたんだね」


「僕だけじゃダメだったよ。久留巳さんが救命講習を受けてくれたこと。生徒会のみなさんが講習の内容を積極的に教わりに来てくれたこと。みんなのお陰なんだ。朝野先輩、次の活動でお礼を言いたいです」


「気が早い」


 決まったことではないのだからと、喜佐美くんは朝野先輩に釘を刺される。それでも、隠しきれない程の喜びが伝わってくる声だった。


「でも。みんな喜んでくれると思う。最初は喜佐美先輩への恩返しのつもりだったけれど、今では万洋くんを立派な仲間だと思っているから」


 喜佐美くんのために頑張っているのは私だけじゃない。


 朝野先輩も同じだ。彼女もほとんどの生徒会員を連れて上級救命講習を受けに行く計画を実行している。


 生徒会の予算を使わず、個々人の自主的な活動の範疇で収めた理由が今わかった。生徒会が喜佐美くんを正式なメンバーとして迎え入れたいという意思表示のためだったのだ。

 

 喜佐美くんがお礼を言うと告げた日、彼の机は朝からずっと空席のままだった。


「ごめんね。心配しちゃったでしょ。寝てる時にちょっと心臓の様子が変だったみたいで。かかりつけの先生にどうしても精密検査させて欲しいってお願いされちゃったんだ。学会でしばらくいないみたいだし、念のためにね」


「ホームルームの時に先生が心配ないってはっきり言ってくれてよかったよ。それまでクラスが騒ぎっぱなしだったんだから」


 クラスのみんなも心配するだろうから、様子を見に行ってこいって先生に言われたんだ。と続けて、カバンから取り出したプリントを喜佐美くんに渡す。


「この通り元気でしょ。なんでもないように見えるよね」


 笑って話しかけてくれる喜佐美くんに、私は思いっきり嘘をついている。


 職員室で大騒ぎする私を見かねて、担任の田辺たなべ先生が気を利かせてくれた。プリントを渡すという口実で、お見舞いに行くのを許してくれたのだ。


 退院した喜佐美くんに伝わりませんように。こっそり今も祈っている。


「そうだ。学校から出て、そのままお見舞いに来たんだっけ。だから、今日の授業の話もついでにどう」


「ありがとう。すっごく助かるな」


 喜佐美くんの反応もいいみたいだ。早速、教科書を取り出そうとしたけど。勢いよくドアが開く音にびっくりして手が止まってしまった。


 振り返ると入り口のドアがスルスルと閉まっていくのが見える。ということは、開けた本人はもう部屋の中にいるわけだけれど、目の前にはどこにもいない。


 個室とはいえ、病室だからそんなに広いわけじゃない。後に見られるところは後ろしかなくて。


 振り返れば、涙を浮かべて喜佐美くんに縋りつく朝野先輩がいた。


「ごめんなさい。私がちゃんとあなたのことを考えていたら。喜佐美先輩とは違うってこと。わかってなかったから」


 狼狽えていて、心配で仕方ないから目のまえにある状況も頭によく入っていない。入院している喜佐美くんより、朝野先輩の方が心配になる豹変ぶりだった。


 職員室で先生に呼び出されるまでの私は、周りからこんな風に見られていたのか。今になってやっと気づく。


「ご心配いただきありがとうございます、朝野先輩。ご覧の通りまったく心配ないですから。生徒会のみんなに僕が元気だって伝えて欲しいんです」


 注射の跡を見つけたら、痛まないかと手を添える。涙をハンカチで拭われて、たどたどしくお礼を告げる朝野先輩。


 あんなに落ち着いて立派な生徒会長が我を忘れて取り乱している。夢を見ているような心地すらしてきた。


 喜佐美くんも驚いているようだったけれど。朝野先輩の不安を取り除こうと、自分へ投げかけられた言葉の一つ一つにゆっくりと答えている。


 朝野先輩の、たぶん二度と見られないだろう姿が目のまえに広がっていた。


 きっと凄いものを見せられている。でも、このまま部屋にいると朝野先輩に自分がいると気づかれた時とても気まずい。


 一旦ここから出て、朝野先輩が落ち着いたときに入り直すか。朝野先輩はどのくらい待てば落ち着いてくれるんだろう。


 悩んでいると後ろから誰かが入ってくる気配を感じた。


 振り返ると、ちょうど女の人が入って来るところだった。尋常じゃなく背が高かったからだいぶ驚いたけれど。朝野先輩と比べたらだいぶ落ち着いているようでありがたい。


 こちらの方へ振り返った彼女の顔立ちは、形容する言葉が見当たらない程に美しかった。


 喜佐美くんはともかくとして。朝野先輩と私。彼女はそれぞれに心当たりがあるようで、特に驚いた様子もなく私へ親し気に会釈をしてくれた。


 親しそうに微笑む表情に誰かの面影を感じるけれど、思い当たる節がない。


 背の順では後ろの方の私が見上げるほどの長身。初対面の私と、狼狽えている朝野先輩を目にして眉一つ動かさない余裕。


 一歩踏み出すだけでも美しい仕草を眺めていると、彼女が右手に持っていた荷物をそっと掲げて口を開いた。


「お待たせ万洋。プリン買ってきたから、看護師さんに見つかる前に食べちゃおっか」


「姉さん」


「きさ。み。せんぱい」


 喜佐美くんと朝野先輩には心当たりがあるらしい。私は蚊帳の外だったけれど、彼女が誰かはすぐにわかった。


「同じプリンではないけど、あなたたちの分まで用意してあるからね」


 笑った顔が、喜佐美くんそっくりだったから。


「病院って晩御飯の時間が早いんだ。生クリームとかちょっと食べてもらっていい」

「ほんとうにいいの。楽しみ」


 喜佐美くんがお姉さんである一海かずみさんから貰ったプリン。上に果物や生クリームが乗せられていてとても美味しそうだったから。分けてもらえるのがちょっと嬉しい。


 私や朝野先輩が貰った分は、一海さんが急遽病院の売店で買ってくれたものだ。これも十分甘くて美味しいけれど。


 喜佐美くんのプリンは口に入れる前から高級品とわかってしまうものだった。


 クリームの滑らかな舌触り。プチプチと弾けるような果物の歯ごたえ。爽やかな甘酸っぱい香り。プリンって、クリーム一つでこんなにも美味しくなるものなのかと感激している。


 美味しい美味しい。と二人でプリンを食べている間。やっと落ち着いてきた朝野先輩は一海さんに宥められていた。


ゆう。万洋のこと、とても良くしてくれて嬉しい。ずっとありがとうって言いたかった」


 一海さんに手を繋いでもらって笑顔で励まされている朝野先輩。いつもの余裕に満ちた朝野先輩とはまったく違っていて。二人が一緒にいた頃の在りし日の姿を知ったような気がした。


「不安だと思うけれど、大丈夫。私がいなくても、支えてくれる人はたくさんいるから」


「でも、先輩以上に心の支えになるものなんて」


「信じなさい。私だって、夕にはいっぱい支えてもらった。今のあなたが、一年前の私なんだから。助けになってくれる人はきっといます」


 喜佐美くんの言う通り、病院で夜ごはんが出てくる時間は早かった。


 邪魔にならないように朝野先輩と私は家に帰ることになったので。一海さんが病院の入り口まで送ってくれた。


 朝野先輩だけでなく私も一海さんと話すこともあったけど。当然、喜佐美くんの話なのでメチャクチャ緊張した。


「万洋のために頑張ってくれてありがとう。これからもどうか。弟のことを宜しくお願いします」


 一海さんは喜佐美くんの大事なお姉さんだ。


 喜佐美くんが一海さんを大事にしているように。一海さんも弟である喜佐美くんを心から慕っている。姉弟の心の繋がりがほんの少しの時間でも伝わってきた。


 一海さんのように素敵なお姉さんが、学校にいる弟さんを私に託してくれる。今までの全てが報われているようで、とても嬉しかった。

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