1章6節 だれかのためということ

「オマエさん、最近暇そうじゃないの」


「自習室で勉強してるんだ。一緒にどう」


「学校に来てんだから、勉強なんざ暇なときにやれよ。もっと青春しようぜ」


 休み時間の合間、喜佐美きさみくんと呉内の会話がクラスメイトの声に混ざって聞こえてきた。最後まで聞こえはしなかったけど、今の喜佐美くんなら呉内くれうちの誘いは断わるだろう。


 生徒会の活動を頑張る喜佐美くんに、彼自身の体調のことについて問い詰めてしまった。何かあってからでは遅いけれど。誰にも聞かれないようにしたけれど。私だって言いたくはなかったけれど。保健委員である私しか彼の体調を考えられる同級生はいないのだ。


 喜佐美くんのお姉さんが頑張っていた生徒会。尊敬している人と同じ場所で自分も活躍するという夢。どんな理由や言い訳を重ねても、彼の夢を私の発言が踏みにじってしまったことは変わらない。


「お待たせ久留巳くるみさん。ちょっと待たせちゃったけど、教室移動なら十分間に合うよね」


「うん。行こっか喜佐美くん」


 喜佐美くんは賢い。自分の身体の不安定さをよく知っている。


 喜佐美くんは優しい。私のお願いを聞いてくれて、あの後も親しく接してくれるのだから。


 養護の先生からも喜佐美くんからも感謝されている。けれど、彼が行動を大きく制限している理由は私にあって。感じている負い目が彼との関係にすきま風を吹かせていた。


 生徒会から足が遠ざかった喜佐美くんの行き場は、地下にある自習室だった。簡単な質問に答えてくれるチューターの方もいるけど、パーテーションで仕切られた机以外は何もない。機能しか考えていない殺風景な場所だった。


 朝野先輩や生徒会室を開く権利を持つ一部の生徒会本部員。彼らのような生徒を除いた大多数の一般人は、放課後の勉強を自習室で行う。


 大きなソファや、柔らかいクッション。広いテーブルを置いて過ごしやすくしている生徒会室とは真逆の空間。居心地のいい場所だとはいえないけれど、意外にも喜佐美くんは自習室を気に入っている。


「僕が姉さんの弟だってこと、先輩方はだいだい知っててね。初対面でもよくしてもらえることが多いんだ。だからかな、みんなが自分のことに熱中してる自習室が新鮮なんだ」


「無関心がいいってことなの」


「自分でも変わってると思う。ちょっとやそっとじゃ気にされないのが面白いんだ。病室だと何もしてないのに看護師さんが飛んでくることが多かったからかな」


 喜佐美くんは面白がっているけれど、私は気が気じゃない。万が一の事があった時、誰も彼の異常に気づけないかもしれないのだから。


 応急措置に使えるAEDはどの階も目に付くところに置いてあった。自習室と一階に繋がる階段を登ってすぐのところに保健室もある。それでも何か起こるんじゃないかと心配だから、最近は私も喜佐美くんから離れた机で自習することにした。


 今日は何をしようか考える。一度、単語帳を総ざらいしてみるか。普通に問題集を解くか。いっそ予習に挑戦してみるのもいいかもしれない。


 どういう勉強をすればいいのか。この問いは喜佐美くんと一緒に自習をするいい口実になるのではないかと思った。うまく進めば彼の役に立って、感じている気まずさを解消できるきっかけになるかもしれない。


 階段を駆け下りて自習室に行こうとしたけれど、不意にかけられた声に邪魔をされた。


「おう。ちょっと面貸せよ」


「呉内くん。何か用なの」


 意地悪そうに歪む瞳が私を睨みつける。自分から声をかけておいて、今いる段から一歩も下ろうとしない。マウントを取っているつもりだろうけど、下品な態度に委縮なんかする理由はなんかなかった。


「オマエと話すことなんざ一つしかないだろ」


 喜佐美くんのことで、ゴールデンウィーク前は呉内と何度もぶつかった。彼の体調のことを考えている私。病弱な彼を連れて好き勝手したいだけの呉内。みんなが、どちらを正しいと判断するか、火を見るより明らかだった。


 色んな人にずいぶん怒られて、最近は喧嘩を売ってくることはなくなっていたはずなのに。


「呉内くん。こんなことやってるとまた」


「反省文書かされるくらいでビビると思ってんのかよ。三年書き続けるくらい余裕だろうが」


 立てた三本指を煽るように振っている呉内は相当イラついてるようだ。自分から話しかけてきたくせに、一人で腹を立てる。自分勝手な男子だ。


 無視して自習室に入ってしまおう。呉内だって喜佐美くんからの印象を下げたくはない。調子に乗らせなければ、普通の対応しかできない。つまらない人間なんだから。


「私、自習しなくちゃだから。じゃあね」


「すまん。俺が悪かった。話し合いをしたいだけなんだが、今の態度は紳士じゃない。謝る」


 呉内が、誰かに向かって謝っているのを初めて聞いた。しかも、目にも入れたくないだろう私相手に自分の非を認めている。


「長々くっちゃべるつもりはない。頼む」


 階段を降りた呉内が廊下の壁に身体を預けて、口を閉じる。彼に私の意見を聞くつもりがあるのだとしたら、これも初めてのことだった。


「いいよ。他の生徒もいるから静かな場所に行こう」


 人の同意を取って、自分より先に相手の意見を聞こうとする。普通にできるべき誠意の見せ方という、らしくないことをする呉内を少しだけ信じてみたくなった。


 階段を登って、一階の廊下に出る。玄関に近いから音も散るだろうし、話し合いの場所には丁度いいだろう。


「喜佐美のこと、もうちょっと信じてみてくんねぇかな」


「ねえ結局いつも通りじゃん。保健委員降りろとか。喜佐美くんのこと放っておけとか。そういうこと言いたいんでしょ」


「ちっげ。いや、違うんだ。頼まれたことをやるのはいい。俺だってマジでヤベーならもちろん止める。だがよ。頼まれてもねえのに後ろコソコソつけ回すのは違うだろ」


 コイツ。私が誰のために。なんでここまで頑張っているのか。わからないらしい。

 他のみんなの邪魔にならないように、呉内を廊下の端まで引きずりだした後。彼のために私がどれだけ気を遣っているのか教えてあげた。


 最近の喜佐美くんの様子。頓服している薬の種類と時間。配置しているAEDの位置や各教室から保健室への最短ルート。


「呉内くんはさ、喜佐美くんのこと全然わかってないよね。そばに来たらいつも滅茶苦茶やってるばかりでさ。それで喜佐美くんに気を遣わせて。何もしてないのに謝りもしないで」


「お前それどうやって知ったんだよ。つーかよ。お前がどう思おうが、アイツのことはアイツの勝手だろうが」


 あまりの怒りに視界が歪んでいく。そんなに喜佐美くんのことを大事にしたくないなら。お前は彼のそばにいちゃいけない。


 思い切り振り上げた手が呉内の頬にめり込んだ。頬を赤く腫らしたまま殴られた相手は静かに言葉を続けていく。


「じゃあよ。オマエさん、アイツに何ができんだよ。頓服だのAEDだの、使い方くらい知ってて言ってるんだよな」


「それは」


「お世話係のつもりで保健委員の仕事やってんじゃねえよ」


 やっぱ痛えわ。と呟いた呉内は、そのまま背を向けてどこかに行ってしまった。


 喜佐美くんの身体が弱いのは呉内だってわかっているはずで。誰かが手助けしなくちゃいけないのは確かな事実だ。


 けれど。私が喜佐美くんのためにできることを考えても。本当に些細なことばかりしかできなくて。


 何ができるかを問いかけた呉内の言うことは、私の胸に深く刺さった。

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