第8話

しかし、その時にはもう、ミカエルはこの国にはいない。ただの放浪猫となっているだろう。ルネの涙を拭ってやることは出来ない。ネイティア家の騒動も、きっとどこか別の国で知ることになるのだ。ミカエルは1か所にはとどまらない。とどまれば、力比べが好きな面倒な連中に絡まれてしまうからだ。だが一応、家はある。深い森の中の誰にも見つからない場所に、魔法で建てた小さなウッドハウスがある。ミカエルは旅をしながら、寝泊まりする場所がないときには、そのウッドハウスに帰る、といった生活をずっと続けている。


 寒い冬が苦手なミカエル。元々持ち物が少ない彼に、まだ体が慣れてないこの時期の真夜中の寒さをしのぐ防寒具など持っているはずもなかった。ミカエルは魔法で自身の周りに暖かな空気の流れを作って、初冬の夜の道を急ぐ。向かうはネイティア家、ルネの部屋だ。

 彼女はきっともう眠っていることだろう。それでいい。言葉を交わしたら、本当に足が動かなくなってしまいそうだから。今だって、こんなにも惜しく思っているのに。


(ルネ。私がこれほど執着した人間は、君以外いないんだよ。君はきっと、私のこの思いに少しも気づいていないのだろうな。当然だ。私たちは明らかな境界線があって初めて落ち着いて話が出来るのだから)


 ミカエルはふっと笑って、ルネの部屋のベランダに降り立つ。この場所とも今日でさよならだ。一度だけこの場所で、話をしたことがあった。怪我の手当ての承諾をもらいに行ったときだ。彼女は最初こそ戸惑って怯えたように話していたが、最後には嬉しそうに頷いてくれた。あの時は嬉しかった。少しだけ、彼女との距離が縮んだような気がした。


 ミカエルが思い出に耽っている最中、突如何かが割れる鋭い音がした。



□□□□□□□□



 クロースティが乱暴に部屋のドアを閉めたその音で、ルネの意識は現実に戻された。ふとあげた視線の先で、割れた鏡が見えた。

 心も体も傷ついていないところがないくらいにズタズタなのに、継承者の証である髪と瞳は月明かりを浴びて嫌味なほど輝いている。

 そっと鏡に映る自分の姿をなぞった。


 「こんなものがあるから……」


 一度、トンと鏡に拳をぶつける。小さな鏡の欠片がパラパラと床に落ちた。

 もう一度、先程よりも強くぶつける。

 もう一度。

 もう一度。

 もう一度。


「っ、こんなもの……こんなもの、こんなものこんなものこんなものこんなものこんなものっ!こんなものっ!!」


 ルネは自分の拳が鏡の破片で傷つくのも構わず、叩き続けた。鏡に映る継承者の証がただただ恨めしくて、憎くて、ルネにとっては不幸の元凶でしかなかった。

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