四人目
長い間、頭の奥で埃を被って眠っていた過去の記憶が、陥没事故の要因を探っていくたびに、糸が解けるように仔細に思い出され、胸がすくかのような溌剌とした気持ちを抱いた。それは図らずも、漠然と続けていた記者という職業に就いた理由を判然にし、活力をもらったのだ。それは、にわかには信じ難い真実に手を伸ばす原動力となり、幾日かかろうと事故の背景を探る根気が、「小林一葉」よりあった。
「次は……」
だからこそ、次に話を訊く相手は慎重に選び、足並みを揃えなければならなかった。「小林一葉」は私にとって協力者であり、譲歩を悔やんで肩を落とすような真似はお門違いだ。たった一人の記者が突然、声を掛けてきてそれに快く応じる者などいないように、同じ事故の被害者を傍らに立たせて聞く耳を持たせるやり方は、人質をとり交渉のテーブルにつかせるようで忍びないが、私の懐刀として扱わせてもらう。
「牧田紀夫」
性別は男。年齢は三十五歳。会社勤めではなく、夜に営業を開始し酒を提供する店を持つ自営業者であり、今年で開店から五年余りの年月が経っている事から、町の憩いの場としてすっかり根付いているようだ。バーの主人を想像するに、外から来た人間を邪険にして排斥するような意固地な対応をするとは思えない。例えそれが、事故の顛末を記事にして作成する野次馬根性の持ち主だとしても。
「バストゥー」
どの言語にも属さない、造語を用いて看板にする「牧田紀夫」の拘りは、暗雲となって私の目算にのしかかる。どんな誘惑にも揺るがない、自身の主義に則って処理される光景が頭に浮かび、取材を口に出した瞬間、客という建前は剥落し、敢然なる態度と口吻で撥ね付けられる。これはあくまでも想像に過ぎないが、そんな気風が漂っているのだ。煌びやかに飾り付けを行わず、ひっそりと営業をする背景に、客の質を選別するような敷居の高さがあった。
「行きましょう」
私の躊躇いを気取った「小林一葉」が、背中を押した。仕方あるまい。ここまで来て踵を返すなどあり得ないのだ。古めかしい蝶番の鳴き声が来店の合図となって鳴り響く。カウンター席を中心に設置される淡い照明の光は、余計な焦点を与えずに落ち着いた雰囲気を作り出し、微かに聞こえる管楽器の音色がよく馴染んでいる。白いワイシャツに黒いエプロンを着けた服装と、側頭部を刈り上げて短髪に仕上げた髪型は、食品を取り扱うのに即した風采をしており、私が何気なく想像したバーテンダーの姿と全くもって齟齬がない。
「いらっしゃいませ」
極めて柔和な声の調子で客をもてなす、「牧田紀夫」の掛け声に甘えて、私はカウンターに座して目の前を陣取った。
「とりあえず、これを二杯」
取材の為とはいえ、何も頼まずに陥没事故を切り出すのは失礼にあたると思い、メニューの中から気まぐれに指で注文した。
「…….かしこまりました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます