傾聴

「小林一葉」はそう言って、背筋を伸ばした。


「どれくらいの規模の陥没だったんですか?」


 その切り口のなめらかさに我ながら惚れ惚れする。悟られては不味い。邪な好奇心を草の根に埋れるように横たえて、あくまでも咎めた怪我の案配から伸びる話題の延長として、言葉が出てきたと装った。


「そうですねぇ……。周囲六、七メートルといった所ですかねぇ。深さは二メートル前後」


 しかめた顔の険しさは、去来する事故の光景を捉えたからに違いなく、距離感を見誤って軽々に一歩踏み込めば、それは不快感に繋がり閉口を誘引するはずだ。


「災難だと言わざるを得ない」


 悲嘆を顔に湛えて、「小林一葉」が偶さか巻き込まれた事故への理不尽さを嘆いて見せる。益々、厚くなる面の皮に、顔を触れた指の感触が伝わってこなくなった。もはや誰の言葉なのかすらあやふやで、今の私は正に「赤の他人」


「でも、良かった。こんな風に話せて。皆、わたしに気を遣って、事故の事をまるでなかったかのようにするから、ストレスが溜まっての」


 互いに傷を付け合いたくないから、皮相をなぞるだけの歯の浮いた話に終始する。無難に人間関係を維持する事を念頭に置き、時間の解決を睨んだその手法は間違いではない。だが、私は取材を申し込んだ記者として、ここへ来ている。ひいては「小林一葉」の溜飲を下げる事に繋がるならば、万々歳だ。


「そうですか」


 心を許したと勢い余って、不用意な言葉をつらつらと並べる事なかれ。この喫茶店を出るまでは、思慮深く立ち回り、紳士さながらに身持ちを固めるべきだ。


「本当、この世界が崩壊したのかと思いましたよ」


 微笑する「小林一葉」の様子から、事故を一度咀嚼した後の軽妙さが伺えた。


「分かります。頭は取り残されて身体だけが連れていかれるような、喜怒哀楽は抜け落ちて呆然とする感覚ですよね」


 私の比喩に小林一葉は大きく頷いて、同調してくれた。


「瞬く間に目の前が暗くなって、自分がどこにいるのか全て曖昧になったんです」


 ジャケットの内側に忍ばせたボイスレコーダーが正常に働くように、なるべく上体を動かさずに話へ耳を傾ける。


「ほう」


 相槌を適当に打ち、取材という体裁を遼遠に追いやり、愚痴に付き合う卑近な立ち位置を装う。


「足に痛みを覚えつつも、顔を上げれば、空がいつもより遠くに感じるほどの落差に驚きました。周りにはトンネルさながらの凸凹とした壁が勃然と現れ、四面楚歌とはこの事か、と」


 悠然と事故を顧みる「小林一葉」の様子に、トラウマといった外傷の気は感じられず、それどころか至って平静に記憶の整理しているかのような地に足ついた雰囲気があった。


「それは肝を潰される」


 一語一句、聞き漏らすまいと耳を傾ける私の熱意に水を差すかのように、店員が飲み物を持ってきた。ひいては、私が余程、喉が渇いているように見えたのか。オレンジジュースとアイスコーヒーを私の手元に置く始末だ。私は呆れながらも、話の腰を折ってまでケチを付けるつもりはなく、次なる話を促す。

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