期せずして吉兆
弁当に手を付けようとした矢先、携帯電話が鳴った。夜の深い時間を狙った不躾な呼び出し音は、身持ちの劣った私でさえ、眉根をひそめる。ひいては、見知らぬ携帯番号が画面上に表示されたとなれば、益々煙たく思い、恐る恐る着信音に応えた。
「もしもし……」
名乗る相手の素性が割れていないのだ。私からわざわざ名前を明かしてやる謂れはない。
「小林です」
私は寸暇に背筋を正した。渡した名刺は往々にしてゴミ袋の中に消えるか、路上へ置き去りにされるかのどちらかに偏る。記載した電話番号に掛けてくる殊勝な人間とはなかなか出会う事はない。だからこそ、私は肝を潰され、少々声を上擦らせてしまう。
「あっ、はい! 高谷です」
「病院で渡された名刺に書かれた番号に電話を差し上げたのですが……」
「間違いないです。小林さんに名刺を渡させてもらいました。この度はわざわざお電話ありがとうございます」
誠意を払って小林一葉の対応に気炎を吐く。
「取材の件なんですが、都合の良い時間を教えてもらえますか」
探究心に裏付けされた質問は、羽虫がたかるような嫌悪感を抱かれて、邪魔立てするなと言わんばかりに遠ざけられるものだ。時折、取材に積極的な人間はいるが、とかく自己顕示欲や承認欲求を満たしたいという、宣伝の一環としての心持ちがほとんどだ。事故の被害者がこれほどまでに能動的に働きかけてくるのは物珍しい。
「いえいえ、小林さんの都合に合わせますので、言って頂けたら」
私は床に転がっていたチラシと、テーブルの上に置いていたペンを片手に用意した。
「それじゃあ、今週の日曜日。時刻は十四時辺りでいかがでしょうか」
「えぇ、構いません」
私達は滞りなく、取材の約束を取り付ける。ただしこれらは、あくまでも口約束に過ぎず、その日の機嫌如何で放り出される事はままある。しかし今回、「小林一葉」への取材は恙無く行われる予感があった。
「場所はまた追々、連絡させてもらいます」
まるで過去に取材が受けた事があるかのような淀みない「小林一葉」の言葉運びに私は助けられた。
「はい、失礼します」
通話が切れる音を聞き、携帯電話を床に置く。
「ふぅー……」
熱に浮かされた私の赤ら顔に反して、コンビニ弁当はすっかり冷めて、歪んだ容器が今や干ばつめいた味気なさを湛えている。再び温め直すのも億劫に思い、蓋を開けてデミグラスソースの掛かったハンバーグを箸で割る。湯気は上がらず、伽藍の空気を吐いた。それを、舌の上に乗せれば、臍を曲げた食材の沈潜とした気分が喉を通った。
「……温め直すか」
事故の背景を赤の他人がずけずけと被害者へ質問をするのは憚られる。心的外傷も留意すると言葉は選んで当然だし、友好的な雰囲気を築きながら、絆すように引き出すのが適当だ。そしてその土台となる取材の場所選びとして、面談じみた圧迫感の排除や周囲の雰囲気を総合すると、「喫茶店」が人から話を訊く上で最も適した場所だといえる。
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