第16話 メリー・メアーの呼び声 4
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水はあらゆる方向から流れてくる。
あの肖像画以外にも、どこかから浸水しているのだろう。
その出所を辿ることは不可能だった。
静かな館内に水音が反響して土砂降りの中にいるようだ。
「あの人は俺たちの青春だった……」
という、なかなかげんなりさせてくれる出だしで、カトウは『あの人』の話をはじめた。
「あの人はあらゆる面で優秀で、いつも仲間に囲まれていたな。女子はみんなファッションを真似してスカートの下にズボンをはいたりしてな。カヤックの国体選手でもあって、俺は運動部の関係でたまに口を訊く程度だったが、尊敬していた。思いあまって手紙を書いたが、返事はもらえなかったな」
ほとんど聞き流しながら私は、人というものは他人のことをこんなにも自慢げに語ることができるのだなあと感心していた。
そうしているあいだに、我々はまず馬を発見した。
後を追ってすぐ、同じ階で絵を見つけた。
畳二枚分もあるサイズの作品で、「馬の
一見、ルネッサンス絵画に見えた。
だが見覚えのない絵画だ。
タイトルや作品の説明文は文字化けし判読がつかなかった。
黒馬は絵へ向かって速度を落とさず進んだ。
そして前足を揃えてジャンプすると、綺麗な水の尾を引い、て絵画のなかへ飛びこんで消えてしまう。
「どうする? これは〈扉〉とは違うんだよな?」
けっきょく、馬と同じようにした。
我々は絵のなかへ入っていった。
景色がまったく切り替わった。
長机を口の字型に配置して生徒達が並んで座っている。
黒板に『全部活動定例会議』の文字。
壁の上部には例の丸時計が掛かっていた。
どうやらどこかの高校の風景らしい。室内に黒馬の姿は見当たらない。
〈生徒会長ちょっといいですか――〉
〈会長これは――〉
会議は終わったところらしい。
生徒達が一人の女の子へ入れ替わり立ち替わり意見を求めている。
女子生徒はスカートの下に、男子生徒用のズボンを着用していた。
「『あの人』だ」
カトウが私に囁いた。
だが声を潜める必要はなかった。
誰も私たちの存在に気づかず、体が触れても擦り抜けて行ってしまう。『あの人』も生徒達も悪夢の一部に過ぎないからだ。
絵の中に入った我々が、今体験しているのは、どうやら『あの人』の悪夢の一部、具体的には過去の記憶らしい。
それも高校時代のようだ。
その他の生徒の中に、飛び抜けて背の高い「好きな食べ物? 肉と芋っす」みたいな顔の、将来鍼灸師になって人のバカンスを台無しにしそうな、いがぐり頭が混じっていた。
「俺だ」
とカトウ。
『あの人』は、カヌー部の代表でありながら、生徒会長の仕事をテキパキこなす才女だった。
他方、いがぐり少年カトウは、同級生たちから面倒事を押しつけられていた。
〈カトウ君、『きのこの里』あげるからプリント運ぶの手伝ってくれない?〉
〈カトウ君、除草作業の手伝いが欲しいんだけど。あとみんなで映画見に行く?〉
〈主将、シャツ出てますよ、しょうがないな。あと不審者の見回りの件、お願いしていいかな〉
いがぐり少年は、それらすべてを、分かった分かったと引き受けていた。何なら頼られて嬉しがっているようですらあった。
そうしたいがぐり少年を『あの人』が見ていた。
特に表情も変えず、ただ視界に入っただけという態度のようだった。少なくともそう見えた。
仕事を終えると『あの人』は会議室から出て行った。
私たちもそうする。
会議室の扉が直接『あの人』の自室へつながっていた。夢ではよくあることだ。
『あの人』の部屋はさほど広くはない。
カトウの話から、勝手にお嬢様みたいな子を想像していたが、実際は普通の家庭の子供のようだった。
「んんんんんッ」
『あの人』が着替えをはじめたので、カトウは慌てて横を向いた。
どんな人物なのか。好きな色は何か、脱いだ物をすぐに畳むのか、脱ぎ捨てるのか、じっくり観察していたかったけれど、カトウが腕を引っ張って邪魔してきた。
仕方なく部屋を見ることにした。
本棚に色々な本。
参考書の他に、百科事典、ビジネス書や、聖書に、行動心理に関する書籍、文学全集、ミステリ小説、ファッション誌、流行の漫画本が最新刊だけそろっていたりする。
どれもほとんど読み込んだ様子がない。
カヌーとカヤック関連の雑誌だけが、ラックに載ったままになっていて、どうやらそれだけは好きで読み返しているらしいとわかる。
本棚を見たカトウが「努力家なんだ、あの人は」と自慢げにいった。
〈■■■さん〉
母親が呼びに来た。『あの人』は部屋の入り口に立ち塞がったままで話を済ませた。
母親は郵便物を渡し、去り際に私も鼻が高い、というような事をいって帰っていった。
『あの人は』受け取った手紙の何通かは読まずに捨て、残りは目を通したあと、机の横の水槽のところへ持っていった。そして躊躇なく水の中へ投げこんでしまう。
水槽には他にも、指輪や、写真立て、トロフィー。バースデーカードだったもの、何かの鍵などが沈んでいる。
波うっていた水が静まると『あの人』は水槽のガラスに耳をあてて、何かを聞き取ろうとするような仕草をした。
あるいは聞こえないことを確認したのかもしれなかった。
わからない。カトウも首をかしげていた。
これが、現実でも起こった『あの人』の癖なのか、それとも夢のなか特有の象徴的情景なのかは、それもわからない。集合写真を水に沈める女子高生だってどこかには実在するかもしれない。
しばらくすると、彼女は携帯端末を取り出した。
浅黄色の防水ケース。
馬が持って行ったはずだが、ここへ置いていったのだろうか? 記憶の情景だし、関係ないのかもしれない。
型の古い端末だと思っていたが、古いのは学生時代に持っていたものだかららしい。
その端末を操作して、彼女は何事かを入力している。
女子高生に密着して肩越しに内容を見るべきか、カトウはまごついている。そのお尻が邪魔で、私ものぞき見ができない。
そのとき突然、あの黒馬が現れた。
立派な肉体の気配で、見る前からそれとわかる。
馬の巨体で部屋がいっぱいになるかと思われた。
『あの人』が黒馬に反応した。
彼女は驚いた様子もなく、むしろ穏やかに馬の鬣を撫ではじめた。
それから一瞬の暴力。拳をふるって水槽を叩き割った。
とたんに水が溢れた。
水槽の体積より明らかに多い液体が床を浸し、さらに我々の背丈にまで迫ってくる。
口に耳に、水服の内側へ、暴力的な勢いで躍りこんで来た。
水は馬の心音を伝達した。まるでその振動のポンプのせいであるかのように、ついには部屋が一杯になった。
水圧で扉が破壊される。
気づくと馬の絵の外にいた。
水と一緒に我々は絵から吐き出されたらしい。
カトウが地面に転がって痛がっている。また肩を打ったのだろう。
「痛いな……そうだ馬は?」
馬は花や手紙、バースデーカードの残骸を蹴散らして遠ざかっていくところだった。
口元に例の端末の浅黄色があった。
「また……逃げられた……」
馬は去った。
『
絵には大きくヒビが入っていて、もう中には入れなくなっていた。
きっと、他にもこういう絵があって、そこから水が出ているのだろうと我々は推測した。
そして、やはりこの絵と同様に『あの人』の記憶を覗くことができるだろう。
「病気とは関係のない記憶だったな」
びしょ濡れのカトウがいった。
着替えも覗けてよかったじゃないですかと、と私がいうと真っ赤になって怒った。
「俺はやましい気持ちでやってるんじゃない。とにかく今回はあの人を元気づける材料はみつからなかったが、ここの法則もわかってきた。次の絵を探すぞ。なぜだかは知らんが、それも馬に関わる絵のはずだ」
もし着替えよりも過激なものを視てしまっても安心して下さいね。〈ホール〉から帰る前に、脳ミソの記憶中枢を切除してあげましょう。大丈夫、得意ですから。
私がそういってやると、カトウは真面目な顔で、「そのときは頼む」といった。
本気だ、この男。
とはいえ、記憶の最後で『あの人』が一瞬見せた、あの感情的な様子は何だったのだろう?
私も興味が出てきた。
引き続き絵を探せば、その答が覗けるだろう。悪夢とはそうしたものだ。
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