第十話 雨音

 どうしてそんなことをするんだ、と。なぜそうまでして勉強から逃げようとするのか、と。俺は一度でも彼女に尋ねたことがあっただろうか?


 ──答えはもちろん、否である。


 ただただ神楽坂の生意気な態度に腹を立て、過去に担当していた生徒を否定されるような発言に激昂し、叱りつけていただけ。俺は彼女の動機や行動理念を知ろうとせず、一方的に自分の正しさを押し付けていただけだった。


 そして、挙句の果てには指導の責任を放棄。気づいた時にはガキの頃大嫌いだった『大人』に、俺自身がなろうとしていた。


「……」

「……」


 毛ほども弱まる様子の無い雨が、沈黙する俺たちに容赦なく降り注ぐ。しかし、そのザーザーという音が気まずい静寂を掻き消してくれているような気がして、俺はさほど悪い気分にはならなかった。雨雲も偶には良い仕事をしてくれる。


「……クラスの子達はね? みんな見違えるくらい、成績が良くなってきてるの。最近はなんだか顔つきも変わったみたいで、みんな大人になっていくように見えるの」


 雨に打たれて頭も冷えたのだろうか。先ほどまでの昂っていた様子とは打って変わり、彼女の表情から色が消えた。


「気づけば、教室に居るのがしんどくなってた。アタシだけが子供のまま置いてけぼりになってる感じがして、近くにいるはずなのに距離を感じるようになって……どんどん、勉強をするのがイヤになっていった」


 自嘲する彼女を見ていると、俺は不思議と『これが素の神楽坂繭ではないか』と思えた。


 明確な根拠は無いが、この娘の根は『ただの寂しがりやの女の子』なのではないか、と。


 今までは分厚いメッキで外面が塗り固められていただけで、雨に打たれてメッキが剥がれてしまった彼女は、ただのか弱い女の子ではないか、と。なんとなく、そう思ったのだ。


「そんなアタシを見兼ねたママは、アタシのために塾に通うお金を出してくれるようになった。点数が上がらないのを塾のせいにしたら、今度は別の塾に通わせてくれた。そうやって、今まで私は何度も塾を転々としてきたの」


 おそらく誰にも言えないでいたであろう想いを、赤裸々に吐き出し。


「それを繰り返してたら──今度は、ママに相談するのが怖くなった。どう考えたって点数が上がらない原因はアタシの気持ちが原因なのに、今更『勉強のモチベが上がらない』なんて言えなかった。母子家庭で一生懸命私を育ててくれているママに、そんなこと、言えるわけなかった」


 うつむき、両の手を膝に置き。


「ねぇ、教えてよ。アタシはどうすればいいの? あれだけ偉そうに話してたんだから、答えられるんでしょ?」


 雨に流されるように、胸中の泥を吐き出す彼女は──


「ねぇ、答えてよ!!」


 ──やはり俺の目には、孤独に苦しむ脆弱な少女にしか見えなかった。


「……まあ、気持ちは分かるよ」


 同じ失敗は繰り返すまい、と。今度は慎重に言葉を選びながら、俯く彼女に語りかける。


「勉強ってのは残酷なもんで、分かりやすく数字で結果が出てしまうからな。良くも悪くも、自分の努力の成果が目に見えてしまう。実際、それで気落ちして自信を失くす受験生も少なくないよ。だから今日は少し言い過ぎてしまった部分もあるし、そこは俺の落ち度だったと思う。申し訳ない。そこは配慮に欠けていたよ」


 上から目線だった己を自省し、まずは頭を下げる。正直、あの説教は一ヶ月間溜めに溜めていた鬱憤を晴らしていた部分が多かった。多少は感情に流されたこちらにも非がある。


 だが、謝ったからといって彼女の抱える問題が解決されるわけではない。


 きっと俺にはまだ掛けるべき言葉があって、とるべき行動がある。


「でも進学したいなら、受かりたい気持ちが少しでもあるなら、やはり努力は必要になる。それはどうしても避けられないことだ。だが、点数が上がらないのは何も君のせいだけじゃない。俺の時みたいに最初から授業を受ける気がなかったなら話は別だけど、モチベが低いとはいえ、今まで通っていた塾ではちゃんと授業を受けていたんだろう? だったら、塾側にも責任はあるさ。なにも君だけが悪いわけじゃないよ」

「アタシだけが悪いわけじゃ、ない……?」


 眉をひそめ、彼女がこちらを見上げる。


「ああ、そうだ。語弊を恐れずに言うなら、君は『努力の方法』を間違えている可能性が高いんだよ。そして悲しいことに、受験における努力の方法を教えてくれる塾は、そう多くない」


 鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔でこちらを見上げる彼女に、俺は宣言した。努力には正しい方法があるということを。そして集団塾では、この方法を個別に教えることは困難であるということを。


「だが──俺は受験との向き合い方を熟知している。どのように考え、どのように学ぶべきなのかを理解している。生徒に合った受験の攻略法を、俺は提示することができる。事実、俺は今まで何人もの生徒を合格に導いてきた」


 テレビに出るようなカリスマ講師には及ばないかもしれない。トータルの実績で見れば、俺はベテランの彼らに及ばないかもしれない。


 だが、俺には俺にしかできない指導法がある。年齢が近いからこそ生徒に寄り添い、共に悩みながら受験に取り組むノウハウを、俺は持っている。


 そしてなにより、俺は自分のやり方で生徒を笑顔にしてきたという自負がある。


 だから、これまでも、これからも。相手が問題児であろうと、そうでなかろうとも。俺が『最初』に生徒へ掛ける言葉はコレしかない。


「神楽坂繭。どうすればいいのか分からずに悩んでいるのなら、停滞した現状を打破したいのなら、一度騙されたと思って俺の手を取ってみてほしい。必ずや、俺が君を合格に導いてみせよう」


 ──降りしきる雨の中。俺と神楽坂繭の問題だらけな受験戦争は、かくして幕を上げたのであった。

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