第2話 フィンランド出張
銭湯に行くしかなかった僕の子ども時代から二十年ほど経って、僕もいつの間にか内風呂のある家に住むようになったんだ。もちろん世間の人達よりお金のない暮らしはそんなに変わっていないから、自宅ではなくて借間住まいではあるけど、みんなの暮らし全体が、昔より便利になって、たいていの借間でさえ小さくても内風呂がついているのが普通になっていたからね。そうそう、一番肝心なことは、僕自身も子どもじゃなくて、すでに会社勤めをしている大人になっていたんだよね。大人になると、子ども時代がなつかしくなるよね。
そのときの僕は、まだ家族がいなかったので、僕はとても身軽で旅行でも出張でも気軽にほいほい行っていたんだ。そのことを会社が利用したのかどうかはよく知らないけど、ある年の11月から1ヶ月ほど、フィンランドに出張してくれという話がきたんだ。どちらかというと寒い場所が苦手な僕は、ちょっととまどったけど、会社の命令では逆らえないよ。さっそく、冬物の服とカップラーメンとレトルトの梅干粥を沢山スーツケースに詰め込んで、長い出張に行くことにした。ところで、この梅干粥はお腹が痛くなったときや風邪で寝込んだときのための非常食なんだ。温めるだけだから、病人でもすぐに作れるし、梅のさっぱり感が高熱の身に心地いいよ。
この僕の出張が、どんな仕事でどんな人達に会って、どんなことをしてきたとかなんてのは、ちっとも面白くないからここでは説明しないよ。ただ、ひとつだけとても面白いことがあったので、言っておくね。
それは、僕が移動のために借りていたレンタカーでのことなんだ。ある朝、外に駐車していたんだけど、前の晩から大雪になってしまって、次の朝、車に乗ろうとしたら、雪が積もってしまって大変だったんだ。それで、僕はとりあえずフロントガラスの雪を手で一所懸命にどかしてから、車に乗ることにしたんだ。
ところが、フロントガラスの雪をどけてみると、中に人らしき姿が見えたので、僕はぎょっとしたね。でも、その人はぐっすりと眠っているようだったので、ドアの雪をどかして車内に入ってから、その大柄の人のひじをツンツンと突いてみたんだ。
そうしたら、その赤いフカフカの服をきた白い髭の人は、心地よい眠りから目覚めたように大きなあくびをひとつして、やおら僕に話しかけてきたよ。
「ふあー、おかげでよく眠れたよ。昨日はちょっと忙しかったもんで、帰りそびれてね。ちょうどいい場所があったので借りたよ。ここは気持ちのよい空気があるねえ・・・」
僕は、なんと答えればいいのかわからなかったので、
「ええ、レンタカーなんですけど、交通安全のためのお札と日本から持ってきたウィルス防止用芳香剤を置いてあります」ととりあえず言ってみた。すると、
「ほうー、オフダって、日本の神様がくれるやつか?」
とその人が言うので、僕は「そうですよ」という気持ちでただ頷いたんだ。
そうしたら、その恰幅のいいやさしそうな老人は、にっこりとしながら、
「ようし、一夜の宿を借りたお礼だ。私からも何かオフダをあげよう?で、どんなものがいいかな?」と聞くので、僕は、
「じゃ、日本のお風呂に長く入っていないので、できれば銭湯に入りたいなあ」と答えた。
その人は、
「なんだ、そんなものでいいのか。もっと、ダイヤモンドとか株券とか言うのかと思ったら、日本の銭湯とはな。・・・近頃の子どもは欲がないねえ」とつぶやいた。
それを聞いた僕は、ちょっともったいないような気がしてきたので、
「あの、追加で湯上りのフルーツ牛乳もつけてください!」て言おうと考えていたら、もうその人は車内からいなくなっていた。
どこからどうやって出たのかな?とぼうーとしていたら、遠くから動物の鳴き声とベルの涼やかな音が静かに遠ざかっていくのが聞こえてきた。ちょっと寒いけど、とても爽やかな朝だったな。
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