第34話 回復(リハビリ)33 タピオカ

 薬子やくこは財布の中のクーポンを見つめていた。ジャム屋のクーポンだ。めったにパンは食べないからいいか、と購入を見送っていたのだが、そろそろ期限がきてしまった。せっかく五百円分もあるのだから、この機会にパンも購入してみるか。


 そう思って、薬子は出かけたのだが。


「あー……なくなってる……」


 薬子は呆然として、以前ジャム屋だった跡地を見た。ひきつった笑いが漏れる。大事にしすぎて、結局使う機会をなくしてしまったようだ。


「最近、店が混んでるところなんか見たことなかったもんね……」


 薬子はがっかりしながら、店の跡地に目をやる。次の店の看板が立っているから、ただの空きビルにはならないようだ。


 誘われたような気がして、薬子はその赤い看板に近付いていった。向かった先には、タピオカの画像がある。どうやら、タピオカのドリンクスタンドができるようだ。


 基本はテイクアウトで、店内の席は数席程度といったところ、数年前にはよく見かけた形態だ。


「だいぶブームは下火になったと思うけど、今から出店して大丈夫なのかな……」


 いらぬ心配をしてしまう。薬子自身は決して嫌いではないのだが、なんせ一時期、あまりにも店が多すぎた。世の習いとして若い子に飽きられると、急速に店は減り、後には寒々とした店舗だけが残った。


「あのう」


 そんなことを考えている時に声をかけられたから、薬子は軽く後ずさった。真っ赤なエプロンをつけた従業員が、側に立っている。


「ひょっとして、お客様ですか? 申し訳ございませんが、来週の金曜日からオープンなんです」

「いえ、ちょっと見てただけで」

「喜茶といいます。あ、これクーポンです。数量限定ですが、お買い上げいただいた方にはプレゼントもございますので、金曜には是非お越し下さい」

「あ、ありがとうございます」


 薬子はとりあえずそのクーポンを受け取って、その場を離れた。家に戻って古いクーポンを捨てると、散らかっていた財布がずいぶんすっきりした。


「後はこれだけか」


 薬子は今日店員からもらった新しい紙片を手に取る。何か、店名に聞き覚えがある気がした。


「そういえば、昔に飲んだことがあったっけ」


 味まで覚えていないが、確かタピオカを倍量にしてもらって飲んだ記憶がある。液体がすぐなくなってしまって、飲みこむのに困ったものだ。


 ずっと飲んでいなかったが、考えてみれば懐かしい。


 改めて薬子はクーポンを見た。全品十パーセントの値引き。オープンから三日間、購入者の先着百名に特選ティーバッグセットをプレゼント。


「んー、行ってみるか。久しぶりにタピオカ食べたいし」


 薬子は少し迷った末に、そう決めた。割引額はたいしたことないが、これも何かの縁だ。


 日を改めて金曜日に行ってみると、オープンの喜びどころではない感じの、スーツ姿のおじさんが数人いた。彼らは一瞬薬子を見たが、すぐにスタッフの指導に戻っていく。上に立つ人も大変だな、と薬子は他人事ながら同情した。


 さらに店に歩み寄る。今のところ、並んでいる客はいない。オープン初日とはいえ、平日だからだろうか。さすがに超有名ゲームソフトとは違って、有休を取ってまで並ぶ人はいないようだ。


 そして、薬子がまさかの一番乗りだった。


「……このまま誰も来ないと、けっこう恥ずかしいな……」


 幸い、数分後には若い女の子たちが後ろに並び始めたので薬子はほっとする。


 オープン予定の十時からややあって、自動ドアが開いた。薬子はカウンターへ進み、メニューに目を走らせる。


「ご注文をどうぞ!」


 迷ったが、苺のフルーツティーの中にタピオカが入っているドリンクを選ぶ。甘すぎず、さっぱりして美味しそうだ。


「ストロベリーフルーツティー、トッピングタピオカですね!」


 薬子は店員の声にうなずく。軽く折り曲げて、スマホケースに挟んでおいたクーポンを取り出した。


「これ、お願いします」

「かしこまりました。お会計から十パーセントオフさせていただきます」


 訓練の成果か、店員は非の打ち所のない笑みを見せた。


「こちらは記念品です。これからも、よろしくお願いいたします」


 黒いスーツ姿のお偉いさんに丁寧に扱われ、真っ先にプレゼントを渡されると、悪い気はしない。薬子は笑みを返した。


「よし」


 薬子はカップを覆うフィルムに太いストローを突き刺し、まず茶を一口飲んだ。


「うん、美味しい」


 酸っぱすぎもせず、苺の風味が口いっぱいに広がる。それでいて、お茶の味が完全に消えたわけではなく、もともとのドリンクとしての完成度が高い。


「タピオカはどうかな」


 それから軽く容器を振って、浮いてきたタピオカを液体と一緒に口に含む。噛んでみると、味はついていないがモチモチした弾力はしっかりあった。


「うん、ちょっと小粒だけど、噛み応えはバッチリ」


 総合でいえば星四つ、くらいか。薬子はひとりうなずいて、ゆっくりドリンクを飲み干した。


「黒糖ミルク、トッピングタピオカお願いします」

「ざくろビネガー、ソーダ割りってある?」


 客が入ってきて、カウンターは混雑してきている。ジャム屋も最初はこんな感じだった。この活気が長く続くかそうでないかが、店の運命を分けるのだろう。


 薬子は家に帰って、プレゼントを開けてみた。紅茶、緑茶、ウーロン茶のティーバッグが一つずつ、赤い箱の中に入っている。


「三回分か。どれからいこうかな?」


 どうしようか迷った薬子だったが、紅茶から試してみた。タピオカ店と同じく、ミルクティーにしてみて味をみる。


「うん、美味しい」


 ミルクに負けない、しっかりした味がある。これなら自分で飲んでもいいし、プレゼントにしても喜ばれそうだ。


「小売りがあれば買いたいなあ」


 今度はつぶれないよう、何度か足を運んでみるか。薬子は少し苦い思いとともに、そう決めた。

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