第38話 オーバーチュア

マンションの三階の一室。インターホンが鳴る。


「もしかして幻磨さん?」


 扉を開けたのは、ベージュのフリルワンピースという寝間着姿の美柱千雪。

 現在、人気急上昇中の神田の誇り、日本を救った救国のアイドル。

 チャイムを鳴らしたのは幻磨ではなく、まだ若いのに天辺ハゲで、妙に肌が緑色っぽい男性。不審者相手に、無警戒に扉を開けたことを後悔する千雪に、男は名乗った。


「夜分申し訳ありません、僕は尼子泉水と言います。口止めされていたんですけど、どうしても美柱千雪さんに伝えたいことがあってきました。僕は……外見でわかるかもしれませんが、河童の半妖です。なので……」


 河童の半妖尼子泉水。千雪が記憶をたどると、アルコイーリスの乗員に名前があった。それもSランクの戦闘員として最前線にいたはずだ。

 自在に泳ぐ河童、水没した幻磨、口止めされていた伝えたいこと。

 すべての情報が脳内で一つになって結論を導きだし、千雪は衝動的に夜の神保町を駆けだした。

 九月の別名、長雨月の名に相応しく、いつしか小雨が降り出し散る。

 マンションからヴァイオラの研究所までは遠くないが、寝間着姿の上に裸足では、どんなに全力疾走しても間に合わない。

 水に濡れたアスファルトの路上で数度転びながら、一心に想う。

 あの人はきっと言葉では繋ぎ留められない。

 確信がある。

 鋼鉄の自制心を持つ彼を何で留める?

 数秒考え、回答。

 自分の出した答えが正解だと、千雪には再度の確信がある。


 栞奈、満、リオン、ミィ、マイ、ユゥ。

 ごめん、私は約束を破る。

 アイドル同志の結束よりも、女同士の友情よりも、男との恋を選ぶ自分勝手な女だ、私は。

 何が神田の誇りだ。

 でも……私はもう絶望だけはしたくない。


 ヴァイオラの研究所、幻磨がまさに時間の扉を開こうとしたとき。

 夜の街に響く、メロディーライン。

 わずかに数フレーズだけ、ハミングで聞いたことがある。

 『虹色オーバーチュア』。

 歌詞を聞くのは初めてだ。


「ヴァイオラ殿、頼む」


 何を頼むのかも聞かず、ヴァイオラは無言で窓を開ける。

 外には雨を全身に浴びながら、皆既月食の紅き月光の下で歌う娘……千雪。

 AメロBメロを歌い切り、間奏を示す沈黙。

 幻磨は雨夜に吠える。


「言いたいことが、あるんだよ!」

「なになに~?」


 合いの手を入れたのは、すべてを見守っていた武蔵かアカネか。


「やっぱりちゆたんは、かわいいよ! 好き好き大好き、やっぱ好き!」

 頷く千雪。


「やっと見つけた我が御新造!」


 雨水か涙かわからないほどに顔を濡らし滂沱する千雪に向けて、窓越しに幻磨の嗄れかけた声の口上は続く。


「拙者が生まれてきた理由! それはお主に、出会うため! 拙者と一緒に、輪廻廻ろう!」

「好きだよ! 私も好きだよ! 好きだよ幻磨さんが!」

「世界で一番、愛してる! ア、イ、シ、テ、ル!」


 きっと人生最初で最後だろうガチ恋口上を終えた幻磨。

 千雪の切ないアンサーが響く。


「でも世界で一番愛してくれているのに、幻磨さんは私の側にいてくれないんだよね! 親衛隊長なのに守ってくれないんだよね!」

「今生は縁がなかった! 拙者、ドルオタとやらに生まれ変わって、次こそ七人揃った『虹色オーバーチュア』の生歌を聞きに行く! 推しはもちろん、ちゆたんだ!」

「信じているから! 最前列を用意して待っているからきっとだよ! きっとまた私に会いに来て! じゃないと恨むからね、私、実は怖いし重い女なんだよ! 最後にお願いだけど、ライブに来るときは清潔感を大事にしてね。幻磨さん、ちゃんと無精髭にしないで手入れしてね!」


 落涙、交差する日月の刀。

 世界の転変。

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