第2章「おれはペット」

第7話「はじめてだなって」

 ……眩しい。寝るまえにカーテンを閉め忘れたのか?

 背中に固い感触がある。ホテルのベッドから転げ落ちるわけはないから、床で寝てしまったのかもしれない。それほどまでに疲れていたのか……


 ぼんやりとした心もとない朝の光のなか、五十郎は目を覚ました。

 なにもない、白い天井が目に入った。

 上半身を起こしてみる。

 なにもない、リビングダイニングキッチンが目に入った。

 辺りを見回してみる……正確には、辺りを見回してみようとして、五十郎の視線は右に釘付けになった。フローリングの上で、ワンピース姿の少女が仰向あおむけに横たわっているではないか! いや、少女ではない! 祇園だ!


「うおおおおおお!?」


 五十郎はすべてを思い出し、ほとんど反射的に祇園の細い首へと、右手刀をギロチンのように振り下ろしていた!


「なに!?」


 が、手応えなし! 祇園が寝返りを打ったからだ! 偶然か!?


「えっ?」


 いや、ちがう! なんとなれば、祇園は寝返りを打ちざま、その細い右足を五十郎の体に引っかけ、彼を投げ飛ばしたからだ!


「うおおおお!?」


 五十郎は祇園の背の上をアーチ状に飛ばされ、壁に叩きつけられた!


「もう元気になったんだ」


 祇園は床にうつぶせに寝たまま、顔だけ五十郎のほうに向けて言った。


「……いま、また元気じゃなくなった」

「すぐに元気になる」


 祇園は立ち上がると、あらぬ方向を見た。

 五十郎は壁にへばりついたまま、祇園の視線を追った。そのさきにはひらいたドアがあり、その向こうの廊下に、


鐘音かねねちゃん? いまの音は?」


 エプロン姿の若い女性がひとり、立っていた。


 祇園の仲間か? だが、一般人のように見えるぞ? しかし一般人なら、なぜこの部屋に? 鍵はかかっていなかったのか? そもそも、なぜインターホンを押さない? 待てよ、一般人だとしたら、おれはいま仕事に失敗したところを見られていることになるのか?


 このように、五十郎は起き上がることも忘れてひとり混乱していたが、


「か、鐘音ちゃんが……鐘音ちゃんが、男の子を連れ込んでいる!」


 と、女性が心底意外そうに、それでいてどこか嬉しそうに叫んだことで、いよいよ場も混乱してきた。


「ち、ちがう!」


 とにかく否定せねば!


「えっ!? あなた、女の子なの!?」

「それもちがう! おれは……」


 どう説明したものか! 五十郎は言葉にきゅうする!

 すると、祇園が五十郎を指差した。なにか言うつもりらしい。


 しゃくだが、ここは祇園に任せるしかない。うまいこと誤魔化してくれ……


「彼はアサニンで」

「おい!?」

「?」

「なんだ、その『どうしたの』みたいな顔は!?」

「どうしたの」

「……とにかく、それは伏せろ!」


 祇園は五十郎に向けていた指を顎に当ててから、女性を横目で見て、


「彼は……わたしのことをもっと知りたいっていうから、一緒に暮らすことにしたの」


 と言った。


「ち……」


 五十郎は否定しかけたが、彼を見る女性の目が輝いていたし、


「ちがわない……」


 あながちまちがってもいないし、なにより、否定したら永遠にこのやりとりが続くような気がしたので、妥協した。


「あらあら!? まあまあ!? そういうことなのね!?」

「だから、朝ご飯を持ってきてくれるなら、ふたりぶんにして」

「はいはい、ただいま! ああ、お赤飯を炊いておけばよかった!」


 案の定、女性はひとりで盛り上がると、スキップしかねない勢いで部屋から出ていった。

 五十郎はのそのそと起きあがったが、脱力感を覚えて膝をつき、両手もつき、項垂うなだれた。


「絶対に誤解された……」

「誤解?」


 祇園が薄い体を折り曲げて、顔を覗き込んでくる。五十郎はめ上げて、叫んだ。


「わかれよ!? あの言い方じゃあ、まるでおれとおまえが彼氏と彼女みたいだろうが! おまえみたいなクソアマと付き合っていると思われるなんて、我慢ならん!」

「ああ」


 『そんなことか』を二文字であらわしたような声を漏らすと、祇園は、


「でも、それが忍者の習い」


 と告げた。


「そ、それは……そうだが……」


 そう言われては、ぐうの音も出ない。古来より忍者たちは身分や関係を偽って、俗世に忍んできたのだから。

 急に歴戦の忍者らしいことを言われ感心しないでもなかったが、簡単に引き下がるわけにもいかない。世間をあざむくためのカバーとして恋人を選択したが最後、相応そうおうの振る舞いをしなければならないからだ――憎き祇園と! 冗談ではない!


「し、しかしだな、それなら兄妹とか親戚でもいいだろ」

「いいわ」

「えっ」


 意外にもあっさり承諾されたので拍子抜けした五十郎であったが、それは早計というものだった。


「どうでも」

「おれはどうでもよくないんだよ!」

「お待たせ!」


 そこへ、先の女性が戻ってきた。右手に一客の膳を、左手に一枚の盆を持って。どちらの上にも、白米がよそわれた茶碗、野菜の煮物を収めた小鉢、豆腐の味噌汁をたたえたお椀、鶏卵けいらん、水の満ちたコップ、箸が載っている。

 途端に、五十郎は空腹を覚えた。

 そういえば、三十六時間以上食事をしていない。体が資本の忍者が、なんたる……

 五十郎がこんなことを考えているあいだに、


「ごめんなさい、お膳がひとつしかなくって。今日のところはお盆で我慢してくださいね。明日からは鐘音ちゃんとお揃いのお膳に用意しますから!」


 女性は彼のまえに盆を置き、祇園のまえに膳を置いて、


「食べ終わったら、食器をお盆の上に載せて、玄関のまえに置いておいてください。それじゃ、ごゆっくり!」


 と言って去ろうとした。気を利かせられているのだ! この女性は完全に誤解している! 誤解をかねば!


「ちょ、ちょっと待ってください!」

「あっ、そうですよね、あたしったら!」


 女性は立ち止まると、五十郎に向き直ってお辞儀した。


「自己紹介がまだでした。あたしは金城きんじょうっていいます。隣に住んでいるの。あなたは?」

「えっ」


 五十郎は不意をかれた。このようにフレンドリーな自己紹介の機会など、彼の人生には久しくなかったからだ。


「あなたは?」


 追い打ちをかけるように、祇園も尋ねてきた。

 そういえば、祇園も五十郎の名を知らないのだ。名も知らぬ男を家に連れ込むとは、信じられない女だ……

 それはそれとして、こうなっては名乗らないと不自然である。


「……天堂です」


 五十郎は飛び上がりそうになった。急に、手にあたたかく柔らかい、しっとりとした感触が訪れたからだ! 見れば、金城に手を握られているではないか! このように女性に手を握られる機会など、彼の人生にはなかった!


「天堂さん! これからよろしくお願いしますね! さあ、冷めないうちに食べちゃってください! あっ、食べられないものがあったら、今度教えてくださいね! それじゃ!」


 金城は笑顔で言うと、手を振りながら去っていった。

 五十郎が妙な疲労感を覚えて肩を落としていると、祇園が言った。


「食べれば元気になる」


 さっきから完全に祇園のペースだが、腹は減りすぎて、立ちもしなかった。このままではいくさもできぬ。かといって、素直に従ったと思われるのも嫌だったので、五十郎は聞こえよがしに舌打ちをひとつしてから、箸を取った。

 味噌汁をすすりながら、五十郎は思った。


 なぜおれは、殺すべきクソ女と一緒に食事をしているのか……

 というか、誰かと一緒に食事をするなんていつぶりだろう。

 アサニンになってからはしていないし、忍学でもしていないから、忍学入学まえということになるのか?

 最後に一緒に食事をした相手は家族だろうか? どんな感じだったっけ……少なくとも、こんなに落ち着かない感じではないはずだが……

 ……食事中の祇園に変わったところはない。いつもと同じだ。一定のリズムで動いている。

 少しは変われよ!? 自分の命を狙っている相手と飯を食っているんだぞ……ああ、腹が立ってきた……


 気づけば、五十郎は味噌汁を飲み干していた。椀越しに、祇園と目が合った。箸を止めている。


「な、なんだよ……」

「はじめてだなって」

「なにが?」

「他人と食事をするのは」


 祇園はいつもと同じ口調で言った。ただ追認するように。そして箸はまた動きだした。五十郎の箸は止まったままだった。

 料理はどれも美味しかった。そして、無毒だった。もっとも、毒が盛られていようと、忍学の非人道的授業の数々により強固な免疫システムを構築した五十郎には、効かなかったであろうが。いわんや、祇園をや。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る