第20話 おとずれた未来
いつの間にか海へと辿り着いていた。気がつくと切り立った崖の上にいて、潮風がひゅぅるると吹き流れている音が聞こえる。冷たい空気が心地よかった。夜風が火照った頭までも全て冷やしてくれるような気がする。
そういえば、こんな風景をどこかで見たなと不意に思う。でも僕はこんな崖がある場所に来たことはない。だから見たと思う理由は一つしかなかった。
崖の先に視線を送る。
期待通りというべきか、それとも期待に背いてというべきか。彼女はそこに立っていた。
「こんな時間にお散歩ですか?」
彼女は当然
憂いを覚えるような切なげな桜乃の笑顔は、どこか溶けてしまいそうなほどに儚く感じて何か胸の中にうずくものを生み出していた。
膝丈で折り返されたアースカラーのボトムスは、いわゆるカーゴショートパンツという奴だろう。トップスにはネイビーのサマーシャツ。頭に被ったキャスケットのつばが、わずかに斜めを向いている。
今度はまるで少年のような出で立ちだなと思う。見る度に服装が違っていて、彼女のつかみ所のない性格を示しているようにも思えた。
「君こそ、こんな時間に何をやっているのさ。またナンパ待ち?」
つい軽口を叩いてしまったのは、麗奈の事が頭が残っていたからだった。命には別状はなさそうとはいっても、麗奈は今も病院で眠っている。
常にさよならをともなう未来であの光景をみたからには、麗奈との別れが近いのかもしれない。そして家族である以上は引っ越し等で離れるなんてことは考えにくい。だとしたらその別れは命を失うことなのかもしれない。
もちろんそうとは限らない。限らないけれど可能性は高い。その現実を直視したくなかった。少しでもその事を頭の中から離していたかった。
だから僕はわざとこんな事を言ってしまっていた。
桜乃もそんな僕の気持ちに気がついていたのかもしれない。どこかいたずらな瞳を向けると、小さな笑みを浮かべながらゆっくりと話し始めていた。
「飛び降りてみようかなと思って。もしかしたら飛べるかもしれないし」
言いながら崖の下。海の方へと顔を向ける。
たぶん冗談なんだろうなと思う。だけどどこかで本気で飛び降りるかもしれないとも思えて、僕は身体を震わせていた。
「飛び降りたら死ぬだけだろ」
彼女を止めようと思って告げる。それからすぐに少しだけその事を後悔していた。
桜乃は静かにゆっくりと僕へと手を差し出してくる。そして。
「そうですか。でも、それもいいかもしれませんね。それで、もしそうだとしたら」
僕をじっと見つめていた。
微笑んでいるように思えた。いや、泣いているようにも思えた。
なぜかわからないけれど、胸の中が痛む。
「私と一緒に死んでくれますか」
夢の中で見た台詞を告げていた。
僕が見た未来はこうして実現してしまった。未来を変える事は出来なかった。ならばこの先の別れも確定してしまうのだろうか。
ただ夢で見た時と違って、今は少しは桜乃の事を知っている。彼女はちょっと不思議な女の子で、わざと変な事を言って僕の反応を探っているのだろう。
きっとこの後も「冗談ですよ」と笑うのだと思う。
だから僕は震える気持ちを無視しながら、続くはずの彼女の台詞を待ち続けた。
だけど彼女は何も言わない。ただ僕へと儚げな笑顔を向けているだけだ。
すぐそばにいるのに、どこか遠くにいるように思えて彼女がそこにいないようにも思えた。
見てしまった未来。知らない少女との別れなんて、訪れたとしても特に気にしないで済むと思っていた。
だけど出会ってまだほんの少しの時間しか経っていないというのに、彼女は僕の心の中にいつの間にか入り込んできていた。
綺麗な少女だったからだろうか。それとも彼女のどこか不思議な空気が気になるからだろうか。それとも未来で先に知ってしまっていたからだろうか。
僕はどことなく彼女がそこにいる事に安心を覚えて、そしてさよならを告げたくはないと感じていた。
「……なんで、僕が君と一緒に」
死ななければいけないのか。そう言いかけて、全てを口にすることは出来なかった。
それを告げたなら、何かが壊れるような気がして言えなかった。
桜乃はそれをどうとらえたのかはわからない。ただ彼女は僕へと背を向けて海の方をじっと見つめていた。
綺麗だなと思う。そして同時にここで始めて未来でみた桜乃の姿と異なる事に気がついていた。
あの時みた未来で見えたのは、白いワンピースと麦わら帽子姿の桜乃だった。だけどそのワンピースは、昨日みた海辺の彼女が着ていたと思う。
今の姿は少年のようで夢で見た姿と異なる。
これは未来を変えられたのだろうか。未来は変わったのだろうか。
それとも変えられていないのだろうか。
わからない。わからなかった。
未来は変わったとだと告げているようにも、それとも運命は変えられないのだとあざ笑っているようにも感じられた。どう思えばいいのだろうか。
いやきっと未来は変えられたんだ。変えられた。そう信じたい。麗奈とも桜乃ともさよならを告げずに済むんだと信じていたい。
「知らないでもいい事を知ってしまうというのは、辛い事ですよね」
桜乃は背を向けたまま、ただ声だけを震わせて告げる。
潮騒の音が聞こえる。だけどその音は僕の耳には届いていなかった。いや聞こえてはいる。聞こえない訳ではない。だけど僕はただ桜乃の言葉だけを待ち続けていた。
なんで、なんで今そんな事を言うんだ。僕は思わずそう告げかけて、でも言葉にはならなくて喉の奥で詰まる。
何もかもを見透かしたような桜乃の言葉は、僕の胸の奥に突き刺さっていた。
僕は知らないでいい事を知ってしまっている。見えなくてもいい未来を見てしまう。だけどそんなことは桜乃には何も告げていない。なのに彼女は僕の力を知っているかのように、そんな言葉を投げかけてくる。
「神様じゃないから、本当は知り得ない事を知ってしまっても、出来る事なんて限られている。そうですよね、浩一さん」
桜乃は振り返り、僕へとふたたび笑顔を振りまいていた。だけどその笑顔がどこまでも遠くて、なぜか寂しさを覚えていた。
彼女の瞳はただ寂しげに、そしてどこか諦めを感じさせた。
かつて僕も同じように未来は変えられないと知ったその時に、感じた想いと同じように思えた。だけど桜乃の中にある諦観の気持ちは、僕が覚えたその気持ちの何倍も強くて、何か全てを受け入れる事を悟っているかのような、そんな風に感じられた。
どうして彼女はこんな顔をしているのだろう。
妹の麗奈を刺されてしまった僕がこんな顔をしているのならわかる。いやあるいは旅館の女将代理として、事件が起きてしまった事に心を痛めているのだろうか。
でもそれでこんな瞳の色を見せるのはわからない。わからなかった。彼女の事が何もわからなかった。
だけどその瞳に吸い込まれそうになって、僕は彼女から目を離せなかった。
「知らないって事がどれだけ幸せな事なのか。知らないでいられる事が、どれだけ救われている事なのか。貴方なら、知っていますよね」
桜乃はもういちど手を差し出して、そして微笑む。
「だから」
桜乃はどこか花が舞い散るかのような、儚い笑顔を僕に向けていて。
少しだけ首をかしげて、もういちどつぶやく。
「私と一緒に死んでくれますか」
もういちどあの台詞を繰り返していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます