第3話 血に染まったナイフ
伊豆旅行当日になった。
八時五十分の待ち合わせまで、あと十分。もちろんいつも通り誰もいない。常に早くからいるのは麗奈だけで、他はぎりぎりだったり遅刻したりだ。僕もよくこの時間にいるが、それは早く来たい訳ではなくて、
「
麗奈はなかば怒りを含んだ口調で、独りごちると眉を寄せる。
どうしてこう毎回同じ反応で飽きないのかと疑問に思うし、実際にそう言ってやりたいところなのだけれど、麗奈がそれで行動を改めたことなど一度もない。それどころか当たり散らされてひどい目に遭う事になるだろうから、声には出さないようにする。
麗奈はこういう時には必ず朝早くから起きてきて、僕を巻き添えにして早く到着する。待ち合わせの三十分前にいる事なんて当たり前で、おかげで朝が弱い僕も遅刻した事は無い。良くも悪くも。
正直僕としては朝なんてこなければいいと思うし、朝がどこから来るかわかっていたら、三日ばかり閉じ込めておくのにとすら思う。しかし麗奈は早起きが得意で、何の予定もなくても僕の事も起こしにくるんだ。
「なんでって、いつもの事だろ。みんなどうせぎりぎりにしかこないんだから、慌てて行動する必要なんてないのに」
「だって電車がいっちゃうじゃない。九時すぎの電車にのるのに、間に合うのかしら」
麗奈はまだぶつぶつと言い続けていたが、僕は気にも留めずにただこの先に待ち受けている未来の事を考え続けていた。
駅はまだ通勤客でごったがえしていたが、特急のホームには比較的人がいない。ベンチに腰掛けて、さきほど買ったホットコーヒーをすする。
熱い。それから暑い。こんな暑い中でホットコーヒーをすするのは僕だけかもしれないと心の中でつぶやく。
じりじりと迫る夏の日差しが、コンクリートに反射して余計に不快感を増していた。僕はあまり汗はかかない体質だと思うけれど、さすがにじっとりと肌をしめらせている。
「あつい」
思わずつぶやく。
その言葉はホットコーヒーの熱に対してか、それとも夏の輝きに向けたのか。自分でもよくわからずに息を吐き出す。
「浩一はこの暑いのになんでホットかな。こんな日は冷たいキャラメルフラペチーノに決まってるじゃない」
生クリームのたっぷりのった甘い飲み物を手にして「浩一って馬鹿みたい」と勝手な事をつぶやいていた。
「暑い日には熱い飲み物の方が身体にはいいんだ」
ほとんど独り言のように告げると、麗奈から顔を背ける。飲み物くらい自分の好きにさせてくれと口の中でつぶやく。
もっとも半分は強がりで、さすがにアイスにすべきだったかと思う部分もある。ただ残りの半分では、本来温かい飲み物は温かい状態で飲むのが美味しいんだとも思っていた。
それは僕の考え方全般にも共通していて、本来あるべき姿であるのが一番だと考えていた。だから麗奈は自分の事を兄と呼ぶべきだと考えていたし、知り得ないはずの未来なんて見えてはいけないんだとも思っている。
今度こそ未来を変えるんだと、熱いコーヒーをのぞき込むと、揺れる水面に影が差した。
「暑い日に熱いお茶を飲むと、代謝は良くなるっていうね」
背中側から掛けられた声に僕は顔を後ろへと向ける。見知った顔が一人そこに立っていた。
ジーンズにTシャツのラフな姿。やや大きめの水色のナップサックを肩にかけて、旅行用のキャリーバッグをひきずっている。首筋を覗かせる少し短めの髪は、いわゆるボブカットという奴だろう。すらりとのびた細身の体は一見すると男性にも見えなくもない。しかしよく見れば微かな胸元の膨らみが、それを何とか否定している。
クラスの仲間で、麗奈の親友でもある
「真希ちゃん、おはよ」
「ああ、
麗奈が軽快な口調で告げると、少し仰々しいような声で矢上は応える。このいつもどこか芝居掛かったような口調で話すのが、矢上のいつもの話し方だ。たぶん宝塚の男役だと言われれば、信じる人もいるだろうとなとも思う。
「八時四十八分。うん、時間通りだね」
矢上は腕時計を確認すると満足げにうなづいていた。
「相変わらず君達だけか。まったくみんな時間にルーズだね。電車に間に合わなかったら置いていこう。あとから勝手に追いかけてくるだろ」
矢上はやっぱり少し芝居じみた口調で告げると、ホームの向こう側を見つめていた。
「矢上、おはよう」
かけそびれていた挨拶を向けると、矢上は爽やかな笑みを口元に浮かべた。
「ああ、浩一。おはよう。今日もいい天気だね。旅行にはもってこいだ。少々この暑さは難儀だが、夏らしくていいかもしれない。海について暑くなければ泳ぐ気もしないからね」
「あのさ。前から言おうと思ってたけど、なんで麗奈は名字にさんづけで、僕は名前を呼び捨てなんだよ。普通逆だろ、逆」
矢上へと言葉を向けると、矢上は何かいたずらな笑みをもらして、まっすぐに視線を合わせてくる。
整った凜々しい顔にみつめられて、思わず少したじろぐが、しかし矢上はそんな僕の様子も大して気にもしていないようだった。
「気にするな。これも親愛の情、好意の現れということにしておこうじゃないか」
「と、いうことにしておこうってなんだよ。しておこうって」
「まったく細かい事を気にしていると早く禿げるぞ。私は君の禿げた姿なんてみたくもないし、想像もつかない。従ってこの話はここまでだ。それより座席の場所でも確認しようじゃないか」
矢上は勝手に話を打ち切ると、すぐに麗奈の方へと向き直っていた。
自分のペースで話す矢上に思わずためいきを漏らすが、しかしこれ以上話を続けてもろくな事にならないのはわかっている。どうせはっきりした答えが欲しい訳でも無かったので、素直に話の流れに乗ることにした。
「えーっと、十二号車の十のA席が真希ちゃんで、B席が私。C席は
麗奈がチケットの番号をみながら、勝手に席を割り振っていく。
「勝手に座る場所を決めてるのか」
まだ残りのメンバーは到着もしていないのにとも思うが、しかし麗奈は悪びれる様子もなく、どこか嬉しそうに言葉を返す。
「いいの。だって入ってから決めていたら、他のお客さんに迷惑じゃない」
「ふむ。一理あるな、ではその席で決定としよう。すでに本来の待ち合わせ時間も過ぎているし、遅れてきたヤツが悪い」
矢上は大きくうなずくと、僕へと目線を送っていた。特に言葉は無かったもののその目は「不満は無いだろうね」と訴えている。
座席順からすれば、たぶん麗奈は進行方向側の席に女性陣を置きたかったのだろう。実際それならそれで特に不満はない。確かにいま決めておいた方が、面倒は無いかも知れないと胸の中で思う。
ただ続けて言葉を発しようとした瞬間だった。僕の頭の中に何かが降りてきていた。
目の前の風景が一瞬にして切り替わる。
どこかはわからない場所。どこか暗くて、あまり周りは見えはしない。
その中に麗奈が一人、その身体を横たわらせている。息をしているのかどうかもわからない。だけどじんわりと床に血がにじんでいた。
思わず息を飲み込む。だけど続いて見えたその映像に、僕は呼吸をする事すら忘れて、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。
麗奈の前に僕が立っていた。僕が右手にナイフを持っていた。僕はその僕の姿を上空から見つめていた。
ナイフからは真っ赤な血が滴っている。そして僕はそのナイフを落とした。からんと鈍い音が響いた。
僕は僕を見ていた。この僕は僕なのか。違うのか。それよりも僕がナイフを手にしているというのはどういうことなんだ。
僕なのか。僕が麗奈を刺したのか。そんなはずはない。僕が麗奈を刺すなんてことはあり得ない。
だけど目の前では麗奈が倒れている。血を流して横たわっている。小さな声でうめきをもらしていた。
まだ麗奈は死んでない。でもこれだけの血が流れている。時間の問題なのかもしれない。どうして僕はこんなことを。なぜ僕が麗奈を刺すんだ。
なんだよ。なんなんだよ。なんなんだ。これは何なんだ。
なぜ僕がそこにいる。僕は僕の姿を観ている。手がしびれる。じんじんと冷たい衝撃を僕の中に伝えてくる。
このしびれは僕がナイフで麗奈を刺したからなのか。でも刺したのは僕だけど僕じゃなくて、僕の目の前にいる未来の僕だ。でもいま僕は手のしびれを感じていて。
なんだ。何が起きているんだ。これは何なんだ。何なんだよ。
目の前が大きく揺れていた。何もかもがごちゃまぜになって、世界が揺らいでいるような気すらしていた。
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