動機

ももとせ鈴明

第一章

第1節

1ー1 その青年は、殺風景な部屋の中、静かに事務机の向こうのパイプ椅子に座っていた。

 

 

 

 その青年は、殺風景な部屋の中、静かに事務机の向こうのパイプ椅子に座っていた。

 白いワイシャツと紺色のネクタイ、その上から着たライトグリーンの作業服のブルゾン。明るい茶色の髪。

 扉を開けて入ってきた安藤と目が合うと、青年は穏やかな表情でひとつ黙礼した。髪の毛をそんな色に染めているわりに、ずいぶんちゃんとした印象だ。大人しい雰囲気に合った少し長めの前髪が、青年の動きに伴いさらりと揺れた。

 安藤は青年のようすに肩透かしを食らった気分になった。髪の毛の色から『やんちゃ』なタイプかと思ったのだが、違ったようだ。

 そういう相手だったら、縦にも横にもがっしりと大きい自分の体格といかつい顔を利用し、どすの効いた声で初手から威圧するのが安藤のやり方だ。

 だが、目の前の穏やかな青年はそういう輩には見えなかった。この相手にそんな対応をしたら、こちらが滑稽に見えてしまいかねない。

 何と声をかけたものか少し考えてから、安藤はごく普通に「こんにちは」と青年に声をかけた。青年はぱっと顔を上げ、ほっとしたような表情で「こんにちは」と挨拶を返した。

「たいへんお待たせしました。T警察署刑事捜査課強行犯係の安藤邦彦です」

 警察手帳を開き、顔写真のついた身分証を提示しながら名乗る。

砂川さがわ史朗しろうです。お手数をおかけします」

 青年は一瞬、立ち上がるかどうかを迷ったようだったが、結局、椅子に座ったまま深く頭を下げた。首だけをぺこぺこさせる礼とも、慌ただしく頭を下げて上げる落ち着きがない礼とも違う、腰から身体を曲げ、下げるよりも頭を上げる方に時間をかけるような、ゆったりと余裕のある礼だった。

 柔らかな落ち着いた声。落ち着いた所作。それだけを取れば、今時珍しい好感の持てる青年に見える。

 だが、机の向こうに見えている青年の着ている作業服のあちらこちらが赤黒く染まっていて、生臭さと金気の混じった臭い……大量の血の臭いを放っているとなると、話は別だ。

 穏やかな表情も、柔らかな落ち着いた声も、落ち着いた所作も、このリアルな死の気配と一緒になると、途端に得体の知れないものになってしまう。

 ここに来る直前にお茶を飲んでいたはずなのに、安藤は喉が渇いてくるのを感じた。

「お疲れ様です。以降は刑事捜査課が引き継ぎます」

 安藤の後から入ってきた強行犯係2年目の富田が、これまで青年の監視をしていた生活安全課の制服警官に声をかける。

 制服警官が取調室を出て行くのと入れ替わりに、鑑識係の中堅どころの山口が入ってくる。

 鑑識が来たところで、安藤は呼吸を整えるようにひとつ息を吐いてから、青年に語りかけた。

「砂川史朗さん。あなたが言う通り、T市みどりが丘の蒼田そうだつづくさんの自宅から、遺体が発見されました」

「はい」

 青年は頷いた。

 鑑識から、食品用保存袋に似た証拠品袋を受け取る。中には幅の広い刃を血に染めた湾曲した大きなナイフが、グリップを下に入っている。刃渡り20センチほどのグルカナイフ、ククリとも呼ばれるマニアックな汎用ナイフだ。

「あなたが、これで、蒼田さんを殺害した。間違いないですか?」

 青年が新聞紙に包んで持参したという凶器を青年の前に置き、安藤は訊ねた。

「はい。私が、『殺意をもって』、その『なた』で理事長……蒼田統さんの首を切って、殺しました」

 青年は、はっきりとした口調でそう言った。

「『殺意をもって』?」

 はっきりと青年が告げた言葉を、安藤は思わず繰り返してしまった。

 人が死亡した事件において、その言葉は重要な意味を持つからだ。

「『殺意をもって』です。私には明確な殺意がありました」

 その言葉の意味を十分に承知していると言わんばかりに、青年は頷いた。

「では」

 安藤は自分の左手の腕時計に目を落とした。

「2020年、5月11日、16時23分」

 現在時刻を読み上げる。

「あなたを、殺人の疑いで緊急逮捕します」

「はい」

 あくまでも穏やかに、青年はそう言った。

 


 鑑識の山口が、青年を立たせ、様々な角度から写真を撮る。

 立ち上がると、案外と背が高い。つまり、身長の割に座高が低いのだ。

「最近の若いのは手足が長えなあ」と、安藤は内心でひとりごちた。

 その長い両腕を包んでいるワイシャツの袖が、大量の血に染まっている。すでに半分以上が乾いて肌に張り付いているようで、動くと時々、ぺりぺりと音がした。

 証拠写真の撮影が終わると山口は、青年の赤黒く血で汚れた掌を粘着シートに押し付けて両掌の付着物を採取した。さらに掌に顔を近づけながらじっくりと観察し、シートで採取できなかった微細証拠をピンセットで採取する。すっかり乾いた血の着いた手を、濡れた綿棒で拭う。付着血液のDNA鑑定をするためだ。

 最後に血まみれの着衣を脱がせて、証拠物として押収する。

 白Tシャツとネイビーのボクサーパンツという下着姿のままでは人権問題になるので、こういう時の為に署が用意しているジャージを貸す。LLサイズだが、気持ち袖と裾の丈が足りないようだった。

 血で汚れた服を脱ぎ、手を洗う事を許されて清潔なジャージを着ると、青年はほうと大きく息をついた。

「さっぱりしましたか?」

 安藤が聞けば、青年は「はい」と即答してから、「いや」と続けた。

「自分がした事が原因なんですから、ついた血が気持ち悪いとか、言ってちゃいけませんね」

「だから、手も洗わずに出頭して来たんですか?」

 午後のT警察署の駐車場に軽自動車を停め、新聞紙に包んだ凶器を携え、青年は血まみれのまま署の玄関に現れたのだという。玄関の外に立っていた立番の警察官に「自首をしに来たのですが、どうすればいいでしょうか?」と声をかけて来たのだ。

「いいえ。手を洗ってしまったら、証拠が減ってしまうかなと思ったんです。ご迷惑をおかけするんですから、手間は少ない方がいいだろうと思いまして」

 安藤は、さっきから感じている違和感に眉を寄せた。

 殺人というのは、異常事態だ。当事者にとっては一種の極限状態だ。

 計画的であれ、衝動的であれ、事件直後の犯人は多かれ少なかれ興奮していることが多いのだ。

 特に、怨恨に起因する殺人事件の犯人には、犯行に至るまでの間に、何らかのストレスがかかっていることが多い。主には被害者から与えられるそのストレスが積み重なり、限界を越えて殺人に至るのがパターンだ。

 そういう場合は、たとえ逃げられずに逮捕されたとしても、自首してきたとしても、ストレスから解放されて、あるいはしたかったことをやり遂げられて、ハイになっていることが多い。

 だが、この青年は、落ち着き過ぎている。とても、数時間前に人ひとり殺してきたと思えない。

「あんた、誰かをかばっているね?」

 すぱっと思いつきをぶつけてみる。反応を見るためだ。

 人を殺したように見えないのなら、本当は殺していないのかもしれない。そう考えての問い掛けだ。

 青年は、安藤を見返して苦笑した。

「他の人に容疑がかかって迷惑をかけないようにと気を遣ったつもりだったんでけすど、裏目に出ましたかね?」

「迷惑をかけたくなかったのなら、そもそも殺人なんてしなきゃよかったんじゃないのか?」

「それはそうなんですけど……」

 青年は困ったように首を傾け、頭を掻いた。

「私には、どうしても理事長を殺さなければならない理由があったんです」

 被害者は、「サフィール・リゾート・ホールディングス会長」という肩書きを持つ資産家だ。T市郊外にある大きな高級観光ホテル、サフィール・リゾートTをはじめとして、各地にいくつものホテルを所有しているそうだ。他にも多くの不動産を所有し、私立高校の経営もしているらしい。

 理事長というのは、経営する私立高校の理事長ということで、この青年はそちらの仕事の関係で被害者と知り合ったということだろう。

「『殺さなければならない理由』、ね……。どんな理由が?」

 安藤の問いに、ふと、青年が真剣な表情になった。

 姿勢を正し、安藤に向かって深々と頭を下げる。

「すみません。それについては、言いたくありません。黙秘します」

「自首して、殺意も認めてるのに、動機は黙秘するって?」

 安藤は眉をひそめた。

「はい。すみません」

 顔を上げた青年は、安藤に笑いかけてきた。きっぱりさっぱりと曇りがなく堂々とした、確固たる意志を感じさせる笑顔。

 こいつは、案外やっかいな事件かもしれねえな。

 安藤はそう思った。

 

 


 

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