42. ピンクの小粒

「いやー、本当に良かった!」


 ベンの父親が肩を叩きながら涙を浮かべ、嬉しそうに言った。母親はハンカチを目に当てて肩を揺らしている。


 久しぶりの両親はすっかりと老けてしまって、白髪も目立つようになり、三年の時の重さを感じさせる。


「パパもママも……、ありがとう」


 ベンは引きつった笑顔で返した。


 翌日退院となったベンは父親の運転で実家へと戻っていく。


 過労死で倒れて一回は止まった心臓だったが、必死の救命作業で一命はとりとめていたらしい。しかし、植物状態で三年間寝たきりだったそうだ。


 ベンは車窓を流れる懐かしい風景を見ながら、ぼんやりとトゥチューラの街並みを思い出していた。


「ベネデッタ、どうしてるかな……?」


 ベンはそうつぶやき、自然と湧いてきた涙がポロリとこぼれた。


 あ、あれ?


 ベンはあわてて手のひらで涙をぬぐう。自分がこんなにもベネデッタを欲していた事に気が付き、うなだれ、後部座席で隠れるようにハンカチを涙で濡らした。



       ◇



 懐かしい実家の玄関をくぐると、温かい生活の匂いがした。それはベンがずっと親しんでいた香りだった。でも、今はそれを素直に喜べない。


 テーブルについたベンは、お茶を飲みながらダイニングをキョロキョロと見回した。子供の頃から使っている少し欠けたマグカップ、冷蔵庫に貼られた癖のある字の予定表、全てが懐かしかったが、ベンの胸にはぽっかりと穴が開いていた。


「おい、何か欲しいものはないか?」


 暗い表情をしているベンに、父親は気を使って聞いてくる。


「欲しい……もの?」


 ベンは目をつぶって考える。欲しいもの……、欲しいもの……、でも思い出されるのはベネデッタの温かい優しさだけだった。


 ベンはガックリとうなだれ、ポタポタと涙をこぼす。


「お、おい、どうしたんだ? どこか具合でも悪いのか?」


 父親は心配そうに言う。


 ベンはしばらく動けなかったが、ふと、あることを思い付いた。


「もしかして……」


 ベンはガバっと顔を上げると、バタバタと救急箱のところへ急いだ。


 救急箱を開け、包帯やら解熱剤やらを放り出し、下剤の箱を取り出すとピンクの錠剤をプチプチプチとたくさん手のひらに出していった。


「おい、お前、下剤で何をするんだ? 便秘か?」


 心配する父親をそのままに、ベンは一気に錠剤を飲みこんだ。


「お前! そんな量飲みすぎだ! 何やってるんだよぉ!」


 そう叫ぶ父親に、ベンはニコッと笑ってみせる。


 ベンにはもう便意にすがるしかなかった。シアンを呼んでも出てこない以上、トゥチューラへの道は閉ざされてしまっている。これで何も起こらなかったらトゥチューラでの日々はただの夢と同じなのだ。


 父親は頭を抱え、頭が壊れてしまったらしい息子の将来を憂えた。


 ベンはそんな父親には申し訳ないと思いながら、便意をただ静かに待つ。


 あの世界とつながっているなら、青いウインドウが開くはずだ。異世界は絶対に夢なんかじゃない。自分が便意と戦い、トゥチューラを守り抜いた栄光は妄想なんかじゃないのだ。


 やがて、ベンの胃腸がうねり始める。


 ぐぅーー、ぎゅるぎゅる……。


「来たぞ! 来たぞ!」


 便意が高まる事を喜ぶベンを、父親は眉をひそめ、心配そうに見つめる。


 ベンは手を組み、祈りながらその瞬間を待つ。


 来い、来い、来い、来い……。


 うっ……、漏れる……、漏れる……。


 その時、脳内に電子音が響き渡った。


 ピロン! ピロン! ピロン! 『×1000』


「キタ――――!」


 ベンは絶叫した。


 そう、夢じゃなかったのだ。トゥチューラは本当にあったんだ!


 ベンは強烈な便意にお腹を押さえながらも歓喜に包まれた。


「お、お前、病院へ行こう! いい精神病院を知ってるんだ」


 父親はベンがついに狂ってしまったと思い、オロオロしながら言う。


「ふふっ、大丈夫だよ。ほら見て!」


 そういうと、ベンは飛行魔法でふわりと浮かび上がった。


「はっ!? お、お前、なんだこれは!?」


 いきなり超能力を使うベンに父親は唖然とする。寝たきりからようやく復帰したと思ったら下剤をがぶ飲みして宙に浮いている。父親の頭はパンクし、呆然とただベンを見ていた。


『来て……』


 その時、かすかに誰かの声がベンの脳に響いた。


「えっ!?」


 それはベネデッタの声に聞こえた。


「ねぇ、どこ? どこにいるの?」


 ベンは辺りをキョロキョロと見まわした。


 しかし、声はそれっきり聞こえない。


 くっ!


 ベンは窓をガン! と乱暴に開けると飛び出し、一気に高度を上げていく。


 父親は驚愕し、空高く小さくなっていく息子をただ呆然と見つめていた。



 ベンは住宅地からぐんぐんと高度を上げ、あたりを見まわす。


 声は確かこっちの方向から聞こえたはず……。


 ベンは海の方をジッと見つめた。


 白い雲がぽっかりと浮かぶ澄み通る青空のもと、港湾施設のクレーンの向こうにはキラキラと水面が光って見える。


 すると、向こうの方に不思議な動きをしながら飛んでいるものに気が付いた。


 え?


 その動きは飛行機でもなくヘリコプターでもなく、ゆらゆらと独特な飛び方をしている。あんな飛び方をするものをベンは一つしか知らなかった。


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