となりの阿修羅ちゃん~胸糞地獄へ通りゃんせ~

珠邑ミト

第一章 《青の連弩》

1.桑名春絵

第1話 憑いてきてるもん


「だからぼく、最初に言ったじゃない。あの男との結婚は――」



 ネイビービルーの猫耳フードつきのパーカーの下で、アスラはそう切り出した。

 ちりりん――と、どこかで小さな鈴の鳴る音がした。


          *


 ドアを押すと、かららん、と軽い鐘の音が鳴った。

 「いらっしゃいませー」と声を発したのは、カウンターの奥にいるヒゲを生やしたバーテンダーだ。彼がここのマスターらしい。他に店員らしい人影は見当たらない。軽く会釈をしてからきょろきょろと店内を見回すと、一番奥の衝立で隠されたテーブル席に先客がいた。


 いた。多分あれがアイツだ。

 

 こくりと生唾を吞み込んでから、ゆっくりとその席へ近付いてゆく。こつ、こつ、こつ、と、自分の立てるヒールの音がやけに大きい。


「――十年ぶりくらいかな」


 思うよりも高い声が、ふいに耳に届いてびくりとする。それは確かに、衝立の向こう側にいる人物から発せられていた。別にこちらを見て言ったわけではない。その証拠に、彼はこちらへ背中を向けたままだ。

 ゆっくりと、その姿が見えるところにまで移動すると、彼はようやくこちらへ、ちらりと視線を向けた。


「おひさしぶり、お姉さん。元気にしてた?」


 驚いた。まるで何も変わっていない。

 その飄々とした語り口も、少女のような丸顔も、華奢な体型も、ネイビービルーの猫耳フードつきのパーカーも、同じ色のハーフパンツも、その首から下げた極々小さな銀の鈴のペンダントも。

 眉間に皺を寄せながら、はるは彼の対面に座った。

「あなた、年取らないの? もう十年どころか、うちの娘、中学生よ」

「やっぱり、あの時に相談してきた男と結婚したの? そいつとの子でしょ? ぼく止めたのにさ」


「――旦那、死んだわ」


 ことり、とテーブルの上にマスターが水のグラスを置いたのと、春絵がそう告げたのは同時だった。ヒゲの男が固まっているのがわかるが、知ったこっちゃない。

「それは御愁傷様」

 大してそんな気もないのが見え見えなのは、彼が行儀悪く頬杖を突きながらフォークの先でナポリタンをくるくる巻き取っているからだ。

「いつ死んだのかとかも聞かないのね。ちょっとぐらい興味がある素振りでも見せたらどうなの」

「だって、つい最近の事なんでしょ」

「――どうしてそう言い切れるの」

「だって」

 こぼれ落ちそうに大きな目が春絵をじっと見つめる。見つめながら大きく口を開けて、「あーん」とナポリタンを頬張る。咀嚼そしゃくしながら、フォークで春絵の背後を指した。


いてきてるもん。旦那さん。幽霊なりたてほやほやの姿で」


 ぞわりと背中が総毛だった。

 思わず振り返るが、もちろんそこには何も見えない。

 きっと前を向いて、猫耳パーカーの少年を睨み付けた。


「ねぇアスラ。あんた、あの時あたしの後ろに、一体何が見えてたの?」


 アスラはにやりと笑った。

 彼のかたわらには、十数年前と同じく、段ボールに白画用紙をのりで貼り付けただけという、貧相な見栄えのB5サイズの看板が立てられていた。



『この世の地獄の相談、よろず承ります  よいのくちアスラ』



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