第21話
金曜日の選択授業。校外写生の授業は続いている。
長方形のパレットに、青い絵の具のチューブを捻った。同量の緑と、少しの黒を混ぜ合わせる。濁った青緑色を筆で掬って───筆洗バケツで洗った。
絵の具を無駄にしたのは、これで何度目だろう。目に見える噴水の色を、そのまま塗ってもいい。でも、これは絵なのだから、澄んだ泉にすることもできる。
どちらが正しいのか、私には分からない。
噴水は後回しにして、背景の空へと筆を走らせた。迷いのない水色の空は、シンプルだからこそ鮮やかだ。
土屋が、細筆を洗いながら言った。
「もうすぐ中間考査だから、放課後は草野さんと図書室で勉強してるんだけどね」
「……へー」
いきなりがっつりマウント取ってくるじゃん。
「あの子、ボディタッチが多いよね。欲求不満なのかな。水谷はどう思う?」
百万回死ね。
というのはあまりに正直過ぎるので、余裕を装って答えた。
「よもぎは元々そういうキャラでしょ。私といるときも、腕とか触ってくるよ」
そう? わざとらしく首を傾げて、土屋がお尻の位置を直した。芝生を滑り、私の隣へ。スカート同士が触れ合う距離だ。あろうことか、そのまま肩を寄せてくる。
「こう、手を重ねてしなだれかかってくるわけ。身体を押し付ける感じで。正直、ちょっと興奮するから止めて欲しい」
「なんで私で再現すんの⁉︎」
流れるように重ねられた手の甲から、他人の体温が伝わってくる。さらさらの黒髪が私の喉元の皮膚をくすぐった。柑橘系の匂いを好むよもぎとは違う、ペパーミントに似た香りだ。
「どう? 羨ましい?」
「別に……」
言葉とは裏腹に、脳みその要らない機能が、勝手によもぎの感触をモンタージュしていく。ともすれば、衣服の下にある柔らかさまで。
土屋が死ぬか、さもなくば私が死にたかった。
「多分、誘われてるんじゃないかな。草野さん、色々溜め込んでそうだし。その辺どう思う、水谷」
「自意識過剰でしょ……あんた常に自意識過剰気味なんだから……」
ほわほわとした春の花のような笑顔を思い出す。よもぎが欲求不満? 男子中学生じゃあるまいし。
……本当に?
ふと先日のハグを思い出して、首の後ろがチリチリと灼けつく。
もし、本当にそうだったら?
私と「取引」している限り、土屋はよもぎに手を出さない。キスも、その先も、関係が進展することはない。付き合ってひと月も経たない今は、何の問題もないだろうけど。
でも、もし、この先も「取引」を続けたら? そしていつか、それをよもぎが望むときが来たら。そのとき、土屋がよもぎを拒絶したなら。きっとそこに、亀裂は生まれる。
そうすれば、私が付け入る隙だって。
『───蓮花ぁ』
空想の中で、しどけない姿をしたよもぎが、甘ったるく囀った。懇願するように潤んだ瞳と、色づいた頬。その両手は、私を誘うみたいに伸びていて───馬鹿か!?!??
付け入る隙ってなんだよ! お前、お前今何を思い浮かべた? 私はそういうのじゃない。いやそういうのなんだけど、でも、違う。私は友情を放棄したわけじゃない。そのつもりもない。だから、卑劣な真似をしたいわけじゃない。
第一、よもぎは違う。草野よもぎは、そんな子じゃない。
氷のように冷ややかな視線を感じた。
顔を上げると、土屋が、私の横顔をじっと見つめていた。
「水谷のすけべ」
「はあ⁉ ちがっ、違うし!」
「草野さんは、」
涼やかな切れ長の目元が、くっと細くなる。口を開閉する私を前に、土屋は、静かに言った。
「あの子は、水谷が思っているほどには、いい子じゃないよ」
「……えっ?」
反射的に聞き返した私を無視して、白魚のような手が伸びる。軽く曲げた膝の上に載せたスケッチブックの下、私の太腿へと。
「草野さんが考えているほど、水谷がいい子じゃないのと同じにね」
「ちょっ」
硬いスカートと柔らかな太腿の境界に、土屋の指先が侵入した。かあっと首筋が熱くなる。
「この、誰かに見られたらどうすんの……!」
「あ、それ振り? じゃあ、期待に応えてあげる。『見せつけてあげれば良いよ』」
「ば、ばっか、」
良いわけあるか馬鹿!
絶叫を飲み込む間にも、見えない場所で、指先が敏感な腿の皮膚をゆるゆる這いずる。屈辱と嫌悪感を感じているのは確かなのに、卑劣な手つきに内腿の筋肉がぴくんと震えた。それを悟ったのか、土屋の指先が調子づく。
本当に、こいつは何がしたいのだろう。私の好きな人と付き合って。それなのに私にちょっかいを出して。キスまでして。
そんなに私を虐めるのが楽しいか。楽しいんだろうな。自分でそう言っていたし。そんなやつに、私は今、好き放題されているというわけだ。
浮ついていた心が、一気に沈んでいく。
悔しい。憎い。嫌い。
そうだ。今、私の胸がこんなに苦しいのも、こいつのせいだ。
ぜんぶ、土屋のせいだ。こいつがいなければ、私はきっと、よもぎへの恋心を自覚せずに済んだのに。こんな苦くて醜いものが自分の中にあるなんて、知らずに生きていけたのに。
こんなもの、知りたくなかった。無知のままでよかった。
ぜんぶ、ぜんぶ土屋のせいだ。
「ひぐ」
指先が下着に触れた瞬間、視界が滲んだ。竦んだように、土屋の指が止まる。揺れる瞳が、伺うように私の顔を覗き込んだ。意味がわからない。
今更、なにを殊勝ぶっているのだろう。
「───ばか」
涙が頬を伝う、屈辱的な感触がして、それがとどめだった。
堤防が決壊して、罵倒が噴き出す。
「ばか、あほ、嫌い。しね。この色魔。へんたい。土屋、きらい。ばか。だいきらいっ。なんで、なんでこんな意地悪ばっかするの……」
ひくひくと喉を鳴らしながら、私は土屋の顔を睨めつける。どう言うわけか彼女は、慌て、困惑しているように見えた。いい気味だと思った。
その、人形みたいに美しい顔も、すぐにぼやけて溶けていく。
「ほんと、意味わかんない。嫌い。あんたなんか、大っ嫌い」
「水谷……」
しゃくりあげながら、頭に伸びてきた手を打ち払う。土屋が、叩かれた手を胸に抱いた。
その顔を見たら、何故か涙が止まった。袖でぐしぐし目を擦って、鼻を啜る。喉の奥がツンとしたけれど、それだけだ。怒涛のような激情は、涙と共に排出されていた。
深く息を吐く。
「……あんた、何がしたいのよ。ねえ、そんなに私が嫌い?」
土屋が目を伏せた。こんなときなのに、こいつ駱駝みたいな睫毛しているな、と思った。駱駝、見たことないけど。
重苦しい沈黙の末、ぽつりと土屋が呟いた。
「だって、水谷が、」
「───私が?」
「…………何でもない」
そして土屋は、不可解なことを言った。
「でも、それでいいよ。もっと嫌ってよ、私のこと」
なんだそれ。やっぱり意味が分からない。
それなのに、彼女の顔を見て、私は怒りのやり場を見失う。
何で。
何でお前が、傷ついた子供みたいな顔をするんだ。逆じゃないか。そっちが加害者で、私は被害者なのに。
口を開いて、でもなにを言うべきかが分からない。
やがて、予鈴が鳴った。私たちは無言で美術用具を片付けて、スケッチブックを閉じる。
校舎へ戻っていく、こんなときでもぴんと伸びた土屋の背中を見つめながら、今、こいつはどんな顔をしているのだろうと。そんなことばかりを考えていた。
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