第22話 須藤海の過去

「とりあえず、谷根千エリアに住んでるってことは確定したから、ここから現場まで行ってヒントを集めながら見つけていこう。日暮里にっぽりまでは十分くらいだね」


 JRの京浜東北線に乗り、ドア近くに並んで立ちながら、海さんは車窓の外を見遣る。谷根千エリアはここから一本の日暮里駅から歩けるらしい。そういえば、大学で散歩しているときに、谷中霊園から日暮里駅まで歩いた気がするな。


「でも、十八時には暗くなりますよ? 調べるなら明日でもいいんじゃ——」

「いや、今のタイミングを逃すわけにはいかない」


 俺の言葉を遮る海さん。そのキリッとした真剣な目つきはいつもと様子が違い、普段からその表情で服装もしっかりチョイスすれば女性からも人気が出るのでは、と思わせる。


「今ならDMを続けても問題ないけど、もし会話が終わってしまった場合、明日その続きを再開するのは難しいからね」

「確かに、『もう終わったのに』ってなりますよね」


 俺も経験があるから分かる。昨日の話題をもう一度蒸し返すのは、結構難しいし勇気がいるものだ。


「とりあえず、着いたら仁衣香さんに写真も送って連絡しよう。具体的な家まで特定しないといけないからね」


 そこからしばし沈黙が続く。目的地まであと十分弱。

 せっかくだから海さんのこと聞いてみようと思い、話を振ってみる。さっき彼のことを知らないと考えていた俺にはうってつけの時間だった。


「……大学で群馬から東京に出たんですか?」


 いつもの軽いノリで、「おっ、オル君、知りたい?」なんて返してくるかと思ったものの、彼は外を眺めたまま「ん……」と言葉に詰まる。それはまるで、瞳の奥を俺に見せないようにしたまま、どう答えるかを迷っているかのようだった。


 やがて彼は、フッと短く息を吸って、口を開いた。


「東京に来たのは大学からだけど、高校で埼玉に行ってるんだ。だから群馬にいたのは十五歳までだね」

「そうなんですね。転勤ですか? あ、その、答えたくなければ無理には」


 なんとなく第六感が働き、最後に一言付け加える。しかし彼は、もう覚悟を決めていたのか、「大丈夫だよ」と首を振った。


「転勤は転勤だけど、予期しない形だった。うちの母親は小学校教師をやってたんだけど、僕が中学二年生のときに車で交通事故を起こしてね。小学生の男の子を轢いてしまったんだ」


 思いもよらない告白に、息が止まる。頭の中で、救急車のサイレンが響く。


「安心して、奇跡的に子どもにケガはなかったよ。ちょっと擦りむいて出血しただけで、骨も折れてないし、脳にも全く異常はなかった。急に男の子が飛び出してきたらしいけど、ブレーキが間に合ったし、ぶつかって飛ばされた先が植え込みだったのもクッション代わりになって幸運だったらしい。とにかく、事故自体はまったく問題なく終わる……はずだった」


 そこで彼は一息つき、中指の部分だけ少し突き出した握りこぶしを窓ガラスにコツコツぶつける。そこには、幾許かの苛立ちが見て取れた。


「ある日ね、中学で友達に言われたんだよ。『お前の母親、子ども轢いたんだって?』誰かがその事故のことを調べて、地元向けのネットニュースにルポ記事みたいな扱いでアップしてたんだ」

「それって……」

「ああ、フリーライターが僕たちのことを探ったんだ。事故のことを聞いて、興味本位で母親のことを調べた。『小学校の教師が小学生を轢いた』なんてネタとしては面白いだろうからね」


 今の海さんがやっているようなことを、仕掛けてきた人がいた。小さくても、ネット記事は普通の雑誌や新聞の記事より拡散されやすい。どんな結果になったのか、聞くのが怖かった。


「うちの母親だって必要な罪は償ったはずだけど、ゴシップっていうのはそれ以上の影響力があるからね。田舎だったから噂が回るのも早くて、結局母親は群馬での仕事を辞めた。でも、ちょうど知り合いが埼玉の私立小学校で働いてたみたいで、その紹介もあってすぐに次の仕事が決まったんだ。まだ家も買ってなかったし、父親も埼玉に通勤してたからちょうどいいだろうってことで引っ越すことになったんだよ」


 ネットでリサーチして晒した結果、一つの家族が家を移した。文章にしたら大した結果ではないように見えるけど、海さんにも、母親にも、父親にも、みんな居場所があったはずで、それを捨てて新天地に向かうのは辛いことだったはずだ。それはちょうど、俺がなりすましの被害を受けて、部活や友人を失ったように。


「海さんは、どう思ったんですか? やっぱり怒りました?」

「ああ、うん。『人間って面白い』ってなったよ」

「……え?」

 予想外の返事に、口をぽかんと開ける。


「だってそうでしょ? そんな、誰にも褒められない、自分の得にもならないことをわざわざ検索したのかって。それは自分が知りたかったからだろうし、他の人もそれを知りたかったから記事を見た。興味がある人のことを知りたいって欲求はすごいんだなって、なんか逆に感銘受けちゃったよ。それが今の仕事にも繋がってるからね」

「そういう見方もあるんですね……」


 海さんが変人なのは分かっていたけど、ここまでとは。でも、深く傷ついていないのなら、却って良かったのかもしれない。その結果、彼は今探偵をやって、何人もの人を助けているわけだし。


「あとは……まあ、検索を悪用しない、っていうのはこの事件絡みで誓ったから、そこだけは感謝かな」

「悪用、しようとしたんですか?」


 俺の質問に、彼は不敵な笑みを浮かべた。


「大学院で学んで、今みたいに検索の技術も身に付けてさ、相手の名前も確認して、一度だけ復讐を考えたことがあるんだよ。晒してやろうって。でも、母親から止められた。『それをやったら相手の名前がネットに残る。入れ墨と同じくらい、一生消えない傷だから』って諭されてさ」


 自分が暴かれて晒されて、傷つけられた側なのに、相手のことを思いやっていさめる。海さんのお母さんは本当に人格者だ。


「デジタルタトゥーって言葉も知らないのに、入れ墨に例えるあたりの感性がすごいって感心しちゃって。それで、なんかやめようって思ったんだよ。あれがあったから、後ろめたい思いもないまま、ずっと探偵を続けてられるのかもしれないね」

「それは……良かったですね」


 相好を崩す彼につられて、ニッと笑う。思ったより深い話になったけど、少しだけ海さんのことを理解できた気がする。


「よし、ちょうど着いたね」


 日暮里駅に着くと、海さんはどんどん西に歩き、御殿坂ごてんさかと呼ばれる坂を進んでいく。五分ほど歩くと、谷中銀座と書かれた大きな商店街に着いた。そこから道を一本外れてマンションが立ち並ぶエリアに来てキョロキョロと周辺を見回し、三階建ての如何にも学生が住んでそうな低層マンションを指差した。


「よし、このマンションから撮った写真を仁衣香さんに送って、向こうからも写真を引き出そう」

「写真って、そんな都合のいい画像、ネットにあります? 下手なもの使うと、この近くじゃないってバレませんかね?」

「オル君、前も行ったけど、僕は画像を無断で使ったりしないよ」


 そう言うと、海さんはおもむろにバッグから何かを取り出す。出かけるときに放り込んでいた、五十センチくらいの黒い棒だった。


「それ何ですか?」



 俺が訊くのを楽しみに待っていたかのように、彼はニヤリと笑って見せる。そして、棒の先端にスマホを取り付けた。



「セルカ棒だよ」

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