第6話
こんな幸せな気持ちでコンビニから出ることになるとは、秋月は思ってもみなかった。入店した時から幸せではあったが、今の秋月の心には、幸せだけではない感情が膨らんでいる
その感情は、きっと……『信頼』だ。そしてそれは、揺るがないであろう愛情からくるもので。
結局コンビニの会計は銀一が支払ってくれたのだが、彼から本当に与えられたものはお菓子でも避妊具でもなく、信頼と愛情だった。
流されるままに行ってきた、どちらかと言えば嫌な行為が、愛情からの行為に……銀一となら変えられる気がする。
これまでの自分――元彼へのモヤモヤも結局は、裏を返せば本心を伝えきれなかった自分へのモヤモヤだったのかもしれない――との決別と、愛すると決めた相手への想いを握られた手に込めた。
コンビニを出てからもずっと繋がれたその大きな手は、秋月がちょっと力を込めたくらいではびくともしない。少しだけ汗ばんでいるのは、きっと……お互い様だ。
「……大切にする」
「……うん。嬉しい……」
雑談なんて、得意じゃない。そんな二人から零れる言葉は、何も飾らない本心だけ。
「絶対送り狼やって、笑われてまう」
溜め息をつきながらそう言う彼の表情は、優しい笑顔。それに思わず秋月も噴き出してしまった。
レストランを出た時よりも濃い闇の中、二人でクスクスと笑い合う。大通りから再度離れたこの道は、しんと静まり返った住宅街だ。まるで、自分達のための、二人きりの場所。そんな風に秋月には思えて、ついつい顔がにやけてしまう。
繋がれた手が嬉しくて、少しだけ……少しだけ軽い足取りで銀一の手を引く。もう、目指した自宅は目の前に迫っていた。
「……っ……着いた。ここ」
足を止めてそう言った秋月に倣って、銀一も立ち止まって自宅を見上げる。
何の変哲もない、古都の歴史に紛れるように建つ三階建てのアパートの一室。それが秋月の借りている部屋だった。角部屋は取れなかったが、最上階を借りることが出来たのでそれなりに満足している。
築年数はそれなりに。近隣の環境はまあまあ。職場からも程よい距離。遠すぎるのは通勤時間の無駄だが、近すぎるのも色々とアレだから……つまりこの物件はとても好条件ということだ。
質素な入り口から伸びる階段や、そこから続く各階の廊下にはここから見る限り人の気配はない。観光客の気配も遠のくこの道は、深夜故の喧噪とは無縁であった。
郵便受けが並んでいる入り口の上で、青白い人口の光が暗闇の中に刺すような蒼白を垂らしていた。
「……ここに、一人で?」
「……うん? そうやけど?」
「……街灯少ない道やったし心配や」
「あ、そんな心配せんといて。だって、私……暗いし可愛くないから」
これまでの人生の中で性的なトラブルもなければ、元彼氏以外との恋愛もなかったのだ。学生時代には憧れた告白なんてイベントもなかったし、異性の身体に触れたのも元彼氏しか経験がない。せめて見た目くらいは明るくしようと思って髪は茶色に染めたが、出来た努力なんて精々それくらいだ。あとはどこにでもいる地味な見た目。そんな自分のどこに性的魅力を発掘出来ると言うのか。
心の中では自信満々、しかし口に出していくうちに自分でもなんだか悲しくなってきて、どんどん声が小さくなることを自覚する。銀一からの返答がないことが余計に恥ずかしくて、秋月は足早に階段へと向かい――そして、その手をぐっと掴まれた。
「秋月は……綺麗や」
立ち止まったままの位置から一歩も動かずに、銀一は片手だけで秋月の動きを止めさせる。そうされるともう、秋月は動けない。ただし、秋月の動きを止めるのは、彼の逞しい腕でも、染み入るように馴染む低い声でもない。その、魔力のこもったような瞳であった。
銀一の鋭い眼光は、出会ったその時からずっと、変わらず秋月にだけ注がれている。それは今、この時も。彼は、目の前の――秋月をただじっと見詰めて、綺麗だと零したのだ。
「そんなん……言われたことない……」
俯き、そう告げる。しかし、彼の刺さるような視線はずっと、注がれたまま。彼の瞳は真実を見透かすような力がある。でも、その瞳に映す『美しい私』は、きっと間違いだから……
「……俺だけが言えばええやろ。違う?」
弱々しい、意地とも妬みとも取れる、そんな醜い否定を、彼は真っ直ぐに肯定してくれる。その澄んだ感情が滲み出た声に惹き付けられるようにして、秋月は思わず彼に目をやってしまって――後悔も吹き飛ぶくらい、彼の瞳に包み込まれた。
「……綺麗なのは……銀一やから……」
自らの背後から落ちる蒼白が、彼のための光のように見えた。闇夜に垂らされたその一本の蒼白は、鋭さを感じさせる彼の顔立ちによく似合う。日に焼けた肌が、今この時ばかりはその色合いを抑え、まるで彫刻のような芸術作品を思わせるのだ。
そこで気付く。
その蒼白は自らの背後から落ちている。それはつまり、彼からしたら秋月の姿は逆光となるのだ。
彼からは……銀一からは秋月の輪郭しか見えていないのではないか?
「……待て。動くな。この時を、もう少しだけ目に焼き付けたい」
握られた手もそのままに、彼の言葉に絡め捕られる。動きを制限された秋月の表情を、彼は見えているのだろうか?
「……もう、ええで。ありがとう」
そのまま数分、無言のままで、二人はその時間を過ごした。支えを無くした人形のようにその場に座り込みそうになってしまった秋月の手が、ぐっと銀一に引っ張られる。
家の前だというのにいつの間にかその腕の中に納められて、その安心感から涙が一筋零れ落ちてしまった。
「……何が不安やねん? 俺の言葉が、信じられん?」
「……っ」
腕に抱かれた安心感で、漸く頭が正常に動き出したようだった。
彼の言葉を信じようと、ここまでの道で散々思っていたというのに、自分は……こんな一言で不安になってしまったのか。でも……
――不満、じゃなくて、不安やって……わかってくれてた……
「信じる! 私、銀一の言葉なら信じられる!」
自らを奮い立たせるためにも、秋月は今日一番の声量でそう告げた。闇夜を震わせる、まではいかなかったがそれなりの声量に、銀一は一瞬驚き、しかしすぐに優しい笑みを落としてくれた。
「ほんまに綺麗やった。俺が見たこの光景、“今度”見せたる」
「逆光やったんやないの? それに、今度って?」
秋月が元からの疑問と新たに湧いた疑問を投げ掛けたその瞬間、静まり返っていたアパートの扉が開く音が響いた。
闇夜には十分すぎる音を立てて開閉された扉の音。遠さ的に三階、つまりお隣さんだろう。そう検討を付けて見上げたら、想像通りの位置の扉から住人が出て来たのが見えた。廊下を歩いているということは、あの住人はこの場所に降りてくる。
「……お隣さん?」
「うん。とにかく、あがって」
こんなところをお隣さんに見られたら……緊張や疑問なんて吹き飛ぶ目先の問題に背中を押されるようにして、秋月は足早に銀一を自室に案内するのだった。
件のお隣さんと階段ですれ違うという気まずい時間のことを考える余裕がなかったのは、手を繋いだまま階段を上がっている時には気付かなかったのが反省点だ。
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