闇夜に輝く月のように

けい

第1話


 人生初の彼氏に連れられてイタリアンレストランを訪れた秋月(アキ)は、その数十分後には人生初の『別れ話』を切り出されていた。


 小中高、大学共に男女共学の学校に入学。人見知りで大人しい性格は小学生の頃から全く改善されなかったが、それでも少ないながらも同性の友人には恵まれたし、進学自体も授業をサボる勇気も出ない真面目な性格が幸いして問題なくこなせた。

 大学で選んだ学部が会計学部だったので、小さいながらもそれなりに安定した給料の出る会社に就職も出来た。仕事先の人間関係も浅いが故にトラブル無し。入社から半年経った今では、事務の仕事にも慣れた。地味でコツコツした仕事は性に合っているので、電話対応以外は苦痛もない。

 大きな起伏こそないが、自分――秋月にとってはささやかながらも順風満帆の人生だった。しかし、いつまでも一人で過ごすのは、いくら秋月が人見知りで他人が苦手な性分だと言っても限度があるわけで。

 社会人になった記念にと誘われた合コンにて、秋月は二歳年上の彼氏――今、目の前にて別れ話を切り出したこの男のことだ――と知り合い、彼からの猛アタックの末に付き合うことになったのだった。

 なんでも彼は、緊張して全く話せていなかった秋月の態度が『初々しくて可愛いと感じた』と言い、『ご両親の育てが素晴らしいんだ』だとか、『真面目に仕事をしている姿が目に浮かぶ』だとか、『そんな女性となら未来を見据えたお付き合いが出来る』と様々な言葉で褒めちぎってきた。

 他人から、ましてや異性から褒められたことはおろか、まともに会話をした経験もない秋月は、恥ずかしながらもその勢いに圧される形で交際をスタートすることになった。

 交際はそれなりに、秋月からしたら順調に感じていた。デート先はいつも彼が決めてくれるし、最近は一人暮らしをしている秋月の家にて、お家デートも増えて嬉しい。営業職で給料が安定していないという彼のために、秋月はそれまで節約のためにしか行っていなかった自炊にも意欲的に取り組むことが出来た。

 いつでも優しい言葉を掛けてくれるし、とにかく話題が豊富で明るい彼の人柄に秋月も惹かれていた。頭も口もよく回るので秋月の意見はすぐ言い負かされてしまうが、よくよく考えたら彼の判断が間違っていたことはあまりないと言えた。

 『彼についていけば良いんだ』

 いつしか秋月は、自然にそう思うようになっていた。彼が全てを決めてくれる。二人でずっと永遠に、彼のために秋月は生きる。それが恋人で、将来を見据えた交際というものだろうと、そう本気で考えていた。

 今まで彼氏がいたことのない秋月にとって、彼との決まりが全てだった。学生時代の友人達とは、合コンの結果のために陰口を言われていることを知り疎遠になっていた。職場には同性も何人かいたが、年の離れた人達しかおらず、口うるさく「女はさっさと結婚しないと駄目よー」と言われているうちに苦手意識が出来てしまっていた。

 人付き合いの下手くそ具合は、どうやら自分自身の自信にも直結するのだろう。そんな何事においても自信のじの字もない秋月のことを、彼は肯定し、認めてくれた。恋人にしてくれた。

 『彼が良いと言っている。だからそれで良い。彼だけがいれば良い』

 私は、幸せなのだ。そう秋月は信じ、彼に誘われるまま、今夜もこのイタリアンレストランを訪れたというのに。

「……な、なんで? 突然……そんな……?」

 震える声で、秋月は縋りたい一心で彼に伝える。こんな時ですら彼には否定や拒否の言葉を投げ掛けることが出来ず、ただその口から出すことが出来たのは疑問を伝える言葉のみ。

 クラシック音楽が小さく流れる店内は、上品な静けさで満ちている。ここのオーナーの趣味らしく、店内はシックな空間に纏められており、美しい夜景が一望出来る窓際にのみ席が用意されている。開いた中心のスペースにはグランドピアノが配置されている徹底ぶりだ。

 テーブルを彩る料理だけでなくそれを盛られた食器類にも凝っており、その拘りはまさに『店全体』と言わんばかりに、壁に飾られた絵画達からも熱い想いのようなものが感じられた。

「そういうとこやで。すぐ口ごもって、情けない。自分のことくらい自分で言えるようにって、お前はいつまで経っても思わんねんな? そんなんやから“友達”らに『暗い陰キャ』とか言われるんやで。俺かてこんな暗い嫁はん、いらんわ」

「そ、そんな……っ」

 捲し立てるようにして話すのは、彼の癖だ。そうやって仕事先でも秋月の前でも、自分のペースに持っていく。仕事先では有能なスキルなのかもしれないが、人間関係においてその押しの強さは、良い時もあれば悪い時もあるわけで。

 反射的に縋りつこうと口を開いた秋月だが、普段から言葉の少ない人間が咄嗟に気の利いたセリフを吐けるわけもなく、ただただ驚愕の意を伝えることしか出来なかった。

 そんな秋月のことを彼はふんと鼻で笑ってから、続ける。彼の口は止まらない。それだって、いつものことなのだ。

「俺がせっかくこんなエエ店連れてきてやっても、お前は『こんな夢のような世界があるなんて、素敵』だの『こんなところに連れてきてもらえるなんて、幸せ』だのなんも言えへんやん。連れてくる俺の身にもなってや? なんも俺の苦労労われへんねんで? 俺の営業努力、無価値なん? 商品価値ないん? 毎月百万単位で売り上げ取って来る俺の手間賃は、タダとちゃうんやで?」

 こうなると彼は止まらない。いつも通り『仕事』に例えて自分の価値を語ってくるのだ。今は秋月と彼の『プライベートの時間』なのに、彼は自分の価値や手間等の『仕事の時間』を伝えてくる。

 彼の指摘は正しいのかもしれない。確かに秋月は口数が少ない。この店に連れられて席に着いて、彼が言うようなスラスラとした誉め言葉は出てこなかった。だが、ただ一言『とても素敵なお店』だとは伝えたのだけれど。

「口下手と慎ましいはやっぱ別やな。俺が間違ってたわ。ここのオーナー、俺の会社の部長の同級生やからいろいろ部長から聞いたんやけど、さっきお前が“褒めた”あの絵ぇな……オーナーが一目惚れして買い付けた代物なんやて。この店全部そのオーナーの好みで造られてるんやぞ? そんなエエもんをただ『深い色合い』だけやなんて、失礼にも程があんぞ? お前根暗やのに芸術のセンスもないんかいな」

 スラスラと彼の口から出るのは秋月を傷付ける言葉ばかり。付き合っていた頃からわかっていたことではあったが、彼の口は誉め言葉よりも悪口の方が滑りが良い。こちらが聞いていようがいまいが、彼の口が閉じられることはない。

 こちらのことなど、彼からすればどうでも良いのだ。話し手である彼にとっては、聞き手の今の状態なんて――秋月がどれだけ傷付こうが、お構いなしなのだ。彼は自分の意見を言う人だから。そんな彼についていこうと決めた秋月は、だがそんな彼に振られてしまった。

「……私は、貴方のことが好きです……」

 絞り出すことが出来た言葉は、またしても否定でも拒否でもなく。ただただ、彼に伝えたい『好き』という言葉一つだけ。気持ちを込めた言葉というものは、少なかろうが短かろうがとてつもない力を発揮する――と、秋月はこの時まで信じていたのに。

「はー、ここまで言ってもそれだけしか言えんのやもんな。ほんま腹立つ。俺はもう、お前のことなんか好きちゃうし。ここの料金も払っとけよ。お前が俺を最後まで不快にさせたんやからな。部屋の荷物は俺んとこ送っといて。んじゃ、今からはもう過去の人や。さいなら」

 そう言って彼はさっさと荷物を纏めて席を立ってしまった。店に合わせたようなジャケットを羽織る姿は紳士的なのに、最後に投げつけられた言葉のなんともせこいことか。

 社会人になって一人暮らしを始めた秋月の部屋に入り浸っていた彼は、実家暮らしが嫌だからと色々な私物を持ち込んでいた。そこに事前の確認もなかったし、ワンルームの部屋の狭さなんて関係なく持ち込まれた彼の私物によって、秋月の生活スペースは圧迫されていた。

 ほとんど半同棲のような形になってはいたのに、彼は生活費を払うどころか外泊も多かった。それでも……それでも秋月は良かったのだ。それぐらい、秋月からすれば彼は太陽のような存在で。その自信に満ちた光に照らされていたかったのだ。縋っていたかったのだ。

 デザートまで食べ終えての頃合いを見計らったかのような罵声も、もしかしたら彼の計算通りだったのかもしれない。

 そんなことまで考えるくらいには、秋月の頭は冷静だった。なんだか現実味がないせいで、頭がこれをリアルに受け止められていないようだった。

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