第16話 羽鳥と葵
絨毯のように地面を埋め尽くす銀杏の葉。その上に横たわる葵を見て、綺麗だと思った。
艶やかな黒髪に、絹のような肌。華奢な体から、すらっと伸びた手足。
中学生とは思えない容姿を、制服だけが目の前で、なんの警戒心もなく眠り姫のように目を閉じている葵を、女ではなく少女だと俺に訴えていた。
正直、そんな葵から目が離せず、ただただ見ているだけの時間が過ぎた。それは、ほんの数分だったかもしれないし、何十分と見ていたかもしれない。
ただ、あの時の時間は、不思議と一瞬にも永遠にも感じた。
そして、気付けば自分の右手は、葵の左頬に伸びていた。右手がうっすらと色づく頬に触れた瞬間、葵がゆっくりと瞼をあげ、瞳をこちらに向けた。
目が合うと、葵の瞳に囚われて身体が動かず、声も出なかった。
ただただ、見つめ合う時間が流れた。そして、葵の左頬に触れている右手を、いつの間にか、葵の左手が包んできた。
その瞬間、急にこのままではダメだと頭の中で警戒音がなった。急いで右手を離そうとしたが、すでに遅かった。
この時から、俺の心は葵に囚われたのだろう。
大人びた美しさの中に、幼さを持ち、心に狂気を潜めている、この少女に。
仕事から帰ると葵は寝ていた。いつもと変わらず俺の服を身に付けて。
普段より、帰るのが遅くなったとはいえ、まだ時計は22時を指す前だった。今の高校生なら平気で起きていそうな時間帯だが、葵は夜更かしが、あまり得意ではない。21時くらいには眠気に襲われている。
すやすやと眠る葵を見て、葵がまだ中学生だった時のことを思い出す。
銀杏の絨毯に横たわる少女。あの時より成長したとはいえ、まだ未成年だ。頭の中の警戒音は、あの日から鳴り止むことを知らない。
ただ当時より、警戒音を無視するのが上手くなってきたように思う。そして、今も警戒音を無視して、当時を思い出すようにベッドに腰掛け、右手で葵の左頬に触れる。起きる様子もなく、規則正しく聞こえる寝息を聞きながら、唇を右頬に落とした。
顔を離し、頬に触れていた手を髪に移動させ、軽く髪をすく。この静かな時間が永遠に続けばいいと思う。
出来れば、もうしばらく葵を愛でていたいが、あいにく明日も仕事だ。後ろ髪をひかれながら、ベッドから立ち上がろうとすると、シャツの裾を後ろに引かれ、立つことを阻まれた。
『悪い。葵、起こしたか?』
振り返ると、うっすらと目を開けた葵が、眠気眼で、こちらを見ていた。
『おかえりなさい』
『ただいま。起こして悪かったな』
起きあがろうとする葵を止めるため、再びベッドに腰を掛けた。
『起きなくて大丈夫だよ。葵は寝てろ』
ベッドから出ようとする葵を引き留めると、ベッドから出ることは諦めてくれたが、代わりに体を預けてきた。
『ご飯、食べた?』
『まだ、食べてない』
『冷蔵庫に用意してあるから、ちゃんと温めて食べてね』
『あぁ、分かった。ありがとう』
『・・・・・』
『・・・葵、どうした?』
顔を埋めているので、表情が見えない。
『あの人とは、どうだった?』
あの人・・・あの人とは、木崎のことだろう。
『大丈夫。もう葵には近づかないよ』
『本当?出来れば、羽鳥にも近寄ってほしくないわ』
『それは、同じ職場だから無理な願いだな』
『・・・分かってるわ』
分かっていると言いながら、身体に回された葵の腕に、軽く力が入ったのが分かった。間の空いた返事といい、これは納得はしていないのだろう。
子供をあやす様に、軽く頭を撫でると「子供扱いしないで」と、小さな反抗の声が聞こえた。
「悪い」と返しながら、葵を再び眠りにつく様に促す。
少し不服そうな表情の葵をベッドに横にさせながら、邪な感情が出てこないよう、いつもの様にあしらう。
悟られてはいけない。子供扱いは、ささやかな抵抗だ。葵を子供としてではなく、一人の女として見ていることも、このまま葵をベッドに押さえつけて、このまま激しく唇を重ねてしまいたい。だけど、それをしないことでしか、葵との関係を守る術はないと分かっている。
葵をベッドに横にすると、悟られないように寝室を出た。溢れてきた欲望を抑えるためにも浴室に向かった。
この欲望を葵にぶつけるつもりはない。それは、葵と約束を交わした時に心に決めた。
頭の中の警戒音は、激しく鳴り続けている。
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