第9話
本当の名前を尋ねたら、もう忘れてしまったと彼女は笑った。永い時間さすらい続けたせいで、本当の自分を時の狭間に忘れてきてしまったんだと。
元々の持ち主の方には申し訳ないけれど、あなたが呼んでくれたから『澪』という名前が好き、澪さんはそう言った。
やっぱり、俺に似ていると思った。どこがとはうまく言えない。ただ、本当の自分を忘れてしまったという点はとてもよく似ている。澪さんが生きた時間に比べたら、人間である俺の人生なんてずっと短いはずなのに。
俺の記憶の始まりは、家族を殺されたあの日。血の海のなかにうつ伏せに折り重なった死体、真っ赤な目と銀色の目。そこから生まれた強い恨みと決意、青い炎。
でもそれより前のこと、それどころか両親の顔も、きょうだいの顔も、何も思い出すことができない。
実は疑問に思ったことがないわけではない。でも周りの人間は皆、『ショックで何もかも忘れてしまったんだよ』と言う。
それで納得していたが、果たして本当にそうなのだろうか? 俺は――
「空木さん」
深い領域に落ちそうになった意識を引き戻された。澪さんは俺をまっすぐに見つめた。
「あなたを噛めば、死ねるんですよね」
「はい。血を吸えば確実に……でも、たぶんめちゃくちゃ苦しいです。銃の方がいいかもしれません」
俺の血に触れさせれば相当な苦痛を与えるであろうことは、今までの経験でわかっていた。
俺を切りつけて血を浴びたやつも、首筋に噛み付いて血を舐めたやつも、絶叫しながらしばらくのたうち回り、苦悶の表情で息絶えた。人間を食らうものに安らかな死など与えない、そういうことらしい。
でも、銃で心臓を狙えば一瞬だ。俺も澪さんが苦しむ姿を見ずに済む。でも、澪さんの考え方は違ったらしい。
「あの、お願いがあります」
思いもよらぬ『お願い』を耳打ちされ、俺は衝撃で思わず噴き出した。一度冷静になり、本当にそれでいいのかと何度も確認したが、どうしてもそうして欲しいといわれた。
焦る俺に照れ笑いを見せた澪さんはゆっくりと立ち上がると、しばらく背を向けて欲しいと言った。
「いいですよ」
振り返ると、いつも通り肌をあまり見せない明るい色の服に着替えた澪さんがいた。それだけで、幾分か青かった顔色がよく見えた。
髪を編んで眼鏡をかけると見慣れた姿の彼女になる。俺も
上着を脱いで、身体に巻き付けている装備を全て外した。
いつも、ここで食事をしている時の格好で向かい合った。手には一本ずつ、シクラメンの花を持った。
澪さんが幸せそうに微笑むと、全身がカッと火照った。今からしようとしていることなんて吹き飛んでしまう。
『私と結婚式の真似事をしてくれませんか』
これが澪さんの『お願い』だった。
でもあいにく俺にも彼女にも、具体的に何をどうするのかという知識がなかった。とりあえず互いに何かを交換すれば成立するのでは、という話になった。結婚指輪はそうだからと、揃いになるように窓辺に咲くシクラメンの花を二つ摘んだ。
もちろん証人はいない。本当に二人きり。
「私は、空木さんを生涯愛することを誓います……あ、空木さんは、まだ先がありますから。誓わなくてもいいですから」
「……何言ってるんですか。俺も誓います。だって変じゃないですか、片方だけなんて」
そう言うと、澪さんはまた泣いた。
互いに持っている花を交換して、手を繋いだ。
多分、この後はすぐに誓いの口づけを交わすのだろうが、それは一番最後だ。ベッドに二人並んで座って、身を寄せ合っていた。
「人間って、あったかいですよね……お日様があっためてくれるんですかね。いいな。私も日向で青い空を見上げて、うんって息を吸ってみたかった。お花も陽の光の下だともっと綺麗なんでしょうね」
甘やかな声でそう言って、澪さんは俺の胸に顔を埋め、ひんやりとした頬を擦り寄せた。花が好きな澪さんは、ずっと陽の光に焦がれていたのだろう。
「俺も、一緒に見たかったです」
そこで言葉に詰まった。俺も幸せだった。澪さんといられた時間は、いつだって幸せに溢れていた。何も持っていなかった俺に、優しさと温もりを分けてくれたのに。何ひとつとて返せなかった。
澪さんは少しずつ弱っていった。思えばもう何時間も身体を寄せていた。俺の毒に反応しているのだ。大切な人を救うことすらできない無力感がじわじわと広がっていった。
「守ってあげられなくてごめんなさい」
自分の体を支えることすら難しくなった澪さんにたまらずそうこぼすと、柔らかい笑顔が返ってきた。
「謝らないでくださいね。人間に恋をしても裏切られることなく、永遠の愛を誓ってもらえる。こんな幸せなことって、そうそうないんですよ」
それだけ言うと、澪さんは俺としっかり目を合わせた。
そろそろ結婚式は終わりだ。
「……じゃあ、行きますよ」
澪さんはゆっくりと頷いた。俺と口づけを交わせば、間違いなく澪さんは死んでしまう。だから一番最後なのだ。たとえ苦しむことになっても、長い長い旅の終止符は弾丸でもでもナイフでもなくそれがいいと、澪さんが言ったからだ。
今にも崩れ落ちてしまいそうな身体をしっかりと抱いた。経験のないことだから間違っているかもしれないが、もう答え合わせをする機会もない。これが最初で最後なのだから。
目を閉じて、ゆっくりと唇を重ねた。冷たいものが口の中に入ってきたのを受け入れた。幸せと絶望が、また混ざり合った。
今までに俺の血に触れたものと同じく、もがき苦しむ姿を見ることを覚悟していたが、彼女はなぜかとても静かだった。不思議に思って唇を離した。
澪さんは何かを言おうとしているみたいだが、もう声が出ないらしい。瞳孔が開き、焦点が合っていない瞳。事切れる寸前なのは目にも明らかだった。
ほんの僅かな希望は、無惨にも打ち砕かれた。
「大丈夫です、最期までちゃんとそばにいます」
唇が「あいしてる」という形に動いた。
「俺も愛してます」
動かなくなってしまった澪さんに、もう一度、唇を重ねた。
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