第7話

 その日の夜も約束の日だった。手ぶらでやってきた俺を見て、身体がつらいことを察してくれたのか、澪さんは「座っていてくださいね」と優しく笑った。


 申し出に甘えてベッドにもたれて座り、目を閉じていた。瞼の裏で銀色の渦が巻いていて気分はすぐれなかったが、心の中は「今日は何を作ってくれるんだろう」と子供のようにうきうきしていた。


 目をそっと開くと澪さんはいつものように台所に立っていて、鼻歌を歌いながら料理をしていた。彼女の鼻歌は包丁がまな板を叩く音と重なって、今日も楽しそうなメロディーを奏でていた。ずっと耳を傾けていたい。ずっとずっとこのままで。


 もし俺に、将来の夢があるとしたら。


「好きです」


 ふと、押さえ込んでいた気持ちがこぼれ落ちた。しまったと思った。これだけは言ってはいけないのに。


 聞こえていないこと祈ったが、澪さんが手を止め、くるりと振り返った。


「え? 今、何かおっしゃいましたか?」


「い、いいえ」


「ふふ、変なの」


 澪さんはいつものように微笑んで、再び野菜を刻み始める。


 よかった、大丈夫だ、と息をついた。


 何の運命のいたずらかこうして一緒にいるが、俺たちは本当なら交わってはならない者同士だ。いつか必ず離れなければならない時が来る。手を下さなければならない時が来る。


 それでも、少しでも長く、この穏やかな時間が続いてほしい。触れられなくてもいいから、少しでも近くにいたい。彼女の気配を感じていたい。


 心には憎しみしか持たなかったはずの俺は、いつしか別の色の炎に胸を焦がすようになっていた。



 ◆



 いちおう毎晩彼女の監視は続けていて、これまでに吸血行動も何度か確認した。


『その時』の澪さんは眼鏡を外し、髪をほどいて黒いドレスを身にまとった姿で家を出る。闇に紛れてそっと追った。


 澪さんはいつものように一人で歩く男性に「遊びませんか」と声をかける。俺といる時とはまるで違う、甘やかで妖しい音色。それを聞いた男はまるで魔法にかけられたかのように、澪さんに腕を絡めてついていく。


 彼女と知らない男が暗がりにあるベンチに並んで腰掛けているというだけで心が疼いたが、感覚が鋭敏な澪さんに気取られてしまわぬようひたすら息を殺した。


 耳をそば立てると、男性はおそらく相当酔っているようで、澪さんに散々卑猥な言葉をかけていた。心に火がつきそうになったが、必死で堪えた。


 澪さんは男性に寄り掛かられた瞬間、その首筋に噛みつき、そしてすぐに離れる。時間にしてほんの数秒。さすがにこれでは舐めただけと変わりないのではないか、と思いながら見ていた。


 そういえば、回を追うごとに時間が短く……要するに吸血の量が少なくなっている気がする。近頃は俺と一緒に食事をしていることが多いので、必要量が減っているのだろうか。


 だとしたら、もしかしたら……このまま吸血なんか必要なくなって、追われることもなくなって、そうしたら。


 首を横に振る。そんな夢を見るよりも先に、俺にはやらないといけないことがある。


 彼女が相手に恭しく頭を下げてから去った後、ベンチにもたれかかる男のそばに駆け寄った。吐き気を催すほどの酒の匂いに怯みながら、安否を確認する。首筋には小さな穴が開いていたが、脈はあり息もしていた。


 男はすぐに幸せそうな顔でいびきをかきだしたので胸を撫でおろす。今まで確認した被害者も、少しの時間眠るとすぐに何事もなかったかのように動き出していた。


 澪さんのことが噂レベルにとどまっていたのはそのせいだ。証拠となる噛み跡も小さく、不思議なことに普通の傷よりも比較的早く消えてしまう。


 俺もまた、彼女が人を殺すわけがないと信じて監視だけに止め、今も上に事実を報告せずにいた。


 俺は気を失っている男性の横に腰掛けると天を仰いだ。新月でよく晴れた夜。いつもは見えない小さな星も、今日はのびのびとまたたいていて、今にも降ってきそうだった。


 膝の上で指を組み、今日も澪さんを殺さずに済んだことを誰にでもなく感謝した。星がひとつ流れた。


 このまま澪さんと生きていきたいと願おうとした。たとえば、俺の血を少しずつ分けてやることができたら、とか。一緒に花屋で働きたい、とか。広い庭の手入れを手伝いたい、とか。まるで今までの延長のような、温かくて明るい未来を描いてしまう。


 でもこれらは空の星を掴めないのと同じで、決して叶わない願いだ。


 だからどうかこれからも、心優しい彼女が平穏に過ごせますようにと願った。


 横の男が寝言を言い始めたので声をかけた。今夜は冷えるので、さすがにこのまま放っておくわけにはいかない。首に噛み跡が残ったままの状態で死なれてしまったら困る。


「大丈夫ですか? こんな所で寝てたら凍死しますよ」


「んあ? 誰だよ……あれ? さっきの可愛いお姉ちゃんは?」


「……夢でも見てたんじゃないですか」


 首を傾げつつ立ち上がった男性を見送ってから、俺も走り出した。いつも澪さんが通る道を急ぐ。彼女が帰宅しているのを確認したら監視は終了。俺もバレないように家に戻ろう、そう思ったのだが。


 澪さんはまだ家に帰れていなかった。途中にあるブロック塀に時々寄りかかりながら、ふらふらと、どこか足元がおぼつかなかった。とうとうしゃがみ込んでしまった彼女はしばらく動かなくなった。


 酔っ払いの血を吸ったせいで酔っ払ったのかと思っていたが、なんだか様子がおかしい。再び立ち上がって歩き出したものの、変な胸騒ぎがした。


 今度は電柱に寄りかかってしまったところで、とうとう隠れていなければいけないことも忘れて駆け寄った。澪さんは突然現れた俺に目を丸くしたが、すぐに笑顔になった。


「あれ? 空木さん、どうして」


「……たまたま通りがかったんです。大丈夫ですか」


 よろけた彼女をすかさず支えると、まるで張り子のように軽かった。細いとは思っていたが、ここまで痩せているなんて思いもしなかった。手を握ると夜の空気よりもずっと冷たかった。吸血鬼の身体は冷たいとはいうが、こんなにも?


 心臓がどくどくとうるさいのは、澪さんに初めて触れて高揚しているからなどではない。なんとも嫌な予感が、じんわりと俺の体も冷やしていく。


 彼女を迷わず抱き上げた。ほんの小さく悲鳴を上げられたが、抵抗はされない。澪さんは俺をじっと見上げる。


「あの、お願いがあるんですけど」


「もちろんこのまま家まで送りますよ。あったかいもん飲んで、ゆっくりしましょう」


「そうじゃなくて、あの……私を殺してくれませんか」


 寿命が近くなったのか、明滅し始める街灯。


 今日は赤い目をした彼女は、いつものように「足りない材料をお使いしてきてほしい」くらいの調子で言った。

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