第12話 挑戦-1

 そんな春香がようやく勤務体系に体が慣れ、初めて和太鼓部の練習に参加したのは秋も深まった頃である。入社して八カ月が経っていた。

 最初は興奮と緊張で体が動かなかったが、これまで蓄積してきた経験があることや事前にいくつかレパートリー曲のリズムを覚えていた成果が認められたらしい。細めのバチを渡され、いきなりリズムを刻む小さな絞太鼓しめだいこの前へ座らされたのだ。

 長胴太鼓ながどうだいこという中型の太鼓四つと、絞太鼓三つの七人で体系を組む、ロビーでのショーでもよく使われる曲がいくつかある。リーダーの一人で入社十年目の料理飲食部門チーフ、友永ともながからその中の一つが選ばれ指示を受けた。

「今から一曲演奏するから、そのリズムを叩いてみろ」

 春香は映像で覚えた拍子を思い出し、隣で同じように絞太鼓を叩く小畑を横目で見ながら、なんとか一曲叩き終えた。途中何度か狂ったり叩き損ねたりすることはあったが、どうにか最後まで終えると小畑が褒めてくれた。

「いきなり皆と揃ってやったにしては上出来じゃない?」

 しかし友永はニコリともせず、別の太いバチを春香に渡しながら言った。

「今度は長胴太鼓を同じ曲で叩いてみろ」

 同じ曲でも叩く太鼓の種類が変われば、バチだけでなくリズムも叩き方も当然変わる。手を震わせながら同じ曲目のビデオ映像を思い浮かべ、長胴太鼓のパートをどうにか叩き終えることができた。

「リズムは覚えたようだが、どちらも恐る恐る打っている。だから腰が入ってない。もっと練習しないとお客様の前ではとてもじゃないが演奏させられないぞ。しばらくこの一曲だけ、絞太鼓と長胴太鼓の両方で叩けるように練習してみろ。おい、柴田。天堂と一緒に向こうで練習を付き合ってやれ。他のメンバーはこっちで練習を続けるぞ」

 友永の一言で他に集まった五人は別の曲目を叩きはじめた。和太鼓部の持つレパートリーは三十曲ほどある。その内夏のイベントに向けて集中的に練習するのは十二曲だ。

 イベントでは一時間で七曲演奏するが、一週間続く為に必ず演奏するメインの三曲以外の四曲は日替わりで演奏するという。その期間連泊するお客様を飽きさせないためらしい。

 指示されたのはメインでない曲の一つだが、ロビーでも演奏される曲目を叩けるよう練習することになったのだ。この一曲を絞太鼓、長胴太鼓で叩くことができるようになれば、ロビーでの演奏に参加できるばかりか、来年の夏のイベントでも、一部に加われる可能性がある。

 普通は素人から始める部員が多いため、お客様の前で演奏できるようになるには相当時間をかけてからでないと難しい。新入社員の場合は初めて参加する夏のイベントだと一曲叩かせてもらえばいいほうだという。ただ春香の場合は経験者であるからか、即戦力として期待された。

 実際にはメンバーが一人でも増えれば、毎日ロビーで演奏するローテーションが余裕を持って回せるから重宝されたというのが本音だろう。しかしそれでも構わない。望むところである。

 毎晩行われるショーは個別に業務時間外で行っている練習とは違い、業務時間内で仕事の一環として行う事が出来た。だが本来の仕事をしながら演奏を行う事は、体力的にも精神的にもかなりの疲労を伴う。

 その為他のメンバーも各自の負担が少しでも少なくしたいというのが実態だ。お客様を満足させる為に何かやりたいと考えた中で、従業員が自ら学んで行うようになったのが和太鼓によるショーだった。

 それが好評となり続けてきたサービスではあるが、さすがに同じメンバーで連日続けることはできない。質の高い演奏とパフォーマンスを行うには、個々の健康管理と集中力を保つ必要があるからだ。

 部員が集まっての練習は、休憩を含めてせいぜい二時間ほどしかない。勤務時間がばらばらであるため、決められた日時に参加できるメンバーがいつも違っているのは当然だ。

 ただどんなメンバーが集まってもやることはほぼ決まっていた。イベントに向けての十二曲を中心にしてロビーで演奏される曲を、各自が締太鼓や長胴太鼓、肩から担ぐ桶胴太鼓おけどうだいこ三尺さんじゃく大太鼓、五尺ごしゃく大太鼓の五種類で演奏するのだ。

 三尺大太鼓や五尺大太鼓を叩くことができるようになるには時間がかかる。大太鼓は叩く回数は少ないけれど、当然音が大きいためにかなりの体力と、全体のリズムを理解していなければ出来ない。

 長胴太鼓などとは叩き方も力の入れ方も全く違う。その為体全体の筋力を使う五尺大太鼓などは、和太鼓部の中でもベテランの役割になっていた。

 春香の様な新人は、まず手数の多い絞太鼓や長胴太鼓で練習を積み重ね、全ての曲目を演奏できるようになることが先だ。次にお客様の前に立ち、一曲完全に叩き終えることができなければならない。

 偶然だが旅館の面接を受けた日の夜の演奏で会話を交わしたあの柴田という先輩の指導の元、残りの練習時間を片方が長胴をもう片方が絞太鼓を叩くといった方法で同じ曲を叩き続けた。

 練習が終わり、へとへとになっていると柴田に声をかけられた。

「天堂さんは覚えている? 俺が面接後に言っていたこと」

 もちろん覚えていた。入社後に宿泊部門での研修を行った際、フロント係である彼の姿を見つけた時は胸がときめいたものだ。

 しかしその期間は彼から直接指導を受けることはなく、声をかけることがなかなかできずにいる間に、別の部門研修へ移ってしまったのである。

 その後もフロント裏にある事務所が職場である管理部門に配属されてから、春香は様々な部門の手伝いに駆り出されていたこともあり、彼とは何度も顔を合わせていたし、和太鼓部に入って挨拶した時にもその姿を見かけていた。

 だがその頃には初めて会った日から時が経ち過ぎていたため、彼は覚えていないだろうと思っていた。よって自分から声をかけることなどできなかったのだ。

 それが思わぬタイミングで彼から和太鼓の直接指導を受けることになり、急接近しただけでも驚いて緊張していた。さらに覚えているとは思わなかった話題を向こうから投げかけてきたため、言葉が出なかった。

 振り向いて目を合わせはしたものの、まるで金魚のように口をパクパクさせている春香を見て彼は笑った。

「何だ、覚えてないのか。採用されるといいですねと声をかけたんだけどな」

 そこでようやく声が出た。

「お、覚えています! その後、一緒に和太鼓を叩くことができますよと言って頂きましたよね」

「そうそう。採用されれば和太鼓を叩きたいと言っていたよね。それがようやく実現した訳だ」

「はい!本当にようやく、です。仕事に慣れるまで時間がかかってしまい、なかなか参加できなかったのですが、念願が叶いました」

「そうだね。では改めて宜しくお願いします。柴田と言います」

「も、もちろん存じています!」

「そう。入社してから研修や配属されてから何度か顔を合わせていたのに何も言ってこないから、てっきり忘れられているのかと思っていたよ」

「いいえ! ずっと覚えていました! でも声をかけていいものかどうかと考えている間にタイミングを逃してしまって、柴田さんこそ私の事なんて覚えていらっしゃらないかと思っていたんです」

「俺はフロント係でお客様の顔を覚えるのが仕事だから。あの時の会話は印象も強かったから記憶に残っているよ」

「すみません。そうでした。プロのフロントマンならお客様のことはよく覚えてらっしゃいますよね。私から声をかけていただいたお礼を言うべきでした。こちらこそ、今後ともご指導のほどよろしくお願いします!」

 恐縮して頭を下げると彼は笑った。

「謝ることはないよ。天堂さんが覚えてくれていたならそれでいい。これから大変だと思うけどよろしく」

 彼は別の部員に声をかけられたため、そう言い残してその場を去った。しばらく茫然としていたが、我に返ると練習で掻いた以上に緊張で吹き出していた汗を流すため、慌ててシャワー室へと向かったのだ。

 残念なことに次の練習では彼の姿がなく、別の先輩についてもらい同じく一曲を叩き続けた。こうして勤務の合間を縫って練習を重ね、年明け三が日のイベントには間に合わなかったが、一月の初め頃にはなんとか一曲だけ叩くことができるようになった。

 そんなある日、友永から声がかかった。

「天堂、今度のロビーでの演奏で一回叩いてみるか」

「え? いいんですか?」

 嬉しさと不安が入り混じった顔で聞き返すと、逆に尋ねられた。

「なんだ、まだ自信がないのか?」

 咄嗟に答えた。

「いえ、自信はあります! 叩かせてください!」

 とうとう憧れの舞台に立てる。デビューする日が決まったのだ。

 その前日は興奮してなかなか寝付かれなかったため、夜の十一時近くにベランダへと出た。一月の寒い夜は山から凍りそうなほど冷たい風が吹いており、血が上った頭を一気に覚ます。

 寒さに震えながらもぼんやりと晴れた夜空に輝く星空を眺めていると、勤務明けで寮に戻ってきた小畑が気づいたらしい。寒空の中でベランダに佇む春香を見て首を傾げた彼女が先に声をかけてきた。

「こんな寒い時間に何しているの?」

「はい、ちょっと眠れなくて。小畑さんはこれからお休みですか?」

「そう。あっ、もしかしてあなた、明日の演奏が気になって眠れないの? 緊張しているんじゃない?」

 彼女は意地悪な笑いを顔に浮かべ、心の中をズバリと言い当てる。

「そ、そんなことないですよ」

 恰好が悪いと思い否定したが、その震えた声が図星だと言っているようにしか聞こえなかったのだろう。ニヤニヤと笑いながら彼女はさらに脅かす。

「無理にでもしっかり寝ておかないと、それこそ失敗しちゃうよ」

 その言葉に自分でも驚くほど激しく動揺した。

「だ、大丈夫です。お、おやすみなさい!」

 逃げるようにして窓を閉め、ベッドへと戻った春香の耳に彼女の笑い声がかすかに聞こえた。

「人の気も知らないで、面白がって」

 そう呟きながら布団に潜り込んではみたものの、再び緊張がぶり返しなかなか眠れない。彼女が言うように明日は失敗してしまうのだろうか。そうなれば大勢の客の前で恥をかくことになる。そんなことになったら、もう二度と太鼓を叩かせてもらえなくなるかもしれない。

 そう考えだした途端、胸が急に痛みだした。久々に起こった動悸だ。ここ半年以上無かったうつ病の症状が再発したのかと別の意味で不安になる。

 まずいと感じたその時物音がした。体を起こしてそれが自分の部屋のドアを叩く音だと理解するまで少し時間がかかった。しばらくしてもう一度、トントンと音がした後春香を呼ぶ声がする。それは小畑だった。

「天堂さん、もう寝た? 起きている?」

「は、はい、起きています」

 慌てて返事をして立ち上がり、急いで鍵を開けゆっくりとドアノブを回して押す。そこには少し表情を曇らせた彼女が立っていた。

「本当に大丈夫? ごめん。さっきは冗談でからかったけど、天堂さんにはそう聞こえなかったかもと思って」

 同じ管理部の先輩である彼女は、春香が心の病で前の会社を辞めた経緯など詳しく知っている。だから病気のことを思い出し、心配してくれたのだろう。とても鋭い人である。

「ああ、いえ、大丈夫ですよ」

 そう返事をしているその体は、全く正反対の状態だった。症状がぶり返したかもと動揺していたことに加え、その事を見抜かれたことでさらに戸惑っていたからだ。

 だが彼女は知らぬ間に震えだしていた春香の腕をさすり、優しい声で教えてくれた。

「心配しなくていいよ。天堂さん一人が失敗したって、皆がちゃんとフォローしてくれる。最初から完璧に叩ける人なんていないから。他の人や私だって失敗したことは何度もあるのよ」

「そうなんですか?」

「あたりまえじゃない。それにここで行うショーの太鼓は一人で叩くものじゃない。和太鼓部全員で叩くの。天堂さんは練習できちんと叩けている。だから明日のメンバーに選ばれたのだから、その事に自信を持って。余計なことは考えず、一心不乱になってがむしゃらに叩きなさい。それが和太鼓のいいところなの」

「がむしゃら、ですか」

「そう。がむしゃらに、ね。でも後先考えないでやたら頑張る、という意味ではないわよ」

「どう違うのですか?」

「そうね。しっかりこれまでやってきたことを振り返った上で、目標や課題を設定して懸命に頑張るってことかな。どう? 判る?」

「なんとなく判ります」

「和太鼓って叩いたら叩いただけ響いてくるでしょ。練習でも何度か言ってきたけど、小さく弱弱しい気持ちで叩くとそれだけの音しか返ってこない。でも気持ちを込めて力強く叩けば、その分音として気持ち良く響き返してくれる。あなたは皆とリズムを合わせ、しっかり演奏するという目標や課題は判っているよね。それを踏まえた上でしっかり心を込めて懸命に叩くの。大丈夫。眠れないのだったら、気持ち良く叩いている自分や皆の姿を頭で何度もイメージしなさい。そうすれば自信もつくし、気持ち良く寝られるはずだから」

 彼女の言葉に励まされ、少しだけ元気になった。いつの間にか心の中にあったもやもやも消え、動悸も治まっていた。

「ありがとうございます」

 頭を下げてお礼を言う春香の明るくなった顔を見て、彼女は安心したのかそれ以上何も言わず、ポンポンと二度腕を叩き笑ってその場を去って行った。

 ドアを閉めてベッドに横たわると、言われた通り頭の中で気持ち良く和太鼓を叩いている自分を想像してみた。するとどんどん気持ちが高揚して、気分が良くなってきたのだ。頭の中で響く太鼓の音が心を楽にさせてくれる。

 気持ちが乗ってバチを打てば打つほど、太鼓からは良い音が返ってきた。そうだ、私は叩けるんだ、そうこの音だ、私はこの和太鼓の音が好きなのだ。

 そう思っている間に小畑の言った通り、ぐっすりと深い眠りに落ちていった。左腕にほんのりと残る、彼女に触れられた温もりも手伝ったに違いない。

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