第10話 五樹の困り事





おはようございます、五樹です。今回は、時子の毎日について短く話しましょう。


時子は、現在専業主婦です。そして、病気療養中で、うつ症状が少し重く、外にもほとんど出ない。


彼女の毎日は、刺激が少ないようで、嵐のような苦難です。


PTSDのフラッシュバックで、苦痛を思い返す瞬間は、ふとした事で簡単に訪れます。


例えば、苦しかった時に聴いていた音楽を聴いた時、突然に過去の辛い記憶を思い出して、ひとりでに泣いてしまったり。


彼女は一日中家に居て、リビングの椅子と、寝室の布団を往復する。それしか出来ない状態なんです。


ほとんど何もしていないのに、気力と体力の消耗を常に感じ、日々を過ごすのを苦痛に感じ、時子はたまに死を思い描きます。


それでも彼女は、“死んで逃げたりしない”、“一生このままでも、私なら絶対に大丈夫”と、強く自分を励まします。


時子は食事のバランスを気遣う余裕がなく、調理をする気力もありません。


食事の内容は、冷凍した米や食パン、レトルト物や、夫や僕が調理しておいた野菜のおかずなどです。電子レンジで温めるのが精一杯である時子のため、用意をしてくれる夫には、感謝しています。


でも、時子は野菜を食べるのが苦手なので、気力が無い時は野菜のおかずを食べてくれなかったりします。身体のためには、食べて欲しいのですが…。


時子の夕食は大体夕方5時くらいで、それを食べ終わったら、夕食後の薬と、睡眠導入剤や安定剤も飲んでしまいます。


彼女は、苦しい毎日から、逃れたがっている。だからすぐに眠ろうとするのです。


でもそうすると、とても早い時間に目覚めてしまう。それに、早過ぎる時間に睡眠導入剤を飲むと、よく効かないので、睡眠時間が短くなってしまいます。



今朝の時子の話をしましょう。


今朝、時子は、午前2時に起きました。


本当なら二度寝をして、もっと体を休めて欲しかった。4時間しか眠っていなかったのですから。


でも、彼女は大好物のコーヒーを2杯も飲んでしまいました。


時子の夫は、コーヒーが本当に大好きで、特別に美味しい豆を家に揃えています。そして、時子もコーヒーが好き。でも、ろくに眠れていない時にも躊躇して飲んでしまう時子に、僕はいつも困るのです。


コーヒーを飲んだ後は、皿洗いをしたり洗濯物を畳んだりと、時子は主婦である事に必死でした。


時子はよく、「トイレに行くのに立ち上がるのも辛いなあ」と考えています。そんな人間に、誰が家事を強制するでしょうか。彼女は、毎日の入浴も苦痛で、出来ない状態です。家事なんかしている場合ではありません。


そして、家事が終わってからは、時子は3時頃から、音楽を聴き始めました。


時子が聴いていた音楽は、苦しみの音楽でした。


「六人の住人」でも、時子が好んで聴く音楽を、“聴いているだけで傷付くほどに情感的な音楽”と僕は書きました。


今朝時子が聴いていたのは、すでに没したミュージシャンの曲で、「どうかこの苦しみから解放してくれ」と訴えるような曲でした。


時子は感受性がとても強く、影響されて揺れる自分を止める事が出来ません。でも、彼女はそんな自分が好きではないのです。


彼女は音楽を聴いて泣きながら、こう思っていました。


“自分のものでもない悲しみを、勝手に借りて、感傷に酔うために泣くなんて、失礼極まりない。私はダメな奴だ”


人の悲しみに共感している時に、そんな事まで考え始めれば、人の心は耐えられるはずがありません。


それに、たとえばこの世には、人の悲しみになど構いもしないで、自分の考えを押し付けたり、ともすれば嘲笑うような人だって居ます。それと比べれば、一緒に泣いてくれる人だって、居ていいじゃないですか。でも、時子はそう思わない。


その曲が終わらない内に、悲しみや苦痛に耐えられなかった時子は眠りに就き、僕が目覚めました。



僕はそれから、歯を磨いたり、カウンセリングルームでカウンセラーに教わった、気持ちが楽になる体操をしたりしました。



時子が、自分の生活を気遣う余裕も無い事。自分を痛め付ける事に何の抵抗も無い事。僕は時に、それに困ってしまうのです。


そんなに自分ばかり責めないで欲しい。そんなに頑張り過ぎないで欲しい。そう言っても、彼女は多分、聞いてくれません。自分を大切にする事を、教わらなかったから。


少しずつ、夫に愛されている事を理解して、自分を大事にしてくれるといいなと、僕は思います。


とりあえず、今日は5時になったら食事をして、薬を飲もうと思います。


いつもお読み頂き、とても有難いです。また来て下さると嬉しいです。それでは、また。





つづく

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