葉山理緒と九重美咲 40

「……ごめん」

「なんで謝るの」


 呆れたようにしながらも優しい声音の倉橋に、力なく首を振る。


「……あたし、何もしてないから」

「だから葉山は何も悪くないって」

「そうじゃない」


 言葉を遮って、顔を上げる。

 倉橋は表情も優しい。かつて倉橋の家にいた時も同じような表情を見せていた……のだっただろうか。忘れたいという意志と恩人への思いがぶつかりあったように、当時の記憶が急にあいまいになる瞬間がある。

 倉橋の見た目は少し変わった、というか成長している。中身も変わっていないわけはないだろうが、理緒が感じる優しさはまさしく当時のものだ。

 一方の自分はどうだろうか。前に進むと威勢のいいことだけは言っているが、実際にはあの時から何も進んでいないのではないだろうか。

 気分が沈むんだ時にはこういったネガティブな気持ちが浮かび上がってきやすくなる。その自覚があるが、この思いは理緒の精神状態にかかわらずにずっとわだかまっていたものでもある。


「あたし、前に進みたいんだ。いつまでも昔のことに縛られるのは本当に嫌で、成長してうまくやれるようにしたいのに……そのためのことが何もできてない。何もしてない」

「葉山……」


 倉橋の手が理緒に向かってゆっくりと伸びる。触れる前にぴたりと止まって、虚空を掻くようにして戻された。

 それを複雑な気持ちで眺める。安心させようとしたのかもしれないが、心の奥底では触れられたくないと思ってしまっていた。倉橋だからではない、触れられるということ自体に大きい拒否感があった。

 普段はそんな気持ちはここまで大きくはならない。やはり、気持ちが沈み込みすぎている。

 どうにか打開したいと思いながら、結局何もできていない。


「……自分のことばっかりで嫌になる」


 理緒は友人に恵まれたと思っている。決して多いわけではないが、出会えてよかったと思える大事な人たちだ。当初はぶつかることもあったが、それらを越えてより仲良くなった。

 付き合いも長くなってきて、出会った時とはずいぶんと変わっていると思わされる。大人になったという単純なものではなく、成長していると驚かされることも多い。そのたびに自分だけが置いて行かれてるような焦燥感だけが強くなっていった。

 そんな気持ちは自分が勝手に抱えているもので、友人たちには関係はない。友人たちが進んでいく中、自分だけ勝手な劣等感を抱えてこうしている。

 美咲に拒絶だけして、倉橋には関係ない感情を垂れ流している自分が気持ち悪い。

 頭を抱える心地の理緒に、倉橋はやはり優しく言う。


「まずは自分のことじゃないの?」

「…………」

「自分のことを第一にするのは普通のことだよ。わからない人たちには絶対わからないから」

「……そういう話じゃない」

「そういう話だよ。美咲って子も、葉山のことは何も知らない。わかりっこない」

「確かに話してないけど……」


 まだ、お互いに表面的な部分しか知らない。明るい性格やまっすぐな目、天真爛漫な美咲に惹かれたが、付き合いそのものは短いし、まだまだ知らないことはたくさんある。

 理緒も、自分のことを深く話せているわけではない。話すにも聞くにも、簡単にできる話ではない。

 自分がしていなかったことの一つがこれだ。


「美咲にも、話すべきなんだと思う。じゃないと、向こうはなにがなんだかわからないままで……」

「話す必要なんてない」


 強い調子で遮られて、驚いて目を見開く。

 倉橋は厳しい顔で、ソファの背もたれを強くつかんでいる。


「話したってどうせわからない。こういうのは、僕たちにしかわからないよ。実際に被害に遭った人間じゃないと、理解なんて絶対にできない。適当な慰めを言われて、結局傷つくのは僕たちだよ」

「倉橋……」

「そいつだって、葉山を傷つけた加害者側のやつだよ。葉山がそんなのに振り回される必要なんてない」

「……それ、やめてほしい」


 小さく願うように言うと、倉橋は疑問そうに眉根を寄せた。


「加害者って言い方、やめて」

「……現実はそうだよ」

「あたしはそんな分け方したくない」

「じゃあどうして、葉山はあんなに傷ついたの?」


 突きつけるような言葉に、刺されたような心地で胸を押さえる。

 倉橋は言い含めるような口調でつづけた。


「傷つけるようなやつは、それで人が傷つくっていう想像力がない。向こうは大したことないって思ってたりすらする。僕たちにしか、そういうのはわからないよ」

「……どうしてそんなこというの?」

「本当のことだから」


 倉橋の目に威圧感はない。口調は強いが、理緒のことを心配するようなものすら感じる。

 倉橋は敵ではない。味方をしてくれようとしているのもわかる。しかし、自分たち以外が敵であるような物言いにはどうしたって反発がある。

 久しぶりに会えた倉橋にも、色々あったはずだ。その経験が、それを言わせているのかもしれない。

 だが、理緒にだって倉橋がいない間の経験がある。そこから言えるものだって、きっとある。


(……本当に?)


 内心では威勢のいいことを思いながらも、疑念もある。

 この五年の間、理緒は前に進めてきたのだろうか。自分の経験なんかで、何かを言えるようなものが果たしてあるのか信じ切ることがなかなかできない。

 倉橋の言葉は、無条件で肯定できるものではない。同じ経験をしていない人でしかわかりあえないというのは、さすがに納得はできない。


「……倉橋の言う通りかもしれない。本当にわかってもらうことなんてできないのかもしれない」

「そうだよ。だから……」

「でも」


 倉橋を遮って、内心を奮い立たせる。


「あたしたちみたいに家族から性被害を受けた人以外は分かり合えないって、遠ざけるのは多分良いことじゃないよ」


 姿勢を正して、強く倉橋を見据える。言葉にするには意気が必要で、少しでも緩めば涙を流してしまう。それだけは嫌だった。

 倉橋も強い眼差しを返してくる。ややあって、小さくかぶりを振った。


「……ちょっと話が違うよ。みんなを遠ざけるってわけじゃなくて、葉山を傷つけるような人は遠ざけるべきだってだけ」

「美咲は……」

「これまでもいなかったの? 理解せずに、葉山を傷つけるような人は」


 今度は理緒が遮られて、身体も心も硬直した。


『そんなの平気だよ。すぐにちゃんとできるようになるから』


 かつてかけられた言葉がよみがえって、一気に汗を感じる。

 理緒にとっての高校生時代は、大きく二つに分けられる。

 香澄や沙耶と親友になって楽しく過ごした日々と、ひと時付き合った恋人との楽しくしかしとても辛く終わった記憶。


「いたんだね」

「高校生の時に、付き合った人がいて……」

「話さなくてもいいよ……辛いことでしょ?」

「そうだけど……話したい」

「葉山?」


 倉橋の目が困惑に揺れる。

 全身が震え、呼吸すら荒れていく。いまだに思い出すだけでひどく動揺してしまう。

 理緒の人生には特に辛い記憶が二つあり、そのうちの一つは今口にもしたことで、倉橋も同じような経験をしている。

 だとしたら、これからする話も倉橋は経験しているだろうか。

 別に珍しい話ではない。ごくありふれたもので、似たような経験をした人はきっといる。

 倉橋だけではなく誰にだってあってほしくないことだが、倉橋の言う通りなら倉橋が経験してなかった場合わかりあうことはできない。


(だったら……)


 ひどく暴力的な思いで、自分の胸を握りしめるようにして口を開く。


「その人には、高一の時に会った」


 顔も、声も、細部まで鮮明に思い出せる。

 かつてたまらなく好きだった相手のことを、どれだけ忘れようとしたって叶わなかった。


「人見ゆあ。あたしが当時付き合ってた相手」


 倉橋は苦い顔をしているが、理緒の話を遮ったりしない。

 続きを話すべく、理緒は当時を思い返しながら続けた。

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