葉山理緒と九重美咲 31

 うまくいかない。

 どうすればうまくいっていると言えるのかはわからないけれど、そんな思いが頭の中に渦巻いている。

 理緒と会うことはできたが、これまでで一番緊張してしまっていた。美咲のしていることは身勝手で、理緒が怒って当然だし会うことを承諾してくれただけでもありがたいと思う。

 だが、そんな罪悪感だけが緊張の源でもないことも気が付いてしまった。

 理緒の顔をちゃんと見ることができない。自分の声が上ずっている気がして、喋るのも怖い。

 理緒と会う直前まで、とてつもなく緊張していた。理緒と会おうと決めたは良いものの、どうなるのかわからなかったからだ。

 実際に顔を合わせたことで、美咲の緊張は全てが吹き飛んだ。

 理緒と会えて、顔を見れて、声が聞けて、嬉しいという感情だけが湧きあがってきていた。なんとか感情をコントロールしようとしたが、高鳴る胸だけはどうしようもなかった。

 理緒のことが好きなのだと再確認させられると、一つの問題が頭をもたげていた。

 寝ている理緒にキスをしてしまったことを、謝罪する。

 これに関しては明確にそうしようと決めていたわけではまったくない。むしろ本当に口にするべきかは結論が出ないまま理緒と顔を合わせることになっている。

 話は良い方向に進んでいた。理緒は美咲と会って話したかった、もっと仲良くなりたいと思っていると言ってくれた。好きだというのはそういう意味ではないとわかってはいても、激しく美咲を動揺させた。

 理緒といてどうしようもなく喜んでいる自分に強い罪悪感を感じていた。理緒は美咲のしたことを知らない。どうしようもない卑怯者だと自分を責め苛む声が聞こえてくるようだった。

 だから、自分のしたことをきちんと謝罪するべきと思った。

 しかし、言いかけた言葉は理緒にかかってきた電話で遮られた。

 理緒が背を向けた途端に、力が抜けて屈みこんだ。両手で顔を覆い、何をやっているんだろうと自省する。同時に、助かったという安堵も確かに芽生えていた。


(助かった……?)


 内心に疑問の声をあげる。理緒に言わないことで、美咲は間違いなくそう感じていた。

 言えばどうなるのかはわからない。せっかくまた話すことができそうになっていたのに、元の木阿弥になってしまう可能性だってある。それを避けられたのなら、確かに助かった、のだろう。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、何をどうするべきかの結論がころころと入れ替わっていく。

 ちらりと顔を上げて理緒を見る。こちらに背を向けて電話をしている理緒にそっと手を伸ばす。届くわけがない距離だから、逆に安心してそうすることができた。

 理緒に触れたい。

 どうしようもなく存在している欲求が、美咲の頬を赤く染める。

 あんなことをしておいて、謝ろうと思っていたくせにそんなことを考えている自分がたまらなく恥ずかしかった。これこそ、理緒には決して言えないことだ。

 立ち上がって深呼吸をする。落ち着け。今考えるべきことはなんだろうと頭を回転させる。

 正直なところ、理緒の電話が終わったところで先ほどの続きを言えるとは思わなかった。一度挫かれたことで、完全に気力を失ってしまっている。

 だから今日は、このまま無事に別れようと決める。理緒を前にして冷静でいることができない以上、無理に結論を出そうとしてもろくなことにならない気がする。

 しかし理緒の電話が終わると家に誘われ、美咲は再びパニックじみた状態に襲われた。展開が早すぎるし、理緒の家では美咲がしたことが嫌でも思い出されてしまう。今度は寝るということは多分ないだろうが、いや、仮に寝たとしても同じことをするつもりなどもちろんないが。

 行くことにしたのは勢いに押されたというよりも単に、理緒と一緒にいたいからだと理緒の家への道中を歩きながら認めた。微妙にぎこちない状態ではあるが、これでは今までの繰り返しにしかなっていない。

 理緒の家に着くころには多少吹っ切ることができた。緊張しながらも会話できるようになって、楽しさに身を浸した。

 ソファの隣に座っているという距離感は、常に理緒のことを意識させられて落ち着かない。好きな人、というフィルターを抜きにしても理緒はものすごく可愛い。少なくとも美咲はこんなに可愛い人を見たことはない。見た目の雰囲気はかなり幼いのに口ぶりや浮かぶ表情は年上の女性のそれで、ギャップに強く揺さぶられてしまう。

 理緒の可愛さを意識すると、また余計に緊張してしまう。理緒に見つめられた緊張を吐露すると、理緒は大笑いをした。

 美咲の言葉を冗談ととったのだろう。冷静にそう思っても、頭の中にはある一言が浮かんでいた。


(……嫌だな)


 ほとんど八つ当たりのように美咲は内心でつぶやいた。

 美咲の理緒への気持ちが冗談で済まされたような感覚に、胸の内側が軋んでいる。理緒にそんなつもりがないのはわかっている。そもそも、美咲は理緒にきちんと想いを伝えたわけではない。発言の内容だって冗談ととられても何の不思議もない。

 それでも、嫌だという想いが美咲を動かした。

 他の誰でもない、理緒には美咲の想いが本当のものだと知って欲しかった。

 やっぱり、と頭の中で冷静な自分が囁く。

 理緒の家に行くんじゃなかったね。

 全然、ちゃんとできていないじゃん。

 やっぱり、うまくはいかない。


☆☆☆


 理緒はただ美咲を見返していた。

 真っ赤な顔に、真っすぐな熱のある瞳が理緒をとらえている。

 美咲の言葉が理緒の耳の中で反響しているような錯覚を覚えて、ごくりと喉を鳴らした。

 美咲は……


「……好きって」

「はい」


 美咲は強い口調で頷いた。誤解の余地のない美咲の様子に、しかしまだ信じられずに確認の言葉が漏れる。


「本当に?」

「本当、ですっ」


 美咲の顔が泣きそうに歪む。どれだけの勇気をもって美咲がこの言葉を口にしているのか、その瞳からわからされてしまった。

 理緒は混乱の極致に叩き落された。心臓が早鐘を打ち、眩暈すら感じている。


(美咲が、あたしを……?)


 考えたこともなかった、というと失礼な言い方かもしれないが、理緒としてはそういう感覚だった。好きになってもらえたら、とは思っていても美咲が既にそう思っているなんて想像もしていなかった。

 だとすると、今までの美咲の妙な態度も説明がつく……のか? どうにも納得がいかない部分もあるような気がしたが、目の前の美咲の言葉に嘘はないと信じられた。

 理緒の腕を掴む美咲の手に自分の手を重ねる。確かに感じられる体温に、理緒の頬も熱くなった。


「あたしも……美咲のこと、好きだよ」

「え?」


 美咲の泣きそうな表情が困惑に染まる。理緒の言葉が聞き取れなかったように、何度も瞬きを繰り返す。

 やり返す心地で、美咲の目を真っすぐにとらえる。


「あたしも、美咲が好きって言ったの……!」

「…………」


 美咲の目が限界まで見開かれる。

 二人とも何も言うこともなく、ただ見つめ合う。静寂に満ちた室内に、二人の呼吸の音だけが微かに聞こえる。

 静寂を破ったのは、理緒の方だった。


「一応言っておくけど、本気で好きだからね」

「信じて、いいんですか?」

「……信じていい」


 拗ねた調子で確認に応じると、身体がぐいと引かれた。抵抗もできないまま、美咲が抱きしめられていた。


「理緒さん、理緒さん……!」

「ち、ちょっと美咲……」


 急な行動に抵抗しようとするが、ぎゅうと抱きしめらていて抜け出せそうになかった。嫌な気がするわけではないが、濃い接触に恥ずかしさと戸惑いが強い。

 美咲は感極まわった様子で理緒の名前を呼び、しがみつくように理緒の身体を捕まえている。理緒はこっそり吐息して、両腕を美咲の背中に回した。

 少しの間そうして、美咲の力が緩んだ。その分だけ身体を開けると、ほとんど正面に美咲の顔があった。

 幸せそうな表情が、目が、キレイすぎて目を奪われた。

 その美咲の顔が、少しずつ近づいてきた。あ、と咄嗟に美咲の身体を両手で押す。


「ちょっと、急すぎ……」


 理緒の言葉に弾かれたように美咲は後ろに仰け反った。顔をさらに赤くして、口をぱくぱくとさせて言ってくる。


「で、ですよね。ごめんなさい……気持ちが昂っちゃって、わたし、またしそうに……」

「う、うん。昂っちゃうのはわかるよ」


 あたしもだし、と言おうとして美咲の発言に引っ掛かりを覚えた。

 その内容を咀嚼するようにゆっくりと瞬きをして、美咲の顔を見る。


「『またしそうに』……って、なに?」

「えっ、と……」


 美咲の表情が一転して苦虫を嚙み潰したようなものになった。戸惑って、目を泳がせている。

 美咲がしようとしたのはキス、だろう、多分。さすがにあそこから別のことをしようとしていたとは思えない。勘違いだったらものすごく恥ずかしいが、合っているはずだ。

 もちろん、美咲とキスをしたことはない。しそうになったことだってない。

 する機会があったとしたら……


『理緒のこと好きだからしたのに、何が嫌なの?』


 ぞわっと総毛だって、自分の身体を抱きしめる。まさか、という言葉が脳内を満たして、自分を抱く手に力がこもる。


「理緒さん?」

「……公園で言いかけていたこと、言って」

「……理緒さ」

「言って」


 美咲を見上げる形で、乞うようにつぶやく。

 違う、そんなの勘違いだ。この子は真っすぐで、そんなことをするはずがない。

 美咲は迷いを顔をにじませて、観念したように口を開いた。


「……前に、理緒さんの家に来た時に寝ちゃって……起きたら理緒さんも寝ていて、それでわたし」


 美咲の話が進むにつれて、心臓の高鳴りが増していく。否定したい気持ちとは裏腹に、美咲の話は理緒の懸念を裏付けていく。

 怯える理緒に、美咲は決定的な一言を告げた。


「寝ている理緒さんに……キス、をしました」


 美咲の告白に頭を殴られたような衝撃を受けて、理緒は自然に反応を口にしていた。


「……最低」

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