全てを諦めた彼女がハッピーエンドを迎えるまでの話

豆茶漬け*

序章

プロローグ1

 夢を見る。私がうんと小さい頃の夢だ。まだお母様もお父様も笑っていて、お兄様が私のことを優しく撫でてくれてた頃の、幸せな夢を。



 小さな少女は動きにくいドレスを着ているにもかかわらず、まるで重力を感じさせないくらい軽やかに木々の隙間を駆けていく。少女の後ろからはメイド服を着た数名の女性が、少女になんとか追いつこうと必死に走っていた。少女は少しだけ後ろを振り返ったが、追いかけてくる使用人のために足を緩めることはなかった。それどころか、少女はさらに足を早め、ぐんぐんと器用に木々の間を抜けていく。

 やがて、少し先に開けた場所が見えてきた。いつものようならそこに少女の目的の人物がいるはずだった。使用人たちの姿はもう見えなかった。


「お兄様!」


 開けた場所に飛び出すと、そこには小さなテラスがあった。テラスには石でできたベンチがあり、そのベンチに座っている人こそ、少女の探していた人物であった。

 その人は少女の声に反応して、手元にあった本から顔を上げた。キラキラと輝く白銀の髪がさらさらと風に吹かれて、穏やかそうな表情をした少年が、息を切らして立っている少女を見つける。


「また走ってきたのかい?フィーはいつまで経ってもおてんばさんだね。」

「うぅ……そんなことないわ。私だってもう五歳になったんだもの。立派なレディの一員ですわ!」 


 フィーと少年に呼ばれた少女は腰に手を当て、赤く火照った頬を膨らませながら反論した。


「レディは息を切らせるほど走り回らないし、使用人たちを悪戯に困らせたりしないものだよ。」


 少年は少女をそばに呼ぶ。少女は不貞腐れたようにそっぽをむきながらも少年のそばに行く。近くにきた少女の頭に少年は手を伸ばす。


「ほら、こんなところに葉っぱまで付けてきて…。」


 少年はくすくすと笑いながら少女の頭についていた葉を取り除く。


「だって、早くお兄様に会いたかったんですもの。お兄様のお稽古はもう終わったんでしょう?」


 少女は観念したように肩を落ち込ませる。そんな少女を見た少年は少女の頭をそっと撫でる。


「そんな顔をしないで、僕の大事なオフィーリア。揶揄ってごめん。」


 少女、オフィーリアはもう少しだけ拗ねていようと思ったが、少年が優しく髪の毛を梳く手が暖かくて次第に全てがどうでもよくなってきた。


「お、お兄様の手に免じて機嫌を直してあげますわ。」

「僕の手かぁ。」


 少年はオフィーリアの可愛らしい強がりにまた小さく笑った。オフィーリアは少年に子供扱いされたと感じたが、自分はレディなのだから怒ってはいけないと心を落ち着けた。


「そうだわ!」


 そこでオフィリーリアはあることを思い出した。オフィーリアは少年の手をとって急かすように引っ張る。少年は突然手を引っ張られ思わずバランスを崩す。


「こら、フィー。急に引っ張ったりしたら危ないだろう。」


 少年は器用に崩れたバランスを持ち直し、机に置いていた本を掴み、そう言った。


「ごめんなさい、お兄様。でも、私、お兄様を呼びにきたことをすっかり忘れていたんですの。」

「僕を?」

「はい。さっき執事から聞いたのですが…」

「オフィーリア!シス!」

「!!」


 テラスの正規の入口から女性の声が響く。オフィーリアのように子供らしい高めの声ではなく、落ち着いた優しさに満ちた声だった。


「お兄様!お母様とお父様だわ!」

「母上に、父上も……?」


 二人の両親、特に父親の方は国の要職についていることもあり、日中家に帰ってくることはほとんどなかった。だからこそ、少年は父親がまだ陽も高い時間にここにいることに驚きの声を上げた。


「そうよ!お父様も一緒なのよ!だから早く行きましょう!」


 オフィーリアは少年の手をぐいぐい引っ張り先を急かす。少年は困惑した足取りのままオフィーリアにされるがままになる。

 少しして二人の両親の姿が遠くに見えてきた。オフィーリアはもう大丈夫と思ったのか少年の手を離し駆け出す。そして父親に向かって両手を広げて抱きつく。勢いよく飛びついたオフィーリアをぐるぐる回すようにしてその勢いを殺す。


「ははは。オフィーリアはいつにもまして元気だな。」


 飛びつかれた父親はオフィーリアの楽しそうな笑い声を聞きながら一緒になって笑っていた。そんな様子を少し離れたところで少年は見ていた。


「どうしたの、シス?こっちにいらっしゃい。」


 近づいてこない少年に気がついた母親が少年を手招く。少年はぼうっとしていた意識を取り戻し両親とオフィーリアの近くに寄る。その足取りは少し遠慮しがちであった。まるで両親との、特に父親との距離の取り方に悩んでいるようでもあった。

 やっと母親の元にやってきた少年は母親に優しく背中を押される。母親は以前よりも高くなった背丈に、こんなに大きくなっていたのかと感慨深い気持ちになった。

 少年は母親の方を見たが、意を決したように父親に向き直る。父親はやっとオフィーリアを回す手を止めて、ゆっくり地面に降ろしたところだった。


「父上……あの……。」


 いつもと違って自信のなさそうな少年の様子にオフィーリアは不思議そうに顔を傾けている。父親はオフィーリアから離れ、少年のそばに視線を合わせるように膝をついた。そして少年の流れるような銀髪に優しく手を置いた。


「お前の頑張りはよく聞いているぞ。よく頑張ってきるそうだな。その調子で、これからも励みなさい。」


 父親に自分の頑張りを認められた少年は嬉しそうに頬を仄かに赤く染めた。オフィーリアにはよくわからなかったが、大好きな兄が喜んでいることだけはわかり、同じように嬉しくなった。


「お兄様!よかったですわね!」


 オフィーリアは嬉しくなった勢いのまま少年に抱きついた。突然のことに少年はオフィーリアと一緒にその場に転がった。


「フィー!」

「あっ…ごめんなさい!」


 驚いた少年に名前を呼ばれオフィーリアは自分がいけないことをしてしまったことに気がついた。そして恥ずかしそうに顔を真っ赤にさせて少年の上で項垂れる。


「ふふ。フィーもシスも元気で何よりだわ。さぁ、二人とも立ち上がって。あちらに行ってお茶会でもしましょう。」


 母親が可笑そうに笑いながら優しく促す。オフィーリアは先に立ち上がり少年に手を貸しながら頷く。少年も先ほどよりも随分と柔らかい笑みを見せていた。父親は母親の横に立ちその肩を抱きながら子供たちを温かい眼差しで見ていた。



 そんな遠い過去の風景を、腰まで伸びた美しい銀髪を靡かせながら見ている女性がいた。


 そう、これは彼女の、オフィーリア・ガルシアの過去だ。いまは遠い昔、まだ家族がバラバラになっていなかった頃の記憶だ。


 何がダメだったのか。どうしてこの頃のように、私達は笑っていないのか。どうしたらよかったのか。

 何もわからない中で、ただ一つだけ分かるのは今更何をしたって全て手遅れであることだけだった。今更足掻いたところで、家族の道が再び交わることはない。それほどに事態は深刻で、手の施しようのないところまできてしまったのだ。


 オフィーリアはそっと目の前の風景から目を逸らす。この記憶は、今のオフィーリアにとってはただただ無意味なものでしかなかった。

 そしてオフィーリアは意識を浮上させる。深い湖から少しの水を汲み上げるように。




 オフィーリアが目を覚ましてから一番最初に目に入ったのは、冷たい剥き出しになった石の天井だった。そして次に目に入ったのは、錆びついた鉄格子だった。

 オフィーリアはゆっくりと体を起こす。ただの木でできたベッドは柔らかさも暖かさもなく、ただの木の置物でしかなかった。


 オフィーリアがいるここは王宮の地下にある牢獄だ。しかも、一番罪の重い者が入れられる最下層の牢獄だ。


 オフィーリアは寝起きの重たい頭を横に振り、意識をしっかりとさせる。頭を横に振った時、ボサボサになって艶も失われた銀色の髪が周りに散らばった。オフィーリアは視界に入った一束の髪を手で掬った。ここに入れられる前は毎日のように身だしなみに気をつけ、気を抜けない生活を送っていた。それなのに、ここに来てからはこんな酷い格好をしていても気にかける人は一人もいなかった。


(当然よ。ここには誰一人だって来たことないのだから。)


 唯一と家族である兄も、夫であるあの男も。誰一人だって、オフィーリアがこの牢獄に投獄されてから姿を見せたことはなかった。

 しかしそれに怒る心も、悲しむ心もオフィーリアの中には欠片も残っていなかった。オフィーリアは夫である未来の国王を暗殺しようとした罪で投獄されたが、その時でさえ誰もオフィーリアの話に耳を傾ける者はいなかった。それらのどんな時だって、オフィーリアの心は動かされることはなかった。


 オフィーリアの心はとっくの昔に死んでいたのだ。


 それがいつだったのかはわからない。だけど気がついた時にはオフィーリアは何事に対しても心を動かさない冷徹な女性になっていた。


 感情を動かすことのない人形のようなオフィーリアを影で悪く言う人たちがいることを、彼女は知っていた。そして過度に貶める者には粛清を、それ以外の者には無関心を貫いた。そうすることが正しいことだと、オフィーリアは信じていたのだ。


 しかし、その結果どうだろうか。オフィーリアは謂れのない罪で、今、その命まで脅かされている。唯一の肉親も、契りを交わした男もオフィーリアを助けには来ない。

 今更その事実がオフィーリアの心を動かす材料にはなり得なかったが、オフィーリアは胸の奥の方で僅かに穴が空いたような感じを感じ取っていた。


 それは、無だ。何もない。だけどそこにはほんの少しだけの虚しさが広がっているようだった。

 自分の行先なんて考えるだけ無駄だと分かっていたが、それでも自分の目指してきた場所はこんな虚しい場所だったのだろうか。


 オフィーリアは自分の手を強く握り込んだ。冷たく、汚い手だった。あの夢で見た、遠い自分とは似ても似つかない手だ。

 オフィーリアはふと力を抜き、硬い寝台に横になる。何を考えても無駄なのだから、もう何かを考えることは止めよう。そう思い、そっと目を閉じる。


 その時、誰もくるはずのない地下牢獄の奥で一筋の風が吹いた。牢獄までの通路に申し訳なさ程度に取り付けられていた松明が、その風によって微かに揺れた。

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