第四話
『次々と 起きる事案と 減る体力』──字余りだけど、仮眠すらできていない頭だとこんなところがせいぜいだった。
今日はハズレの当直。事案が重なり過ぎて休憩すら取れていないのに二十四時間以上働いたあげく、お昼を過ぎてもまだ仕事が終わらない。
俳句なんて考えてる場合じゃないけれど、五月末で異様に暑くて体力を限界まで消耗しているのもあって、もう脳がまっとうな思考回路にストライキを起こしているから仕方ない。
やっとのことで対応が終わって交番へ戻ろうと自転車に乗っていると──、
「ひったくりの通報あり、場所は行徳駅前○○、通報者は江井という女性、被疑者は黒いフルフェイスのヘルメットに黒色のスクーター、ナンバーの末尾が9とのこと。駅前交番向かえ」
ぐえっ。近くだ。嘘でしょ、もうやめて。
美緒先輩もふらふらしながら別件の対応に行ったし、私も疲れすぎて体中がプルプル震えてるのに! 私たち壊れちゃう! 私が一一〇番したいぐらいなのに!
心の中でそう愚痴りながらも「香取向かいます」と応答して現場へ自転車で急いだ。これが悲しきサラリーマンのサガ。
指定された場所には、パーカーにスカート姿で憤っている私と同い年か少し上ぐらいの若い女性がいた。すぐ側に赤いフレームのママチャリがあって、そのカゴには何も入っていない。
バッグもリュックも持っていないのは、盗まれたからだと思う。
「江井さんですね? ひったくりはどんな格好でした? バイクの種類は分かりますか?」
「あっ、早かった! あいつよ、あいつ!」
指さした方角に走り去っていく黒いバイクが見えた。ナンバーが見えづらい。でも末尾が9っぽい。黒いフルフェイスだ。足を閉じてるのは女性の乗り方だと思う。
すぐに無線で伝えた。
「あっ、聞き忘れた! 江井さん、盗まれたのは何ですか?」
「えっ?」
えっ? って、何? その驚いた顔は。
「何を取られたのか教えてください」
「え……っと、あのー、そのー……バッグだったかな、リュックだったかな。あ、でも黒いヤツ!」
何それ。盗まれた物を覚えていないの?
それもすぐに無線で説明すると、今度は違う人の声がした。
「被疑者らしきスクーターを発見、これから職質をかけます。香取さん、総合スーパーのほうにマル被を連れてきてください」
牛嶋係長だ。たまたまいたらしい。ラッキー! 私も彼女も自転車だったので急いで向かう。
そこには倒れたスクーターの脇で、フルフェイスの人をアスファルトに押さえつけている牛嶋係長の姿があった。
「香取さん、ちょうど良かった! 現逮したのでワッパを!」
「あっ、はい!」
慌てて駆け寄って暴れる人の腕を捕まえて後ろ手にすると、そこに手錠をかけた。
「やめてよ! ヘンタイ! 誰かーっ!」
やっぱり声が女の人だ。フルフェイスのヘルメットから長い髪がはみ出ているし、わりと小柄な体。顔を見たら三十代ぐらいの女性だった。
この人がひったくり犯らしい。見るとスクーターの近くに黒いリュックが落ちている。
その後に駆け寄ってきたのは大柄な男の人だった。誰かと思ったら七五三だったので、お願いすることにした。
「七五三、そこの女の人が被害者なの。エスコートしてあげて」
「了解」
「ちょっと手錠外してよ! あたし何もしてないでしょ! ってか重たい! 痛い!」
私の下で暴れる女性。騒ぐ彼女を牛嶋係長が冷たい目をしながら見降ろした。
「私を突き飛ばした公務執行妨害にバイクで歩道を走った道交法違反もありますから、無理です。大人しくしないと怪我もしますから。その際は何があっても保証できません」
低く突き放すような口調に、女性がうっと怯えたような顔をする。
「さ……さっきので骨折れた! 殴られたって訴えてやる!」
それでもまだ暴れたいらしい。私はその体をぐいっと押さえつけた。本当に怪我しかねない。
「お姉さん、後ろ手のまま暴れると筋違えますし、顔に傷つきますから本当に落ち着いてください。……牛嶋係長、いったん駅前交番でいいですか?」
「はい。お願いします」
何とか立ち上がらせるとまた騒ぎ出しす。そんな被疑者を連れて歩くのは見世物みたいで嫌だった。
するとまた無線が入る。
「行徳駅前××の店舗責任者から事務所荒らしの通報。駅前交番向かえ」
無理無理。
「佐藤、対応終了したので向かいます」
佐藤さんが行ってくれた。ほっ。そしてひったくりの人を駅前交番に連れ込む。
七五三も被害者の人を連れてきてくれて面通しの結果、無事にひったくりだと確定した。
このまま後は盗犯係に任せて帰れるはず。──と思ったら、誰かが交番に入ってきた。
それは私より少し年上のお姉さんで、作業服っぽいから仕事で来たのかな? それにしては荷物もないし、車かな? でも何か変な雰囲気。何の用事だろう。
「あの……この近くにスーパーか何かありませんか? その、お腹空いちゃって。東京から来てて、このあたり全然知らなくて」
え? どういうこと?
すぐそこに総合スーパーの大きな看板があるし、コンビニも何軒か見えてますけれど。そう言いたくなる気持ちをぐっと抑えて、指さしながら案内する。そんな私の声を遮るように奥からひったくりの人の騒ぐ声が聞こえてきた。
戸惑う作業服のお姉さん。
「……何かあったんですか?」
「え? いえ、いつものことです。お気になさらず」
どうぞ、と引き戸を開けて外に行くよう促した。これで今度こそ帰れる。
と思ったら、被害者に話を聞いていたはずの七五三が今の女性を目で追っていた。こいつ、あんな感じがタイプなのか。
でも違うらしい。今のお姉さんが近くに停めていた白い軽バンに乗った後も難しい顔をしたまま。
何かあったのかな? まあいいか。
そのうち美緒先輩が戻ってきたのと迎えの捜査車両も来たので、ついでに乗せてもらって署に帰った。分業バンザイ。
「菜花。もう限界じゃない? あたしはもう限界」
「奇遇ですね。私は限界突破して色んなとこがブルブルしてます」
「所長と課長には話し通すから、書類とか明日やんない? 非番で日帰り旅行の予定だったけど……」
「それも全面的に大賛成です。全私が諸手を挙げてます」
「ははっ、何よそれ。まあいいや。帰ろう」
その通り話をつけてくれた美緒先輩と一緒にふらふらと更衣室で着替えると、もう抜け殻のようにゆらゆら帰ろうとして――、
「香取さん、加瀬さん。お疲れ様です」牛嶋係長に呼び止められた。「香取さん、今日はご協力ありがとうございました。あのひったくり、余罪もありそうで色々捗りそうです」
「えっと、その……それは良かったです」
気の利いたことを言おうとしたけれど、回っていない頭じゃその一言がせいぜいだった。
「そうだ、香取さん。お返ししたいものがあるので刑事課まで来てもらえませんか? すぐに済みますので」
「え? あ、はい」
「それじゃあたしも――」
美緒先輩が半目のまま私の裾を掴んだ。
「あ、加瀬さんのお手を煩わせるほどのものでもないので、大丈夫ですよ。本当に返す物を渡すだけですから。まさか仕事押し付けたりはしませんよ」
じっ。見つめ合う牛嶋係長と美緒先輩。
「それじゃ……お先に失礼します。菜花、明日よろしくね」
「はーい」
何だろう。美緒先輩の口調がピリっとしていた。イケメン独り占めにイラッときたのかな? まあいいや。
牛嶋係長の後をついて刑事課に向かうと、渡されたのはひったくりにかけた手錠だった。そういえばすっかり忘れていた。一緒に行きましょうと地域課に戻り手錠をロッカーに入れて署を出る。
「わざわざすいませんでした。まだお忙しいのに──」
「聴取は七五三くんや他の方にお任せしているので大丈夫ですよ。それに──私は菜花さんとお話ししたかったのですから」
菜花って誰? あ、私だ。眠い頭でそう気づいた時、体に電流が走った。え? 私、また下の名前で呼ばれた!
「え、あ、その……何でしょう」
慌てる私を見て微笑む牛嶋係長。
「菜花さん。今度、二人でマザー牧場へ遊びに行きませんか?」
まっすぐ私の目を見ながら牛嶋係長がそう言った。
あれ? これって現実? バーチャル? 乙女ゲームの中じゃないよね? モテイベント発動?
イケメンからいい声のイケボでデートに誘われちゃった!
「あ、えっと……もしかしてこの前のチケットは──?」
「ああ、お恥ずかしい。貰ったチケットでお誘いしようとしていたのですよ。加瀬さんに取られてしまいましたが……天罰だったかな? ははは……」
イケメンが照れている。やっぱりあれは私と一緒に行くためのチケットだったんだ。
となるともう、残された可能性は一つしかない。
「あ、あの……私、もしかしてデートに誘ってもらったんでしょうか?」
分からなかったら聞く。何でも聞けるのは新任のうちだけだからな? 地域課長の言葉を思い出して実践してみた。
「そう真正面から聞かれると照れてしまいますね。ですが、その通りです。菜花さんとデートしたいと思ってお誘いしました」
マジだった! 声が出そうになるのをぐっと堪える。この私がデートに誘われた!? しかもイケメン警部補に!
心臓がバクバクし始めた。早鐘を打つとはこのことを言うらしい。
待て、待って、なのはな。
これは私お得意の妄想じゃないよね? 花の女子高生時代も、友達と遊ぶか妄想に耽ってばかりで男子と絡むことすらなかったし、警察学校で少ない女子がチヤホヤされていくなか、男子みたいに扱われてたこの私が?
ほっぺをぎゅっとつねる。痛い。でも夢から冷めない。
左手の親指の付け根をめいっぱい押す。これは違う。トイレに行きたくなるヤツだった。
ああ、もうパニック。大混乱。
「あ、そ、その……わ、私を、ですか?」
「はい。菜花さんのことをもっと知りたくなったのです。色んなことを知っていますよね。その博学さはどこから来るんだろう、って……いえ、違います。すいません。そんな言葉で誤魔化しちゃいけませんね」
「そ、それは……」
「菜花さんを一人の異性として気になって仕方ないから、なんです」
「ひゃっ!」
突然耳元でイケメンボイスにそう囁かれて、反射的に変な声が出た。
「もちろん、菜花さんが嫌じゃなければ、ですが。私とは十歳以上も離れていますから」
リアルに口説かれている。私にもこんなシーンが巡ってくるなんて誰が予想していたの?
そして生まれて初めての気持ちが私の中に芽生えたことにも気づく。
男性に誘われて嬉しい。今まで隠れていた心の中の女の子が激しく喜んでいた。
「そ、そんなことは……! は、はい! 行きますです! ぜひデートにっ!」
もうテンション上がりまくって変な返事になってしまった。でも牛嶋係長はにっこりと笑顔で頷いてくれる。
あっ。しかも照れている。照れイケメン可愛い!
「良かった。これ……私の連絡先なんです。あとでメッセージくれると嬉しいので……」
「ち、頂戴します!」
「あはは。そんなかしこまれちゃうと私も何だか……」
「あ、す、すいません!」
「具体的な日時はメッセージで話し合って決めさせてください。マザー牧場以外にも行きたいところがあったら教えてくださいね。私も菜花さんと最高に楽しめるプランを考えておきますから」
そうして牛嶋係長は私を寮まで送ってくれると、手を振りながら署へと戻って行った。
ぽーっとしながらその後ろ姿を目で追ってしまう。
部屋に戻ってからというものの、私は恍惚としたまま何も手につかなかった。あんなに眠かったのに、ひたすら誘われた、口説かれたことだけを考えて嬉しさに身もだえている始末。
待って、なのはな。デートしたその先にあるのは何なの? 恋の駆け引き? そんなのは不器用な私には無理。じゃあイチャラブ生活? 警察官だから勤務が不規則だし、寮は人目もあるから大変そう。
そうじゃない。普通、デートをしたらその後はキス、その次は──合体だ!
私は急いで服を脱ぐと、シャワーを浴びながら自分の体をしみじみとチェックした。
太ってはいないし、訓練のおかげで引き締まりつつもうっすら腹筋が見える程度には筋肉がついている。だけどスタイルはどうなのか分からない。胸もお尻も普通だし足も長くはないし。
うーん。そそるのかな、私。
いやいや、そうじゃない。博学さを好きになってくれたんだから、そこをアピールしなくちゃいけない。
それには何が一番いい?
「デートプランだ」
マザー牧場は確かにいいと思う。でもまだチケットはないらしいし、美緒先輩にも告白したけれどあの方角にはモヤっとしたものもある。
それなら牛嶋係長に楽しんでもらえて、私もいい思い出になるような素敵なデートプランを別に作ればいい。
それで上書きしちゃおう。
「燃えてきた……!」
どこに行こう? 何をしよう?
よし。まずは私の行っていないところにしよう。……と言っても妄想旅行の話だけれど。
これまでどこに行ったっけ? 最初は佐倉市で、次はいすみ市から大多喜町まで観光した。
美緒先輩と一緒の旅ではかなりの自治体を通った。市川から東京湾をなめるように南下して、船橋、習志野、千葉、市原、
こうしてみると、北東エリアと外房に行っていないことが分かった。気になるものがないか調べてみよう。
こういう時に私が探すキーワードは「伝説」だった。すると面白いものが引っかかってくる。これはこれで知的好奇心をくすぐられた。
でもあんまりお勉強みたいなのばかりでも嫌がられちゃうかな。アトラクションも入れないと。そしておいしいものもないと旅は楽しくない。
あれこれあれこれ。ふんふん。いい。いいね。
「できた……! 多分」
後はこのプランを牛嶋係長にプレゼンするだけ。でもどんな旅になるかまだ分からない。分からないのなら──妄想で旅行しちゃえ。
「……トリップ!」
妄想の中の私の部屋に降りたった私。
ここで一番の難問にぶつかってしまった。デートって何を着ていけばいいの?
白のワンピースはあくまでも憧れで実践向きじゃないのは分かっている。じゃあ他は? うーん。アトラクションも予定しているし、ドライブもする。アクティブな雰囲気も残しつつ可愛いと思われるようなスタイルにしないといけない。
ワイドなデニムにちょっとフリルのついたトップスにリュックというスタイルの、結局無難な感じに落ち着いてしまった。
こんなんでいいのか、私? まあいいや、妄想旅行中に違うようだったらその瞬間に着替えてみればいいし。
そして靴を履こうとして立ち止まる。……うん、何だろう。迎えに来てほしい気持ちになる。来てもらおう。
そして約束の午前七時。待っていると──インターフォンが鳴った。
「菜花さん、おはようございます。準備は大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
どうかな? どうかな? 緊張しながらスニーカーを履いて玄関から出る。
牛嶋係長だ。白いシャツにゆったりしたグレーのチノパンに茶色の革靴というラフなスタイル。
「普段の制服姿と違って新鮮で可愛いですね」
にっこり笑われながらそんなセリフの不意打ちを食らって、照れた私は何も言えなくなってしまった。
男の人に可愛いって言われた!
これで満足しそうになった気持ちを抑えつつ、牛嶋係長にエスコートされて彼の車に乗り込んだ。以前に何度か見たことのある国産車のSUVは乗り心地も良くて、助手席に座ると途端に彼女感が増してきてすごく緊張するとともに、どこか照れくさい嬉しさにも包まれた。
「あ、あの……私、今日のコースを考えてきたんです。聞いて貰ってもいいですか?」
「もちろんですよ」
そうして私はプランを伝えた。
「あ、でも、牛嶋係長にも考えがあるんだったら、その……」
「いえいえ。すごく嬉しいです。私とのドライブを楽しんでもらえるよう考えてもらって。もちろん菜花さんのコースで行きましょう。途中で寄りたい所があったら教えてくださいね」
「は、はい!」
そうして私と牛嶋係長のドライブデートが始まった。
車内で何を話すのかな。でも間が持たないからきっと何か聴くはず。お気に入りの曲かな? それともFM? DVDを持ち込んだりテレビを見たりするのかな?
私はお話したい。でもいきなり「私のどういうところが好きなんですか」とか聞く度胸はなかった。
やっぱりFMかな? そうしよう。
ベイFMを流してもらいながら向かってもらったのは
徐々に郊外感が出てきて旅行気分も高まりながら佐原の市街地へ。佐原と言えば
食べたくなる気持ちを抑えながらたどり着いたのは、
利根川の支流である
そこはもう駅からしてのれんがかかっているぐらいに観光に力を入れた街だから、散策しただけでも楽しめるはず。
きっとおしゃれカフェとかお土産屋みたいなものがずらりならんでいて、その建物に風情があって、一瞬、江戸時代にきたかのような錯覚をさせてくれるんだろうな。
私の隣を歩く牛嶋係長は旗本の三男坊で、私は町娘に早変わり。
そんな二人でまず向かったのは、千葉県の誇る偉人、
九十九里で生まれ
もちろん私は予習済み。
「全国を行脚して地図を書いた人だから学者さんって思われがちですけど、実際は商売上手な商人だったそうです」
「そうなんですね。名前ぐらいしか知りませんでした」
「名主という地元の有力者として住人のアレコレを色々と調整をしつつ、奥さんも三人いた人だって聞くと印象違いますよね」
「確かに。地図のことだけ考えてるイメージでしたからね」
「でも学問には興味あったみたいで、四十代で隠居して天文学とかにチャレンジした後、幕府から地図測量の仕事を受けて完成させたそうです」
名言が彼の生涯を表していると思う。
「人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない」──諦めない心、やり続ける気持ち。夢があるといつまでも若いというのはこのことなのかな。
私にとっての天職は警察官なの? 違う気もするし天職な気もする。作家の夢もあったけれど、あれも違うかな。何にしろ、そこに夢を持ってやりつづけられるのならそれは天職になるんだと思う。
迷った時はこの言葉を道しるべに進んでいきたいと思った。
伊能忠敬記念館や旧家を訪れてもっと知りたい。商いから身を引いて学問に打ち込み、日本の地図を作るきっかけになったことは何か?
牛嶋係長はどんな様子で見ているのかな。妄想では分からないけれど、アクティブっぽい大人の男性にはそこまで面白いものでもない気がする。
私もできるだけセーブして次に向かったのは、小野川に浮かべた船から佐原の街並みを見られる舟めぐり。
船頭さんのガイドを聞きながらゆったりたっぷりのんびり小江戸を堪能する。何を話してもらえるのかは行ってからのお楽しみ。
大事なのは、牛嶋係長と一緒に過ごす緩やかに流れる時間なの。彼が何を見てどんなことに興味があるのか、それを共有して一緒に楽しむ。
そうして船遊びを終えた私たちは、次に
「匝瑳ですか? あそこに何かあったかな……? と言っても私は富津と君津ぐらいか知りませんが」
「分かりやすい観光スポットはないかもですね。でも私は見つけたんです。ドラゴンの物語を……!」
ドラゴンの話は男の人が大好きに違いない。私が自信をもって案内したのは、匝瑳市にある
境内には手入れされたお花があって素敵な雰囲気に満ちている。
「ドラゴンの伝説はこのお寺だけじゃないんです。三つもあるんですよ」
「三つの伝説、ですか? どんなのでしょう?」
大昔、
そんなある日、干魃が村を襲った。雨が降らず作物も実らないので困窮するばかり。困った村人たちが龍神さまに雨乞いをした。
小龍は普段から良くしてもらっている村人たちの願いを叶えようと雨を降らせようとしたものの、雨を止めているのは上司に当たる大龍で、彼の許しが出なかった。
逆らえば何をされるか分からない。かといって餓死寸前の村人たちを見捨てることもできない。
そして小龍は許しを得ないまま雨を降らせた。村人たちは喜び作物も回復した。しかし大龍は激怒し稲妻で小龍の体を三つに裂いてしまう。
村人たちは吹き飛んだ小龍の体を探し出して、体の落ちた場所に寺を建てて小龍を祀った。
頭が落ちた
「すごいですね。何て言うか……壮大です」
壮大? そういう感想なんだ。
「……そうですよね。でも私的には位置関係も気になっていて……龍角寺と龍腹寺だけ伝承の通り印旛沼の近くにあるんですけど、ここ龍尾寺だけ遠いのはどうして? ってところとか」
「ずいぶん飛んだんですね」
「え? そ、そうですね」
あれ? あんまり食いついてこないな。龍角寺と龍腹寺の情報も抑えておいたんだけど……おかしいな。ドラゴンと伝説なんて男の人受けすると思ったのに。ちょっとツボが違ったのかな?
妄想の中の牛嶋係長だから私の思った通りに喜んでくれるはずだったけれど、そんな素振りも出てこなかった。どうしてなんだろう。
でもこんな事態は想定済み。ここまで何も食べていないの。
なので
「
「私も初めて知りました。この横芝光町出身の
日本でソーセージが作られ始めたのは明治二十年頃で、その頃は外国人コックの手によるものだったらしい。
明治四十年代に横浜の食肉加工店で働き出した彼が、その店の顧客だったドイツ人と親交を結び「今後の日本では食肉加工業が必要不可欠になる」と弟子入りをしてソーセージの製法を修得したそう。
もちろん他の土地でも様々な人々が食肉加工の道を歩みだして日本の食肉加工業を築いていったものの、元を辿っていくと大きくは四つに収まり、そのうちの一つが大木流になるのだとか。
この後の世界情勢がソーセージ作りを後押ししたのも大きいと思う。
大木市蔵がソーセージ作りを学んだ直後の大正三年には第一次世界大戦が勃発してドイツが敵国となり、食肉の最大輸入国との取引が止まってドイツ人たちも国へと帰ってしまった。
そうした中で彼の技術は認められ発展してソーセージの父と呼ばれることになったそう。
「いつの時代も先見の明を持つってこういうことなんだな、って思います。その技術が必要だと見抜く目、心血を注ぐ気持ち、それと──運」
「ああ、それはありますよね。本人の努力がないといけないのはもちろんだけど、最後は運になっちゃいますし」
そういう意味でもなかったけれど……まあいいか。
「私も運がいい方だと思うです。こうして菜花さんとデートに来れましたから」
「えっ? あ、そ、その……ありがとうございます」
突然の言及に乙女照れする私。うん、これはこれでいい。
しかし私の中の妄想の牛嶋係長はまだ満足していなかった。男の人が楽しいことって何だろう? 私を博学だと言ってくれていたから、てっきり知的好奇心が強いと思っていたけれどちょっと違ったのかな?
後は? もしやカラダ目当て? 妄想中の牛嶋係長がハンドルを持ちながら私を見てくる。でも胸とかお尻とかじゃない。顔を見てニコッと微笑んでくれた。
それに牛嶋係長ほどのイケメンならナンパとか署の他の子とかでもすぐに落とせるはず。私みたいな高卒なんて相手にしないと思う。
うーん。悩んでいても仕方ない。
やっぱり男の人は歴史でしょう。となると、あのルートしかない。私にはまだ引き出しがあるのだ。
「あの……大網白里市に行ってもらってもいいですか?」
「え? ええ、もちろん大丈夫ですが……あそこって何かありましたか? 海水浴ぐらいしか思いつきませんが」
「それがですね、私……名前は香取で、香取市にルーツがあるらしいんですけど、祖父がずっと大網白里市に住んでいたのを思い出したんです」
「菜花さん自身はあっちに行ったことがなかったんですね」
「はい。市川市……というか行徳から出たことないんです。あ、でも警察学校は東金市でしたけど、ほぼ外に出ることなんてなかったですし」
「いいですよ、大網白里市。行きましょう。当てはありますか?」
「はい。……と言っても祖父の家とかじゃなくて、その──一ヶ所だけ気になる場所があるんです」
そうして向かってもらったのは、大網白里市にあるJR外房線、大網駅の北にある
あの偉いお坊さんの
「ここがそのお寺ですか。確かに大きいですし、由緒ある雰囲気は分かりますが……」
「もう一つ特徴があるんです。それが……ここです」
私は本国寺の入口にある石碑を指さした。「千葉
「県庁ですか。宮谷県? 耳なじみない単語ですね。しかも谷と書いて『ざく』ですか」
「うふふ。調べたんですよ。谷と書いて『ざく』と呼ぶのは大網の方言だそうです」
それは
新政府軍に追い込まれた幕府軍は今の木更津市あたりにまで逃げ込んで抗戦していたものの各地での戦いに負けてしまい、ついに房総半島は新政府軍に占領されてしまった。
戦功のあった
その後、房総県は下総国を含め今の千葉県に相当する地域と、さらに
この柴山という人は中央集権を目論む新政府に対して当時の知事の権限を越えた仁政を行って睨まれていたり、同郷だった部下が上司たちを無視する形で行政を行ったこともあって知事を罷免される「宮谷騒動」なる騒ぎも起こしている。
それが影響したのかは定かではないものの、結果的に常陸国は外されて紆余曲折あり今の千葉県の形に落ち着いたらしい。
二年九ヶ月しかなかった宮谷県。その県庁がここにあった。
「なるほど、それは面白いですね。今の茨城県まで含んでいたんですか」
「もしそのままだったら、人口で神奈川県と並んでたんですよね。GDPも三十兆円になって、デンマークやコロンビアと並ぶところだったんです」
「それが歴史の面白いところですね。……ところで、菜花さんは本当に市川から東側に来たことないのですか?」
「……どうしてでしょう?」
「いや、詳しすぎるなって思ったんです。日頃の勉強の賜物だとは思いますが……本家? ルーツが大網にあるのは分かりましたが、そこから下とかはないんですか?」
えへへ。得意げになる私。でも変な感じ。
「そう言われると行ったことあるような、ないような……でも、記憶にある限りはないですよ?」
「そっか、それならやっぱり勉強の甲斐ですね。すいません、変なことを聞いてしまって」
「いえ、そんな勉強だなんて。ただの妄想ですよ。だってこうしてデートしている牛嶋係長も妄想なんですもん」
「ははは、そうですね」
妄想の中の牛嶋係長も笑ってくれる。
そうして最後の場所を訪ねた私たちは市川へと戻った。
でも、どうしてだろう? 道中もそうだったけれど、帰り道も何を話したりしているのかいまいち妄想できなかった。
途中をすっぽり飛ばして寮まで送ってもらい、楽しかったねなんて言い合って部屋に帰るんだろうな。
「……ウェイクアップ!」
はあ。私は小さくため息をついた。
なんかすごく疲れた。全体的に私が先走ったような、私だけが無理している感じしかなかったと思う。
実際のデートでもそうなるんだろうな。どうしたらいいの?
考えても考えても、経験値もデータも少ない私に答えは導き出せなかった。だとしたら有識者を頼るしかないよね。あれだけ眠たいって言ってたけれどまだ起きてるかな?
恐る恐るメッセージを送ってみたら秒でドアが開いた。
「なっ、菜花! 牛嶋係長とデートってマジなの? 誘われたわけ?」
「あっ、声大きいですよ!」
「ごめん! でも本当なの!?」
スウェット姿の美緒先輩が半目になりながらも来てくれた。
中学生の頃から延べ十人もの男性と交際経験のあるベテランラブファイターに聞けば大抵のことは分かるはず。
「すいません、わざわざ。もう寝て……たんですよね? ブラしてませんが……大丈夫でしたか?」
「え? マジ? 誰とも会わなかったからいいや……じゃなくて、牛嶋係長に告られたって本当? どっか行くの?」
「告られたんでしょうか? はっきり好きだって言ってもらったわけじゃないんですけど、異性として気になるからどこかデートに行きましょうって言われまして」
「マジか。ほぼ告られてんじゃん。んで、デートはどこに?」
「マザー牧場に誘われました」
「マジ……!?」
美緒先輩が若干裏声で目を見開きながら戸惑っている。
初めて見る顔だ。
女子署員憧れのイケメン警部補に誘われたのが後輩で部下の私だったのがショックだったのかな?
「あ……あたしも一緒に行く」
美緒先輩がうわごとみたいに何か言った。聞き間違えじゃなければ同行を申し出た気がする。
「え? そ、それはどういう……? 介添え人とか介助みたいな……?」
「う、嘘。冗談よ、冗談。あはは……」
目は完全に本気だったけれど、まさかデートにまでついてくるつもりだったの? どうしてそうなった?
とりあえず美緒先輩がパニクっているのだけは理解した。そしてなぜなのかと私も混乱中。でも言うだけ言っておかないといけない。
「と、とりあえず二人だけで行こうと思うんですけど……まだマザー牧場に決まったわけじゃないみたいで、私なりに色々考えたコースでもいいかなとも思ったんですが……」
さっきまで一生懸命妄想していたコースをかいつまんで伝えて反応を伺ってみたものの、美緒先輩は上の空で、とりあえず安心みたいな顔でしきりに頷いていた。
何だろう、この反応。そう言えば牛嶋係長が最初に私を誘おうとした時も、美緒先輩がなかば無理やりマザー牧場のチケットを奪っていったっけ。
マザー牧場でデートすると必ず結ばれるとかそういうジンクスがあるのかな? それを知っていて美緒先輩は先を越されたくないとか思ってたりするの? 邪推しすぎかな。
「と……ともかく、牛嶋係長とのデートはまだちょっと待ったほうがいいと思うわけよ。ほら、警察官同士って色々縦と横の繋がりがあるから、そう言うのをきっちり理解するまでは──」
牛嶋係長が新卒ハンターとか階級ロリコンと言われかねない。逆に私も新任ですぐ寿退社とか思われて仕事がやりづらくなる可能性もある。あーだこーだ。
とにかく二人でのデートはするなと釘を差して美緒先輩が帰っていった。
モヤモヤが最高潮に達する。噴火直前の噴煙みたいに私は心の中で愚痴の煙を吐き出した。
どうして喜んでくれないんですか! 私に初彼氏ができたらお祝いするってあんなに言ってくれてたのに!
もしかして美緒先輩は牛嶋係長を狙ってたの? もしくは後輩が彼氏を作って浮かれてほしくない?
まさか牛嶋係長が地雷な人で、それをあえて言わずに自然消滅させて私が傷つかないように考えてくれてたりするの? だとしたらそれはきちんと言ってほしい。
あー、もう分かんない。なんだかすごく悲しくなってきた。
きっと美緒先輩は牛嶋係長をよく知らないから不審がってるだけな気がする。
牛嶋係長に詳しい人がいたら、もう少し違う反応をくれるんじゃないかな。誰だろう? 私が気軽に聞けるとしたらあいつしかいないか。
ちょっと癪にさわるけれど、根が真面目だし口も固いから大丈夫かな。でも例の事件で忙しいかもしれない。
そんな風に迷っていると、まさかの本人からメッセージが入った。
少し話せるか? と言うからいいよと返したらインターフォンが鳴った。直接来ていたなんて。慌てて着替えるとドアを開ける。
するとそこには険しい表情の七五三がいた。
「珍しいね、七五三がうちに来るなんて。狭いしお茶ぐらいしか出せないけど、入って」
「え? 部屋にか?」
玄関先で戸惑う七五三。どうして? しかも顔赤いし。まさか。
「ちょっと、やだ……何考えてんの? あのさあ……」
「そ、そうじゃねえよ。俺は男子校出身で野郎ばっかの家だったから女に免疫ないだけだって。お前こそ勘違いすんなよ……んじゃ、お邪魔します」
そう言えばそうだった。
前に登場人物全員格闘家みたいな家族写真を見せられて、その場にいないのに汗臭さを想像して鼻をつまんだ覚えがある。
そんな七五三がパツパツのスーツ姿でそろそろと私の部屋に上がってきた。
周りを見ないようにしてくれているのはいいんだけど、だからって私だけを見つめられても困る。
いつも美緒先輩のお尻に敷かれているクッションには座らず、どかっと床に胡坐をかくあたり、なんともまあ男らしい。
「悪いな、休みのとこ。香取の用事からでいいぞ」
「うん、あのさ。七五三だから相談するんだけど……牛嶋係長にデートに誘われたんだよ。一緒にマザー牧場に行こうって」
えっと驚く七五三。その顔はマジだった。
「まあ聞いてないよね。ちょこっと美緒先輩に話してみたら、何だか牛嶋係長をすっごく警戒してるの。それで直属の部下の七五三なら何か知ってるかなって思って……何でもいいから教えて。牛嶋係長のプライベート。特に女性関係」
すると七五三は思いっきり眉をしかめて私から視線を逸らした。え、マジなの? 何があるの?
「……その前に、香取はどうなんだ? その……好きなのか? 牛嶋係長のこと」
「何その『今からすっごい傷つくけど大丈夫か?』みたいな。私はまだデートに誘われただけで、特に何もないよ。確かにイケメンで優しいし、署のお姉さま方は顔を見てるだけで癒されるって言ってるけど」
「そっか。それなら……あのな、前の捜査本部で一緒だった本部の人に聞いたんだが、牛嶋係長、その……君津南署時代に恋人が失踪してるんだよ。その最後の場所がマザー牧場近くにある
今度は私が驚く番だった。
「失踪? マジ?」
「冗談でもそんなこと言うわけないだろ? 前の恋人がいなくなった場所に連れていく意味が何だか分かるか?」
「そんな場所に新しい恋人を連れていきたくないよね?」
「え? もう付き合ってんのか……? マジか」
「だからまだだって。そこに食いつかないでよ。私だったらそう思うって言いたかったの。ってか、別に私が誰と付き合おうとか関係なくない?」
「そりゃ……関係ないけどよ」
何よその目。私のことを諭すような、遠ざけるような視線。
七五三も私に恋人ができるの嫌なわけ? 地味子は一人でそっと暮らしてろってこと?
「あー……話を戻す。パッとは思いつかないけどな。前の恋人がいなくなった場所に連れて行きたいのは、その……思い出を上書きしたいんじゃないかって」
「……昔の恋人を忘れたいってこと?」
「牛嶋係長ももう三十路を超えていつまでも昔を引きずってちゃまずいって思ったんじゃないか?」
「だからって……」
振った振られたならともかく、失踪した彼女の思い出は別だと思う。
「そうだとしたら、そんな思い出を同じ場所で上書きするのもどうかって思うぜ。だから──」
「だから?」
「……いや。決めるのはお前だしな」
何よその歯切れの悪い返事。まさか七五三まで私に恋人ができるのが嫌だとは思わなかった。
「それより俺の相談――というか昼間の件について教えてくれ。あのひったくりだ」
「あー……あれね。どうしたの? 否認でもした?」
「スクーターの女はオチたよ。あれは
変なこと言ってたっけ。
「何を盗られたか忘れてた感じだったよ。バッグかリュックかみたいなこと言ってた」
「仮にお前だったら持ってたもの忘れるか?」
「……そりゃ忘れないけどさ。びっくりしたとかじゃないの?」
「まあいい。次」何よそれ。「ひったくりを交番に連れてきた時、後から変な女が来ただろ? 近くにスーパーがないかとか言ってたヤツ」
「あー……いたね。作業服みたいなの着てた人。雰囲気的にガスとか電気の検針の仕事かなって思ったけど」
「東京からって言ってただろ? わざわざ市川まで来るか?」
「そんなの分かんないよ。何が聞きたいの? 喧嘩売りに来たわけ?」
「違うって。俺も分かんねえんだよ。ただ違和感が半端ねえんだ。ひったくりのヤツはいい。しかしマル被が証言ふわっふわしててリュックにも身元の分かるもんがねえし、名前も一回間違えたんだ。しかもあのスーパーないか女。署の前でうろついてるのを見た」
「え、マジ?」
「マジだ。ひったくり女の仲間かと思って一度試しに外に出してみたんだが、どっちも反応ねえし。でも何か違和感あるんだよ。ってか違和感しかねえ。牛嶋係長もピンと来てねえし、担当したお前なら何か気づいてねえかな、って。点と点がつながる何かをさ」
「点と点? 何そのドラマみたいな言い方。そんなのつながるわけ……あっ」
妄想旅行の中で牛嶋係長が「壮大だ」の一言で済ませた伝説。そこから私の想像がぶわっと膨れていく。
「あ、あのさ……牛嶋係長とのデートプランを妄想してた時、印旛沼の龍伝説をプランに組み込んだの。旱魃で困った住人を守った龍が、ボスの龍に勝手なことすんなって怒られてバラバラにされた伝説。頭と胴体と尻尾が飛んでいってそれぞれお寺になったのよ。場所はさ……」
突然の話に七五三が目を白黒させる。
でも真面目だから全部聞いた上に相槌も打ってくれた。こいつのこういうところだけは好き。
「大龍の怒るポイントもおかしいが、印旛沼の龍で体がバラバラにされて飛んだ三つのうち、一つが匝瑳市って遠すぎだろ。尻尾だけなぜだ? 世話になった村人が形見として大龍の目につかないところまで運んで葬ったとかか?」
「おー……」
「何だよ?」
「感想が私と一緒な上に、新しい物語も付け加えた。こいつなかなかやるな?」
上から何目線だよ。みたいな突っ込みされると思ったら嬉しそうだった。
本当に七五三は分かりにくい。他の同期と話している時は真面目くんな正義漢なのに、私にだけそうじゃないような面を見せてくる。何なんだろ。
「……じゃなくって、これも点と点で全部くっつけたら龍になるじゃない? 今回も一つの物語なのよ。きっと」
「お前の話は昔から分っかんねえんだよなあ。不思議ちゃん呼ばわりされてるの分かってるか? もうちょっと整理して教えてくれよ」
「悪かったね、不思議ちゃんで。そもそも自覚してるし。そうじゃなくて……仮にさ、全員繋がってたらどうなる? って思ったわけ。マル被の人って盗まれた物を分かってなかったじゃない? もしかして自転車盗だったりしたらそうなるよな、って。それをひったくりが盗んで――」
「あっ!」
いきなり大声を出すと、七五三が立ち上がった。
「うっせー……耳が死ぬとこだったじゃん」
「お前、すげーな。俺も分かった。点と点、頭と腹と尻尾で一匹の龍。一番遠い尻尾があのスーパーないか女だったんだ。分かった!」
慌てて出て行くけれど、きちんと靴は両方履いた後に振り向いて私に一礼してから鍵かけてくれと言い残して出て行くあたり、やっぱりあいつは真面目で育ちがいい。
何が分かったんだろう。気になっちゃうじゃない。
でもね、体はもうクタクタ。ここで一ついいことに気がついた。
明日は非番。美緒先輩との日帰り旅も延期になった。
それこそ私がやりたかった佐倉への日帰り旅とかいすみ鉄道の移動旅行ができるんじゃない?
ううん。それこそ牛嶋係長とのデートプランの下調べに費やしてもいい。まだ二十歳だから寝ちゃえば体力は回復するはず。若いし行ける行ける。
そう思った私は冷蔵庫の中にあった適当な物を食べて寝た。
そして起きた私を待っていたのは無慈悲な一本の電話だった。
「せっかくの非番が……」
「あたしなんて完全に流れ弾じゃない……」
制服姿で署の更衣室を出た私と美緒先輩を待っていたのは、深々と頭を下げる牛嶋係長と七五三だった。
顔を上げた牛嶋係長のイケメンはだいぶお疲れのようだった。七五三もあれから寝ていないらしく、目の下にうっすらとクマを作っている。
「香取さんに加瀬さん。非番のところ本当に申し訳ないです。しかも連続で……しかし三人もの女性の取り調べを並行してやらないといけなくなりまして……」
七五三が拝むように手を合わせてきた。
「美緒先輩、本当にすいません。香取のヒントを聞いて突っついたら全部当たっちゃったんですよ。まさか登場人物全員窃盗犯だったとは……」
美緒先輩がそれは深く深くため息をつく。
「まあ、仕方ないよね。……でも、貴重な休み……はあ……菜花、行こう」
「頑張りましょう……」
眠かった私適当に言った話が正解だったらしい。
リュックを盗まれた女性もひったくりなら、作業服の女の人は事務所荒らしだった。
牛嶋係長と七五三から聞いた流れはこう。
まず作業服のお姉さんが事務所荒らしをした。白い軽バンも盗難車だったらしい。一仕事終えて現金とか高価な盗品の入ったリュックを地面に下ろして整理していた時に、あの一一〇番をかけた女性が自転車で通りがかってリュックをひったくった。
慌てて車で追おうとしたものの、今度は後ろから走ってきたバイクのひったくりが自転車のカゴにあるリュックを奪った。
そして一一〇番通報が入ってからは──ご存じの通り。
事務所荒らしの人が交番に来たのは様子を確認してリュックを奪い返すつもりだったらしい。それがうまくいかなくて署の前でウロウロしたあげく、七五三の職質で盗難車を使っていたことを話してご用となった。
みんな普通の顔をした犯罪者で、それぞれ余罪は十件以上のベテラン揃いだった。あの手この手で私たちを翻弄してくる。
取り調べの牛嶋係長と七五三には肌まで見せて色仕掛けをして籠絡しようとしてきたらしい。牛嶋係長はスルー、七五三は慣れていないので顔を強ばらせたら怒ったと勘違いして黙ってしまったとか。
私と美緒先輩がやった女性被疑者の身体検査や移動では、彼女たちから罵声を浴びせられ、取り調べに付き添うと私たちをビッチ呼ばわりして本当に屈辱だった。
女性の酔客はわりといるしそれなりの人は見てきたけれど、ベテランの犯罪者の女性たちはもう斜め上すぎてパニック。
暴れる、奇声を上げる、全裸になる、踊る、出す、出したものでさらに暴れる……と、破天荒のオンパレードにもう疲労困憊で、留置し終わった頃には二人とも抜け殻になっていた。
牛嶋係長と七五三はまだ上がれないらしく、お詫びとしてお金だけ渡された私たちは──いつも通りふさのいえに来ていた。
「美緒ちゃんに菜花ちゃん……? 目がマズいわよ。疲れ過ぎちゃった?」
いつもだったら何を飲むか聞いてくれるママさんが、そう言いながら冷たい麦茶を出してくれる。
「……はい。何というか、その……意外な事案ばかりで、もう気持ちがやられちゃいまして……」
やっとのことで口を開く私に、美緒先輩が頷いた。
「マスターさん。今日はご飯をください。スタンダードなもので……」
ママさんとマスターさんが目を見合わせる。すいませんとしか言えなかった。
それでも麦茶を飲みつつお通しの菜の花のシーチキン和えを食べていると、だんだん気持ちが落ち着いてくる。
そうして漂ってくるいい匂い。カルボナーラだ。
「意外なものに疲れたということで、よくあるメニューにしてみました。だけど材料は意外なものですよ。さあ、召し上がってください」
二人でそれぞれお皿を受け取る。どこからどう見てもカルボナーラだ。
いただきますと手を合わせフォークで一口食べる。おいしい。
程良い堅さのパスタが卵とベーコンを連れてきてくれて、ミルキーでコクのある味が口の中いっぱいに広がる。
「おいしいです。でも……意外な味はしませんでした」
するとマスターが微笑んだ。
「味は普通に仕上げていますよ。全て千葉県産を使用していますが、意外なのは──材料のほとんどが全国でも上位の生産量というところです。牛乳は全国四位、鶏卵は二位、豚も五位です。意外じゃありませんか?」
「意外でした。牛乳は北海道のイメージですし、鶏卵も九州とかかと……」
「ブランディングが成功しているからこそでしょうね。しかし事実なのです。千葉は酪農や牧畜が盛んで、豊富な海の幸とそれに負けない野菜や果物がたくさんありまして、農業出荷額は全国四位という上位なのですが……アピール下手なせいで県民にも認知されていないのです」
意外過ぎた。料理しながらマスターが教えてくれる。
さつまいもとナシが一位で、びわとスイカが二位、それぞれブランドになっているものの、全国的な認知度はいまいちらしい。
ママさんがくすっと笑う。
「天然ガスと発電所もあるし、エネルギー資源も豊富なの。工業も上位だし、色んな加工で必要な化学製品はトップ。空路と海路もあって世界と繋がってるから、それこそ千葉県はいつでも日本から独立できる──なんていう独立国家ネタは鉄板なのよ」
「それはいいですね。独立してもうちょい規則緩めてほしい……」
美緒先輩が割と本気の目で愚痴っていた。
「まあ、色々と上位なのは消費者が千四百万人いる首都が隣にあるからでもあるからね」
「結局依存じゃないですか……」
「まあ、これでも食べて元気を出してください。今度は生産量全国二位の組み合わせですから」
マスターからそっと差し出されたお皿に載っていたのは──塩ゆでされた伊勢海老だった。
「おいしそー!」
「こちらもです」
「こっちもいい香り!」
出されたお椀にも伊勢海老の殻とネギが入っている。
三重や和歌山のイメージが強い伊勢海老は
塩ゆでされた伊勢海老はもう言葉が出ないほどおいしくて、その殻で出汁をとった味噌汁は、濃いエビの味と香ばしいネギが全身に染み渡るような味だった。
「デザートはもちろんびわね。旬だからおいしいわよ」
やっぱりおいしいものって大事だと思う。だって疲れが少し取れた気がするから。
そんな話をしようと振り向いたら、全く同じように美緒先輩が私を見てきた。
視線が合って思わず笑ってしまう。
「二人がペアでうまくやっているのは意外じゃないわね。だから明日からも頑張ってちょうだいね」
ママさんに言われた言葉がすっと胸に入ってくる。
そう。ずっと思っていたことだったけれど、私と美緒先輩は一緒に仕事をするのが必然だったんじゃないか、って思う時がたびたびあった。
気恥ずかしいし気持ち悪がられるとショックだから言っていないけれど。
そう思いながら美緒先輩を見ると、ほっぺを少し赤くしながら笑っていた。可愛い。
「明日から頑張れるように……やっぱりお酒ください」
「あっ、私も……!」
そうしてくたびれ女子ペアの夜はゆっくりと更けていった。
そして私は決意する。
牛嶋係長にメッセージを送るんだ。マザー牧場でデートしましょう、って。
この目で確かめる。何が正しいのかを。
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