4 湯屋にて
千吉から盗人の噂について聞かされた後。
遠山様が湯屋から帰ってきたのは、八つ時をずいぶんと過ぎた頃合いだった。
今日はいつもより長風呂をしたものだが、おおかた碁の勝負がつかなかったのだろう。
そもそも遠山様は、実のところ江戸を離れ郷里に帰って隠居するつもりだったようなのだが、「隠居生活で構わないから、下屋敷で隠居してくれ」と周囲から頼まれたというのだ。
どうやら南部様の周囲では人手が足りていないらしい。
なので遠山様はこの下屋敷で本当に留守番しているだけで、仕事らしきものは上屋敷からたまに回ってくる余所の御家への手紙書きくらいで、これとて面倒がって渋々やっているくらいである。
そんな生活なので、遠山様が一日の大半を湯屋で過ごしていても、加代が留守番していればそれで構わないというわけだ。
というよりも、遠山様は隠居生活だったならば自由に出かけたくて、己の代わりの留守番の人手を探して、加代がこれに偶然入り込んだわけである。
加代が来る前は遠山様に食事を作るための通いの使用人がいたらしいのだが、結構な年寄りだったようで腰を痛めてお勤めが無理になったという。
それで代わりの者をとなった際、「次は住み込みで」と条件を付けたそうだ。
なんともちゃっかりしているお人である。
そんな遠山様から「昼餉は途中で済ませてくる」と前もって言われていたので、加代は留守番をしている間に己の昼餉を一人で済ませてしまっていた。
そして次は加代が湯屋に出かける番だ。
その帰りに実家のあたりに寄って、父親から魚を貰うのがいつもの行動である。
父親は加代の奉公を受け入れてくださった遠山様にとても感謝をしていて、いつも遠山様の夕餉にと魚をとってくれているのだ。
この魚を、遠山様はたいそう楽しみにしてくださっているのが、加代には誇らしいことである。
「では、出てまいります」
「ゆっくりしておいで」
加代が外出の挨拶をすると、遠山様は軽く手を振ってそういった。
こうして加代が向かう湯屋「あいあい」は、お屋敷から堀に沿う道を真っ直ぐに歩いた先にある。
なかなか古い建物だが手入れはしっかりされており、中の脱衣所や洗い場、湯槽は荒っぽい漁師連中がいつも使っているにしては清潔に保たれていて、湯屋の主の気性が窺えるというものだろう。
その主だが、番台に座っていることが多い。
主は皆から「慎さん」と呼ばれている、ひょろりとした体格の老人である。
口数が多い人ではないのだが、ご近所さんからの信頼の厚い人柄であり、加代はこの主がたまに相談を受けている姿を見かけていた。
そして遠山様の囲碁仲間でもある。
歳をとっていても髪をピンと結い、着物も粋な柄を身につけている、なかなかに洒落者でもあった。
「今日は、風が強くて埃っぽくて嫌ですねぇ」
「おや、お加代さん、秋の風は曲者ですからなぁ」
加代がお代を払い挨拶がてらに話しかけると、慎さんもそう返してきた。
中を覗くと、今が空いた時間なこともあって、脱衣場は人が少なくガランとしていた。
ここは漁師町にあるので、船の出入りの後が一番混むのだ。
以前の加代なら漁から戻った父親の岸での手伝いもやっていたので、どうやっても漁師たちと同じ時間になってしまい混み合いが酷くて、自分と弟妹たちをサッと洗い上げると湯槽には浸からずにすぐに出てしまっていた。
湯槽に入らずとも、洗い場にモウモウと立ち込める湯気で十分に身体が温まるのだ。
しかし今ならば湯槽に入る余裕まであるのだから、ぜいたくなことだ。
そういえば、江戸のどこかには男と女を仕切りで分けて入れている湯屋があるというが、そこは果たしていい所なのだろうか? 以前の加代のような家族の面倒を見ながら湯屋を使う者からすると、分けられると世話ができずに手間に思えるのだが。
加代はそんなどうでもいいことを考えながら、洗い場で手際よく身体を洗うと、ざくろ口という仕切りをくぐると、奥の湯槽へ浸かりに行く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます