第17話 旅立ちと、小さな願い
「さて、これから
ここは呪術師団が保有する船の一室。会議室として使われる部屋に、香織たちは集まっていた。神子である紬は不在。香織と斗真、本居、佐伯、
慣れぬ船旅ゆえか、虫の居所が悪いのか。紬は与えられた船室に閉じこもっている。訓練が上手くいっていないことも原因かもしれない。
霊力の講義を受けた後、香織たちはひと月ほど訓練に明け暮れた。二人とも霊力を水晶玉に込めることはできるようになった。
しかし、実際に術として使えるかというと話は別だ。香織の方は何とか及第点をもらえるようになったものの、紬は未だ扱いに苦慮している。思い通りにいかない現状に、苛立ちが募っていたようだ。
本居や香織が懸念していた点が、現実となった。彼女は地道な訓練というものが嫌いらしい。思い通りにいかず、投げ出す姿が何度も見られた。
それでも、問題は待ってくれない。今この瞬間も苦しんでいる民がいる。帝都でのんびりと過ごすわけにもいかず、こうして旅立つことになったのだ。
「白銀、神子様の様子はどうだ?」
「機嫌は芳しくないようです。部屋にこもりきりで、会話をしようともしません」
眉を顰める白銀に、本居はため息を吐く。予想していたとはいえ、嫌な予想が現実となるのは堪えるのだろう。
本来、呪術師団には成人済みのものしかいない。多少の例外はあれ、基本的には大人と呼べる人間ばかりだ。
未成年の場合は、本人の強い意志により入団する。要するに、紬とは心構えが違うのだ。戦い抜く、その覚悟を胸に門を叩く。ゆえに、このような問題は今までなかったのだろう。
「彼女は未成年ですから。ましてや、私たちの祖国は平和な国です。これくらいは致し方ありません。
きちんと役目を果たせるよう、私たちでサポートするべきでしょう」
苦笑をこぼす香織に、白銀は頭を下げる。自身の監督下にある少女のことだ。真面目な白銀は、謝罪せずにはいられないらしい。
紬は安全な日本で暮らしていた少女。いきなり異世界にきて上手くいくはずもない。何事も、一朝一夕にはいかないのが現実だ。
時間は有限だけれど、彼女が年端もいかぬ少女であることを忘れてはいけない。香織は改めて気を引き締めた。同郷の少女だ。出来得る限り、支えていかなければ。
「神子様には今後の成長を期待するしかないな。櫻井君の方はどうだ? 何か不都合はないか?」
問いかける本居に、香織は微笑んで頷く。香織に特段の問題はなく、概ね順調だ。
「武器を何にするかが問題でしたが、幸いにして調達ができました。術式も彫っていただけましたので、最低限は働けるかと」
「それは何よりだ。たしか、君は拳銃にしたのだったか」
「えぇ。私が唯一、まともに触ったことのある武器ですから」
現代日本人にとって、武器というものは遠い存在だ。武道として剣道や弓道に親しんでいるものはいるが、実際に武器として使用することはない。
警察官であった香織は、銃の扱い方はきちんと学んでいる。訓練もしていたため、他の武器よりは慣れ親しんでいると言えるだろう。現場で発砲する経験こそなかったものの、未経験の武器を選ぶよりは現実的な選択だ。
銃の発砲、それは警察官にとって大きな意味を持つ。発砲せずに済むのなら、それに越したことはない。まずは拳銃を取り出すこと、それでも抑止とならなければ威嚇射撃が普通だ。基本的に抑止力として使うものであり、実際に使用する機会は少なかった。
そんな自分が拳銃を武器とするとは。香織は苦い気持ちを抱えながらも、それを飲み込んだ。
ここは異世界、何が起こるか分からない。発砲しなくて済めばいいが、そんな甘いことも言っていられないだろう。味方への被害を減らすためにも、覚悟はしておくべきだ。
「そういえば、なぜ寒暁の国から向かうことにしたのですか?」
思考を切り替えるように、香織が本居へ尋ねる。
寒暁は最北端の国。位置としては北海道を指す。関東圏にある帝都から見れば、他の国の方が近いだろうに。
香織の疑問を察したのだろう。本居は一つ頷き、口を開いた。
「寒暁の国は、
東雲は東北地方、黄昏は関西・中国・四国地方にある国だ。帝都から行くならば、そのどちらかへ行くのが一番手っ取り早い。
「だが、そうもいかない事情がある。寒暁の国は、既に限界が近いのだ」
「限界が近い、ですか?」
不穏な言葉に、香織は眉を寄せる。自然と室内の空気も緊迫感が増した。
「あの国は、圧倒的に食物が足りないのだ。寒暁の国は、他国に比べて比較的人口が多い。その理由は不明だが、生き残っている人間が多いのだ。
それに反し、食物が不足している。瘴気によるものなのか、それとも他に原因があるのか。詳細は不明だが、解決を急がねばなるまい。今日食べる物すらない、そんな生活を強いられる者もいるようだ」
実際に目にしたわけではないがな。そう締めくくる本居に、香織は静かに息を吐いた。
思ったよりも悪い状況だ。瘴気が原因というのなら、まだ解決法もある。その瘴気を、香織や紬が祓えばよい。
しかし、原因が不明瞭となると話が変わってくる。香織たちが到着したところで、解決できない可能性も出てくるのだ。
「浄化で解決できるとは限らないのですね」
「その通りだ。しかし、あの国にも瘴気の影響があるのは事実。浄化自体はする必要があるだろう」
「そうなのですか?」
食糧不足の原因については言葉を濁した本居だが、浄化の必要性は断言した。それに香織は目を丸める。人口が他国より多いのならば、瘴気の影響は低いと考えていた。人口の多さは、瘴気による不審死が少ないためだろうと。
その状況でも、浄化が必要だと断言する理由があるのか。もちろん、軽微な瘴気であろうと祓う気はあるが。
「そもそも、瘴気がどこから発生しているかを話していなかったな」
本居はそう言うと、一枚の紙を取り出した。以前も見たこの国の地図だ。日本列島によく似た形が描かれている。
よく見ると地図上に5つの赤丸が記されていた。見る限り、どこかの山のようだ。
「赤丸で記されているのは、各地を代表する山だ。これが瘴気の発生源と考えられている」
「山、ですか?」
香織の脳内に疑問符が浮かぶ。山というと、緑豊かな場所というイメージだ。都会に漂う排気ガスとは無縁な、澄んだ空気が味わえる場所。その場所が瘴気の発生源と言われても、想像できない。
「過去に厄災が起きたとき、これらの山から多量の瘴気が街に流れ込んだと言われている。
厄災が起きるのは、おおよそ100年に一度。人が観測するには長い年月が経過しており、この情報が正確か否か断言はできない。書物に記されているだけだ。
しかし、情報がある以上、それを無視するのは得策ではない。今回は山の調査も実施するつもりだ。」
「なるほど……」
瘴気の発生源。それらしき情報があるのなら、当たってみるのは当然だろう。仮にそれが間違いだったとしても、見過ごして大事になるより余程いい。
地図に視線を落とすと、寒暁の国に一つ赤丸がついている箇所がある。
「では、まずは寒暁の国の現状把握、次に雪花山の調査という流れでしょうか」
「そうだな。そのためにも、まずは港町に停泊する。その上で、一度寒暁の領主を訪ねるつもりだ」
本居が言うには、各国にはその地を治める領主がいるのだとか。各領主に話を通した上で調査をするようだ。
彼らにとっては、帝都の人間は余所者に過ぎない。きちんと挨拶するに越したことはないだろうと納得した。
「香織ちゃん、風邪ひいちゃうよ?」
話し合いが終わり、自由時間となった頃。香織は一人甲板に出ていた。
初夏を通り過ぎ、梅雨を迎えたこの季節。雨こそ降っていないが、生憎の曇り空だ。海風はどこか冷たく、長く当たれば斗真の言うとおり風邪をひくだろう。
それが分かっていてもなお、香織はこの場所を動けなかった。この海から目を離せずにいたのだ。
「とりあえずこれ着てね」
「……いいの? 斗真が寒いんじゃない?」
斗真は軍服を脱ぎ、香織の方にかける。大き目の上着は、風から身体を守ってくれた。
それをありがたく思うも、斗真が薄着になってしまう。香織にしてみれば、そちらの方が心配だった。素直にありがとうと言えれば可愛げもあるのだろうが。香織は内心でため息を吐く。甘えることができない性分は、香織にとって悩みでもあった。
「いいんだよ、香織ちゃんが元気ならね! たまにはカッコつけさせてよ」
茶化すように笑みを浮かべた斗真は、それで話を流すつもりのようだ。そこまで言われて意固地になることもできず、香織もそれ以上口にはしなかった。
「それで? 何か気になることでもあった?」
黙って海を眺めていたこと、それが気にかかっているらしい。斗真が問いかけてきた。口調こそ軽くしているが、その瞳は心配そうだ。
「大したことじゃないよ。ただ……遠いところに来たんだな、って」
香織は視線を海へと向ける。はるか遠く、海が続いた先には紫色のヴェールのようなものが見えた。ここからは大分離れており、僅かに見える程度だ。
しかし、それは決して日本では見なかった光景で、酷く香織の目を惹いた。
「あの紫色のもの、あれが瘴気なのかな?」
「そうだよ。あれのせいで、この国は閉ざされたんだ」
この世界に来たばかりの頃、斗真が言っていた。瘴気によってこの国は閉ざされたのだと。その片鱗を目にした香織は、異世界に来たのだと改めて実感した。
「頑張らないと、ね」
初めて目にした瘴気。遠くにあるものとはいえ、なんだか胸騒ぎがした。嫌なものを見たような、それでいてどこか悲しくなるような。胸が締め付けられる感覚。
思わず胸元を握りしめると、その手を大きな手のひらが握り込む。隣には心配そうに覗き込む斗真の姿があった。
「大丈夫。どんなことがあったって、最後まで側にいるよ」
そう言って、斗真は穏やかに笑った。いつもの明るい笑みではなく、どこか大人びた笑みだった。
ありがとう、小さく呟いた言葉に彼が笑う。
――いつかこの国を救う日がくるのなら、そのときもどうか隣で
溢れそうになる言葉を飲み込み、香織は微笑みを浮かべた。
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