第16話 時間と止める錬金術
文芸部の部室を後にして、奥山先輩が私の前を歩く。先輩にとっても慣れ親しんだ場所だから迷いはない。
こうして一緒に歩く廊下。一段上がるごとに軋む階段。それに先輩の汗のにおい。それらのすべてがあの時のままだった。
三階の踊り場につき、鍵を回す。シリンダーの回転音に合わせて夏目せんせいが揺れる。
時計塔の機械室は日が昇っている時間でも中が思うように見えないくらいに暗い。嵌め殺しの小さな窓が一つあるが分厚いカーテンがかかっていて光が差し込まない。
奥山先輩は暗がりの中を慣れた様子でまっすぐと歩く。以前の彼がそうしていたように、そのまま歩いてカーテンを開けるつもりなのだろう。私はそれを待たず入ってすぐのスイッチに手をかける。
天井に着いた蛍光管がパチパチと面滅しながら明かりをともす。急な光で眉を顰める。
部屋には時計台裏の機械のギアが絡みあい、その隣に古びたピアノとテーブルが一つあるのは過去にも見慣れた光景だ。
でも、そこにあるとは思っていなかったものもある。先日拾ったという鍵を受け取ってすぐにここに来た時にはなかったものだ。
機械室の壁一面。見渡す限り桜の花が満開の並木道の描かれた油絵が飾られてある。
その真ん中に立つ先輩の姿に、あの日のことを思い出す。
卒業式の後、桜並木のあの道を一人で歩きながら立ち去っていく姿。期待していたような言葉も与えられず、私はこの学校に一人取り残された。
「まるで桜の園みたいね……」
そのつぶやきに、元文芸部員は振り返る。
「チェーホフか」
「ええ。私好きなのよ……チェーホフの桜の園が……。ほら、タイトルに桜という字がはいいているでしょう? だから、なんだか他人事じゃないみたいで……」
「なるほど……。桜樹はまだ名前に桜の字が入ったままなのか?」
「ええ……残念だけれど。まだその字は入っているし、今のところはなくなりそうな兆しもないわ……」
「そ、そうか……」
何かを言いたそうにして、やっぱり口ごもる。
「それで?」
「え、えっとー……。チェーホフの戯曲はさ、周りで何かが起きても舞台の上では何も起こらないっていう話が多いんだよな。物語は舞台の裏側だけで進行し、その結果が舞台上で報告されるだけで、だからと言って誰かが何かをするわけでもない。
舞台裏の出来事を、音だけで表現するんだ。隣の部屋に響くピストルの音だとか、桜の木に斧を打ち込む音だとか……」
そう言いながら、先輩は黙って時計の機械を点検している。しばらくして、
「うん大丈夫だ。潤滑油が古くなっているのと錆が原因で止まっているだけだ。機械自体が壊れているわけじゃあない。まあ、もっとも。最近の電子機械と違ってこの手のクラッシックな機構はそう簡単には壊れたりなんかしない。整備さえしておけば壊れることなんてないさ。一応、ねじが緩んでいないかだけでも調べておくか」
奥歯にものの詰まったまま、先輩は作業を開始してしまう。
私は後ろでその姿をただ見つめているだけ。
さすがにわかっていないわけではない。あの時奥山先輩が私のことを、私と同じ気持ちで想っていてくれたこと。
そして多分それは、今でも変わらないままだということ。
――言葉を待っている。
あの時も、今だって……
先輩の作業の邪魔にならないよう後ろから静かに語りかける。
「『桜の園』のラネーフスカヤが桜の園を失いたくないって気持ち、私すごくわかるの。美しい思い出の詰まったあの場所が失われてしまうのがどうしてもいやで、どんな理屈をもってしても割り切れなかったんだと思う」
ねじのゆるみがないかを調べながら元文芸部員は答える。
「それは、ロパーヒンにしても同じだと思うよ。太宰治は『斜陽』の中でロパーヒンはあまりよくは描かれてはいないけれど、チェーホフ自体は彼を一番自分に近い存在だと認識していたんじゃないかと思う。ロパーヒンが桜の園を買い取ったのもそれを失いたくないため。
そこでロパーヒンはワーリャに求婚して一緒に住みたかったんじゃないかな。でも、ワーリャは桜の園がロパーヒンのものになったと聞いてすぐにその鍵を投げ出したし去ってしまう。
ワーリャにその鍵をずっと持っていてほしいと思ったロパーヒンにしてみればそれは拒絶されたと持ったんじゃないかな」
「それで求婚する勇気がなくなった?」
「ああ」
「私ね、ラストでロパーヒンはワーリャに告白すると思っていたのよ。それなのにロパーヒンは何も言わずに立ち去ってしまう。きっとワーリャだってそれを待っていたんじゃないかって思うのよ」
「……」
「私にとっての『桜の園』はこの場所だったの。だからそれを失いたくなくて教師としてこの場所に帰ってきたんだと思う」
「……うん、これで良し。これで問題なく時計は動き出すと思うよ」
まるで何も聞いていなかったように立ち上がる先輩。
「……なにかしら?」
テーブルの上に独伊辞書が置いてあることに気が付いた。その分厚い辞書は閉じられているけれどページの中腹に何かが挟まっているようでその端が辞書の隙間から除いている。
近づいて、それの挟まっているページを開く。
隣で奥山先輩が小さく「あっ」と言葉を切る。
開いた辞書のページには一枚の便せんがあった。紙はすっかり黄ばんでいて随分古いもののように思われる。手に取ると、その下の辞書にはある単語に付箋が貼られていることがわかる。
Ich liebe dich ――― Ti amo
手紙を開く。
『時間がこのままとまってほしいと思っている。
君と過ごした時間が俺にとっての一番の宝物で、残酷に流れる時間のせいで俺は君の前から立ち去らなくてはならない。
桜が散り、君とは会えなくなるけれど、俺は君と過ごしたこの時を忘れることはない。
桜の花が咲くたびに、俺はいつまでも君のことを思い出すだろう』
言い訳なんてできないだろう。その手紙は手書きの文字で、さっきの栞とは違う文字、明らかに文集と同じ味のある文字だ。おそらくあの時、私が受け取るべき手紙だったのだろう。
先輩はロパーヒンなんかじゃなく、ちゃんと想いを伝えてくれていたのだ。
――だけれど、私が求めていたのはそうじゃない。
照れくさそうに眼をそらす先輩は「む、昔に書いたやつだから……な、なんでこんなところに……ちゃんと埋めていたはずなのに……」
背を向けて、時計のギアを触る。
「さあ、これで動くはずだ」
ギアが鈍い音を立て、ゆっくりととまっていた時計が動き始めた。
ここまで来てまだ逃げようとする先輩はやっぱりロパーヒンだ。でも。もしあの時にワーリャが自ら声を掛ければギアはかみ合い一つの時間を刻むことができたのかもしれない。
「ねえ、先輩!」
彼の手を取る。
先輩は振り返り、二人は見つめ合った。
「私ね、時間を止める方法、知っているの」
「時間を止める?」
「ほんとうよ。ねえ、ちょっと目を閉じててくれる?」
「え? あ、うん……」
ゆっくりとかみ合い動き始めた時計のギアの速度が速くなり、心臓の鼓動と連動する。
この瞬間の時間を止めて見せる。
私は一歩先輩に近づく。
古い旧校舎の床が軋み、つま先立ちなる。
――ねえ、 時間は止まった?
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