チャイルドダスト
辛い。辛い。辛い。
ぐるぐると回る視界の中で繰り広げられるのは、青い髪の少女とルビー、セキヤ、シルヴァルトの長ったらしい問答の数々。そんなことよりもこの苦しみから解放してくれと願い続ける時間が続く。
無限の如く襲い続ける渇きが、欲求が、ひたすらにレイカの脳を支配しているというのに。
ようやく、といった頃合いだろうか。薄まりつつある意識の中で、何事か話した後に再びルビーが自分の方に注力し出した。
少しずつ楽になっていくような、けれども心臓がじりじりと灼けるような感覚。それでもあの薬物を欲して止まない。
ただひたすらに、レイカは思う。
欲しい。欲しい。欲しい──。
はっと気が付いた時、レイカの視界を覆っていたのは真っ白な布地だった。
ふたつの大きな山。理解に暫しの時間を要した後、それが女性の胸であると悟る。
「え、あれ!?」
「あら、お目覚めになられましたか?」
豊満なその胸の更に奥から、レイカを覗き込む顔が見えた。
全く知らない顔、ではないが、さほど覚えのない顔だ。何しろ、彼女を見たのは先程振り。それも気を失っている状態を数分眺めた程度なのだから。
状況的に、彼女に膝枕をされているのだろう。頭の下からおよそ人間の脚や衣類とは思えないくらいザラザラとした感触がすることを考慮したとしても。
だが、確か彼女はライガン──敵だという話ではなかったのか。
「レイカ様!」
すぐ近くで老いた男の声がした。
不思議と安心する声。何度もレイカを救ってくれた声だ。
「シルヴァっち」
「お目覚めになられて幸いです。お身体の方は如何でしょうか」
「あー、うん。だいじょぶ、だと思う。なんかさっきまでガチでキツかったけど、今はそういうの全然なくて」
レイカは両手をグーパーさせたり、自分の胸を触ったりして、直前までの感情が完全に霧散していることを自覚した。
頭の中で何度も巡ったあの
「そう、ですか」
レイカの返事にシルヴァルトはほっと胸を撫で下ろした。
明らかに疲労困憊といった様子だ。無理もない、レイカは何度も死にかけ、苦しみ、そのたびにシルヴァルトの精神を擦り減らしたのだから。
「ところでレイカさま、わたくしの脚はお気に入りになられまして?」
「え、あっ。ごめんっ!」
慌ててレイカは起き上がり、今まで膝枕をしてくれていた青髪の少女に謝罪した。
そんなレイカを見て、少女はトカゲの如く異形となった手で口元を隠し、くすりと笑った。
「別に、あのままお楽しみいただいてもよろしかったのですよ?」
「い、いや。そういうわけにもいかないじゃん? ほぼほぼはじめましての相手だし。てかどちら様? って感じだし」
「あら、わたくしったら、またしても失礼してしまいましたわ! わたくし、ルシカ・ベルビアナと申します。以後、お見知りおきくださいませ」
「ルシカちゃんね……えーっと、シルヴァっち」
ルシカと名乗る少女は果たして敵か、味方なのか。
その問いにシルヴァルトは答えなかった。
「ええ。レイカ様も彼女に対して疑問に思われる点がいくつかあるかと存じますが、お先にルビーさんからレイカ様にお伝えしたいことがあるようですので、今しばらくお待ち下さい」
「ルビーちゃん? そういえばルビーちゃんとセッキーはどこ? てかここどこ?」
「ルビーさんのご自宅から少し森の中を歩いた先にある小屋でございます。おふたりは外に」
「あ、みんないるんだね。良かった」
「ご安心ください。少なくともレイカ様が案じられることは何も起きておりません……少々お早いですが、他にご質問がなければルビーさんにご報告に上がりますが」
「うーん、みんなだいじょぶってわかったなら、今は特にないかな」
承知しました、とシルヴァルトは小さく頷いた。
「それではお呼びして参ります。ルシカ、あなたも」
「えぇ。レイカさま、また後ほど」
「う、うん。バイバイ」
部屋を出る間際、ルシカとシルヴァルトの「ほら、何もしないと言ったでしょう?」「それだけでは信用するに値しません」という会話が聞こえた。
扉が開き、外の景色が少しだけ見える。ロサン王国を出たのが早朝だったのに、今では日も傾き始めている。あの地獄のような苦しみを、一体何時間受けていたのだろうか。
十数秒間の孤独が訪れる。改めて部屋を見てみると、狭く殺風景ながらも掃除の行き届いている綺麗な室内だ。ただの物置小屋ではなく、宿屋としても使えそうなのだが、深い森の中、それも国境ともいえる結界の縁近くで利用客なんているのだろうかと、レイカは思った。
ガチャリ、と再び扉が開き、神妙な面持ちと共に赤紫色のアホ毛が顔を覗かせた。
「……大丈夫?」
開口一番のルビーのセリフに、レイカは平気そうに頷いた。
「ごめんね、無理させちゃって。まさかここまでになるなんて思わなかったの」
「いいよ。全部あたしの自業自得だし」
「そんなワケないじゃない。お祖母様から、昨日までの戦いは聞いてるわ。その過程でなくなくあの薬を飲むしかなかったって。アンタはアンタができる上で最善手を選んだんでしょう?」
「でも、こうやって迷惑かけてるし……」
「迷惑ねぇ。どっちかっていうと、容態を悪化させたワタシの方が迷惑かけたと思ってるんだけど」
まぁいいや、とルビーはレイカの隣に座った。
「さてと、何から説明しようかしら。とりあえずレイカが寝てた間は特に大きなことは起こらなかったわ。むしろこれから大変なことになりそうなんだけど」
「大変?」
「アンタのこともそうだけど、一番なのはルシカのことね。アイツ、こっちの仲間になりたそうにしてるのよね。レイカも聞いてたでしょ、アイツはライガンだって」
「あー、うん、あたしもそれ気になってた。なんかめっちゃ普通に喋りかけてきたし、一瞬『え、味方だっけ』って思ったもん」
半身が竜のような眼帯の少女 ルシカ・ベルビアナ。レイカに対して好意的に接していたが、彼女はやはり、人類を脅かすライガンに他ならない。
そんな彼女を暖かく迎え入れることなんてできないのだが……。
「ワタシも確実なことはいえないわ。アイツ、“実験場”って呼ばれてるところから来てるらしいの。“実験場”は簡単に言えば、ライガンが
「でも、ルシカちゃんもライガンなんでしょ? 仲間同士でそんな酷いことしてるの?」
「さぁ? 何かの刑罰とかそんなところでしょ。いずれにせよ、後でじっくりと問い質すつもり。一応、アンタの飲んだ薬のこともそれなりに知ってそうだったし、利用できるだけ利用しないとね」
『利用』──まるで物を扱うかのような言い方が気になったが、レイカは無視することにして、別の話題に移ることにした。
「やっぱり、あのグミってヤバかったの? ロサンのお医者さんも言ってたけど」
「ヤバいどころの話じゃないわ。一時的に魔力を回復させ、痛みを和らげ、更には心を落ち着かせる。けれどもその後に魔力は一気に汚れ、より大きな痛みや不安が襲ってくる。完治不可能の劇薬、それも、あらゆる麻薬の中で最も依存度の高いの。この薬のせいで内部から崩壊していった国なんて山程あるわ」
「崩壊……じゃああの街にあれがあったのも」
“狂風” ネモネアと最後の戦いを繰り広げたあの廃都市は、戦闘の直前は大きく崩れているようには見えなかった。当然ながらセキヤとシルヴァルトが、瀕死のレイカを思ってできるだけ安全な場所を選んだからというのも理由のひとつではあるだろう。ひょっとすると郊外の方は踏み入る足場すらない程の惨状だったのかもしれない。
しかし、あの麻薬が国を滅ぼす力を秘めているのだとすれば。
「最終的にライガンに潰されたのかもしれないけど、それで国内で何か一悶着あったのは間違いないわね。たった1粒だけでも大量の火薬が火の近くにあるのと同じくらい危険だから」
「そう、なんだ」
イメージはあまりつかないが、なんとなくあのグミの危険性が理解できた気がする。
あの苦しみを埋めたいと、レイカは何度も何度もグミを欲した。思考のすべてが、あの麻薬に支配されていた。
もしレイカに限らず、他の人、それも国家レベルであの欲求が膨れ上がったら。それを想像するのは難くない。
「ん? じゃあなんで今あたし全然そういうの感じないの? 治ったわけじゃないんでしょ?」
「そうね。さっきも言った通りあの麻薬──正式には『チャイルドダスト』って言うんだけど、その効果やあれへの依存への解決策はないわ。でも、チャイルドダストの本質は体内魔力の汚染にあるの。それを浄化すれば、少しの間だけど抑えられる」
「その魔力のじょーかってやつをルビーちゃんがやってくれたんだね。ありがと!」
「……感謝される筋合いなんてないわよ。さっきも言ったでしょ、無理をさせて汚染を進めたのはワタシなんだから。
チャイルドダストは、乱用者の精神状態によって汚染の進行が変わる。早い話、ストレスや不安を感じるほど酷くなるのよ。だから本当はちゃんと安静・平静にしてないといけないんだけど、ね」
本当にごめんね、とルビーは目を落とした。
なるほど、振り返ってみれば2度の発作の前にレイカはフォニアの死を思い出していた。今朝にいたってはルビーのゴーレムかつ愛猫のトンボを殺し、心を痛めた上での想起だ。
……と、ここまで考えて、レイカは思考を止めた。
その想起で自分は倒れ、ルビー達に迷惑をかけたのだ。二の舞を演じるような馬鹿をしてはならない。
ただ、きっとこれから何度もあの過去を思い出すだろう。もはやレイカの心には、釘のように深く突き刺さって引き抜くことができなくなっている。何度も何度も苦しみ、人に迷惑をかけてしまうだろう。
完治不可能の呪いが自分にかかっているという実感が、ようやく湧いてきたのだった。
「やっぱ、あんなの食べちゃダメだったんだ。シルヴァっちだってほんとは嫌だったと思うのに」
「言ったでしょ? アンタはあの場での最善手を選んだ。シルヴァ、ルトさんもきっと……いや、絶対そうだと思う。自分を責める必要なんてないわよ。これもさっき言ったことだけど、今回の件は全部ワタシの責任なんだから」
そんなことない、すかさずレイカがそう言おうとして。
「まぁ、謝罪はするけど反省はしてないんだけど」
「え?」
再び視線を自分に合わせたルビーは、ぎこちない微笑みを浮かべていた。
「アンタ達、あの“聖地” サブランを目指してるんでしょ? なんでかは知らないし、無謀だとも思うけど。でも、最低限そこまでの過程で死なないように、今厳しく指導しないといけないと思うから。どれだけ辛くても、死ぬよりはマシでしょ?」
「ま、まぁ、そうだね」
「だったら1日たりとも無駄にできる時間はないわ。せっかく知り合ったし、ライガンにころっとやられてほしくないもんね」
「ルビーちゃんって、朝の時も思ったけど、結構アレだよね。ごーり主義って言うんだっけ」
「合理主義……確かにそうかもね。嫌な奴だって思うでしょ」
「ううん、そんなことないよ。ルビーちゃん超カワイイから」
それを聞いてルビーは目を丸くした。そして何か言いかけようとしたのだが。
「……ふふっ、何それ」
レイカは初めてルビーが笑った顔を見た。
セキヤに見せる演技のような嘲笑ではなく、年相応の屈託のない愛らしい笑顔を。
「そういうの」
同性相手にもにも関わらずドギマギとしながら、照れ隠しのようにレイカは言った。
「セッキーにも見せてあげたら? 目つき怖いしちょっと口悪いけど善い人だよ」
「それは…………できない、かな。ざこセキヤがレイカの為に頑張ってるってことは理解してるわ。アイツらと違って善人だってことも」
でも、とルビーは一旦言葉を切った。
「そういう次元の話じゃないの。どれだけ頭で分かってても抑えられない。生理的嫌悪感の延長上の、まさにアンタと同じよ、病気みたいなもの」
「病気、ね」
物の喩えではあるが、きっとルビー自身もこの難儀な性格に苦しんでいるのだろう。
こうしてレイカと話す彼女は、シルヴァルトと話す時や一緒にいる時と違って、緊張なんてせずに落ち着いている。セキヤに見せる悪意なんて欠片もない。たった数時間でいろいろな面を見たが、おそらく、レイカとふたりきりのこの状態こそ、彼女の素なのだろう。
男性への恐怖。男性に向けた侮蔑。この部屋から一歩外に出るだけで、抑えられない衝動が彼女の中で渦巻いてしまうのだ。
傍から見ても異常だと思えるくらいに。
「ねぇ、ルビーちゃん。どうして──」
その続きを話そうとして、レイカははっと口を噤んだ。
このまま訊ねれば、ルビーは彼女の意思に関係なく答えてしまう。レイカの声はもはや、あらゆる秘匿情報を無理矢理こじ開け、公に晒す鍵となってしまっているのだ。
触れて欲しくないこと。話したくないこと。それを当人自ら語らせる。心を抉るような能力をなんとか発動させないようにできないものか。
しばしの熟考。あー、だとか、えー、だとか必死に適当な言葉を探す。
そうしてとあるフレーズが頭に浮かび、慎重にそれをルビーに向けて発した。
「えーっと、ルビーちゃん。どうしてセッキーとかシルヴァっちに当たり強いのか、教えてもらうことってできる?」
「……本当、優しすぎるわよ」
ルビーは呆れと嬉しさが入り混じった微妙な表情を浮かべた。
そしてレイカの問いに即答する。
「だったらその優しさに甘えさせてもらうわ。ごめんね」
「いやいや、そんな謝ることじゃないっしょ。誰にでも話したくないことってあるもんね」
「そうね、アンタにもありそうだし」
「……えー、そんなことないよ」
我ながらバレバレな嘘を吐いたと思った。
そしてすぐに、わざわざ嘘を吐く必要なんてなかったことに気付く。これは他愛もない会話で、先にレイカが言ったことにルビーが乗っかっただけ。そこに裏も表も、自分を責める意図もない。
心臓が早鐘を打っていることを悟られまいと、あははとレイカは笑う。ルビーはその様子に違和感を感じたが。
「まぁいいわ。ちょっと話が脱線しちゃったけど、要はあまり過去のトラウマとかを思い出さないでね、って話。じゃあそろそろワタシ出るね」
「う、うん。分かった、頑張ってみる」
「あ、あと」
ルビーは立ち上がりながら言った。
「外でルシカのこと皆で話し合うみたいだから、もし良かったらレイカも来てみて。もう少しここで休みたかったら、そうすればいいけど」
「それは……あたしの力が必要だからなのかどうか、答えられる?」
「その程度のことで、そんな回りくどい言い方しなくても良いわよw 確かにアンタの能力があれば楽だろうけど、病人に無理強いはしないわ。最悪、こっちの方で『なんとかする』からね」
異世界に来てから早1週間近くのレイカは、具体的にルシカをどうするつもりなのかなんて分からないはずがなかった。
──染まって、いってるなぁ。
元の世界の日々に、親友の優美と過ごした時間に思いを馳せる。
殺人。麻薬乱用。毎日が死と隣り合わせ。精神や思考が日に日に汚れていくレイカを見て、優美はどう思うのだろうか。
「じゃあ今度こそ」
メガネをくいっと上げながら、ルビーは小さく手を振った。
「お腹が空いたら教えて。この辺りって、いろいろ美味しい山菜が採れるのよ」
「うん、分かった」
玄関口へ向かうルビーの背を眺めてみる。
同年代、それも1個下の彼女は、レイカの想像を超えるような経験をたくさんしてきたのだろう。レイカとセキヤを圧倒できる実力の持ち主だ。何度も死線を潜り抜けてきたことだろう。
──もっと染まらないとダメなんだよね。
日本に帰れるかは分からない。帰れたとしてもセキヤと一緒じゃないかもしれない。
だからこそ、レイカは勇者にならねばならないのだ。
「……本当、嫌な奴」
悲壮な決意を改めて固めるレイカには、扉を開けるルビーの呟きは届かなかった。
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