カオティック・オーダー 東京怪奇文化財

白蛇五十五

第一部 殯の魔女

第1話 真夏の夢、君がため (1)

 JR中央線東小金井ひがしこがねい駅から徒歩二十分。閑静な住宅街の片隅に、こんもりと樹木の生い茂った一角がある。


 森とも木立ともつかない規模の、その木々の合間を抜けると、大きな邸宅が見えてきた。


 季節は八月の終盤、まだ午前中だというのに強い陽射しが地面を焼いていたが、木陰にはひんやりとした空気が沈殿している。


 根岸ねぎし秋太郎しゅうたろうはふうっと息をついて黒縁の眼鏡を一旦外し、額と眉間に流れ落ちてきた汗を拭った。


 バスが来るまでに時間があったので、駅からここまで根性で歩いてきたが、大人しく構内でバスを待つべきだったかもしれない。あるいはタクシーを使うか。職場側としても、熱中症で労災になった方がタクシー代より厄介だろう。


 邸宅の玄関前まで来た彼は、建物を見上げてもう一度息を吐いた。今度は感嘆の思いからのものだった。


 広大な建物である。そしてただ大きいだけでなく、城郭のような風格と優美さを備えている。

 根岸は建築学が専門という訳ではないが、大学時代は人文学部史学科で有史考古学を専攻していたので、古い建造物は好きだ。


 ――音戸邸おとどてい


 自治体の報告書などで、この建物はそう呼び慣わされてきた。


 建てられたのは明治期の半ば。当時最先端の和洋折衷の造り。以降あちこち修繕はされているものの、様式や意匠は大部分が建造時のままだ。


 携わった建築家の名は不明、建造当初の所有者も不明。ただ、現在の持ち主ははっきりしている。


(はっきりしてるけど、謎だらけなんだよな……)


 つらつらと、ぼやきめいた思考に耽りながら、根岸は分厚い両開きの扉の前に立つ。古めかしい玄関扉の右脇に、真新しいインターホンが備え付けられているのが何ともおかしく思えた。


 インターホンを押すと、間を置かずに応答があった。


「はい。どちらさん」


 落ち着いた口調で、どこか億劫げだ。声色は若い。ちょっと男女の判別に迷うような声だが、恐らく十代後半の少年のものである。


「朝方に失礼します」


 インターホンに向けて、根岸は頭を下げた。


「東京都特殊文化財センターの根岸です。えー、耐震補強工事の件でご挨拶に伺いました」

「ああ、トクブンさん」


 スピーカーの向こうの相手は慣れた様子で、根岸の所属する組織の略称を口にした。


 公益財団法人東京都特殊文化財センター。彼が新卒でこの法人に入職して、早二年目になる。


「鍵開いてっから、適当に上がってよ」


 相手は砕けた口調で告げた。

 建物まるごとが文化遺産で、屋内にも貴重な家具や美術品が多い割に、この家はいつも不用心だ。


(――?)


 ふと頭をぎった違和感に、根岸は取手にかけようとした手を止める。

 彼がこの家を訪ねるのは今日が初めてだ。何故そんな印象を抱いているのだったか。


(そうだ。しょっちゅう滝沢たきざわ先輩が愚痴ってたからかも)


 と、根岸はすぐさま違和感の原因を突き止めた。


 根岸の直属の上司にして教育係、主任調査員滝沢みなみは、この都指定特殊文化財『音戸邸』の保護と研究を、つい先日まで担当していた。


 気さくな性格の彼女とは、一緒に飲みに行ったりして仕事の愚痴を聞く機会も多かったものだ。だから我が事のような印象に――


(……滝沢先輩、本当に大丈夫なのか。あの時の……あれ以来、現場を離れて……)


 ――彼女の事を思うと、まだ気分が落ち込む。だからあえて今は、頭から押し出していたのだが。


「根岸さん? どうかした?」


 スピーカーの向こうから、不思議そうに問いかけられる。


「あ、いえ。お邪魔します」


 我に返った根岸は、慌ててシャツの襟元を正し、扉を開いた。


 年季の入った三和土たたきに、磨かれて黒光りする木造りの廊下。木陰と同じく家の中にも、沼の底のように冷えた空気が停滞している。


 靴を脱ごうと身を屈める根岸の視界の隅に、音もなくすっと何かが映り込んだ。

 視線を上げると、上がりかまちに前脚を揃えて、一匹の三毛猫が佇んでいる。


 よく手入れされた艷やかな毛並みで、丸っこい顔つきは典型的な日本猫のそれだ。耳から目元まで黒毛と赤毛に覆われ、いわゆるハチワレの模様となっている。後頭部から背中にかけては黒毛が多く、腰の辺りは赤毛で、尻尾の先はまた黒い。

 そして最大の特徴として――その尻尾が、根元から二股に分かれていた。


「どうもご苦労さん。なあ、外の気温はどんなだい」


 猫が口を開き、事もなげに言葉を紡ぐ。声色は、先刻インターホンのスピーカーから聞こえてきたものと同じだ。十代後半くらいの少年の声で、そのくせ世慣れた老翁のような風格を伴う。


 についての話も、根岸は前任者からよく聞いていた。聞いてはいたが、やはり多少は驚かざるを得ない。


 人の言葉を話す猫。尻尾が二本。昔話や怪談の形で古くから語られてきた日本の『怪異かいい』――『猫又ねこまた』である。



   ◇



 幽霊、妖怪、悪魔……人ならざる存在にして、人を凌駕し、人をおびやかすものたち。それら『怪異』を、人は遥か太古からおそれてきた。

 そんな時代も、科学の発達と共に終わりを告げる。怪異など全て迷信に過ぎない。前世紀の半ばまではそう考える人々もいたと言う。


 しかし、違った。

 怪異は実在した。


 第二次世界大戦末期、米国で進められたとある研究によって、既知のどんな生物とも異なる、物理法則を超えた生命体の存在が明らかになった。

 自身の姿形や質量を容易に変異させ、自然界の現象を捻じ曲げ、時に肉体を捨てて、精神や意思の塊――霊魂と呼ぶべき状態で存在し続ける個体さえある。


 人類をはじめとした、物質からなる生命体とは対照的な存在、


 つまり彼らこそが、人類をおびやかしてきた『迷信』の対象、怪異達の正体だったのだ。


 研究の成果は、当時の科学技術の結晶たるラジオやテレビを通して瞬く間に知れ渡り、世界中の人類が再び怪異の存在を信じた。

 そしてそれを期に、怪異の数は爆発的な増加を見せる。


 増加という表現は正しくないかもしれない。怪異は昔からそこかしこにいた。闇夜や暗い森の奥、人の世のかげとなる場所に。

 ただこのパンデミック以降、人間の前に堂々と顕現けんげんし、好き放題暴れ回るようになったという事だ。


 肉体と代謝ではなく、精神と意思によって生命を維持する怪異は、他の種族から認識され、おそれられる事で勢力を増すのだろう。怪異との生存競争にホモ・サピエンスが打ち勝つには、彼らを怖がらず信仰もしない事が肝要だ――そんな仮説が唱えられたが、最早あとの祭りだった。


 戦争が終わり、焼け野原からの再出発となった日本にも、怪異は溢れかえった。

 国の復興と経済成長に伴い、怪異対策の体制も整えられる運びとなる。


 一九五〇年、八十年ぶりに、かつてこよみ占術せんじゅつを統括していた陰陽寮おんようりょうが復活。陰陽庁おんようちょうと名を改め、全国に怪異対策局を設立する。尤もその後、不況と省庁再編時のコストカットなどを受けて、多くの施設が民営化したが。


 その一つが、公益財団法人東京都特殊文化財センターである。

 特殊文化財とは、怪異と関わりの深い文化財と定義される。昔は『怪奇文化財』と呼ばれていたらしいが、用語として不適切だとかで一九九〇年代に名称変更された。


 いわくつきの呪われた妖刀だの、幽霊の出る城跡だの、妖怪の棲みついた古墳だの、そういった代物の研究と保護がセンターの管轄だ。

 強力な怪異が取り憑いた品は、しばしば歴史資料や美術品として貴重で、安易に壊したり燃やしたり出来ない物が多い。


 そんな時は根岸ら、センター職員の出番という訳だ。



   ◇



 「外ですか? いや暑い日が続きますね。まだまだ猛暑って感じで」


 猫の質問に根岸は、動揺を見せないよう軽い苦笑を浮かべ、ぱたぱたと手を振って顔を煽いでみせた。


「……そうか。まだ暑いのか」


 何故か沈んだ口調でそう応じて、猫は髭を捻るように揺らす。人間で言えば『眉をひそめる』表情に近いだろうか。


 こちらの回答が何か気に障ったのか、と根岸は不安を覚えた。何しろ怪異という種は気まぐれで、感情の機微も行動理論も、人類には理解しきれない。


「まあいいや、上がってくれ。それとこれ、俺の名刺。あんたが補強工事の新しい担当さんになるんだろ、よろしく」


 打って変わってあっけらかんとした態度になり、猫は脇に置いていた名刺を銜え上げた。


「あっ、これは。大変失礼しました」


 うっかりしていた。根岸はあたふたと名刺入れを取り出す。まさかビジネスマナーで猫にも劣る有り様を晒す羽目になるとは。

 自分の名刺を差し出し、頂戴致します、と猫の口から名刺を取る。小さく歯型が付いているのはご愛嬌である。


音戸おとど家 家令・使い魔 駒田間こまたま実啓みけ


 名刺にはそう記されていた。名前の横には電話番号とメールアドレスも記載されている。どちらも携帯電話のものだ。どうやってか契約しているらしい。


「駒田間さんと……?」

「ミケでいいよ。滝沢さんもそう呼んでたろ。じゃあ俺は、茶を淹れてくるから」


 そこが客間だ、とミケは前足で廊下の右手を示し、それから不意に、水気を振り払うように全身を揺さぶった。

 するとミケの身体の周囲から、線香を思わせる細い煙が立ち昇る。煙を纏わりつかせるようにして、彼はくるりと半身を回転させた。


 唐突に、猫の姿が根岸の目の前から掻き消える。


 と同時にその場には、一人の人間の少年が猫に代わって出現した。


 そう大柄ではなく、身長は一七〇センチ前後だろう。細身で色白、顎から首筋にかけてのしなやかな印象は思春期の少女のようだ。切り揃えられた黒髪にははね癖がある。顔立ちは整い過ぎて作り物めいていたが、大きな瞳とつり上がり気味の目尻は特徴的で、先程までそこにいた三毛猫と似通って見えた。


「ウワッ!?」


 と、根岸は思わず派手な声を上げた。猫が人間に化けたので驚いた、それもある。しかしそれ以上に、現れた少年が全裸だった事に面食らったのだ。


「あ、すまん。服を忘れてた」


 裸の少年の姿のまま、ミケは頭を掻き、「今朝は起きてからずっと猫だったから……」などとぼやきつつ、廊下の左手の階段を上って行った。


「……寝る時、裸の人?」


 遠のく背に向けて、何となく根岸は訊ねる。


「そりゃあ。逆によく服なんか着て熟睡出来るよな、人間」

「はあ」


 ミケのアイデンティティは、どうやら猫側に近いらしい。

 滝沢主任が同行していなくて良かった、と根岸は考えた。

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