第39話

二人が転移した先は真っ暗だった。どんよりと濁った空気が重苦しく、息が苦しい。


(魔瘴が濃い)


夜のルーンシェッド大森林を超える濃度だ。この状態でうろつけばすぐに魔瘴に汚染されて死んでしまう。シルガは普段の感覚で結界魔法を構築したが、術式は描くそばから打ち消されていった。


「! 魔法が消えた」


驚いて息を呑んだアスレイヤは、錆びたようになって崩れた魔術式を見つめた。


「やっぱりダメか」


「……魔瘴のせいなのか?」


「うん、教科書ではまだ習わないかもな。魔瘴濃度が高すぎる場所では 魔法が展開する前に術式が浸食されて発動しないことがあるんだ。魔道具も、かなり強い魔力付与がされてなければ魔瘴の中では役に立たない」


すでに発動済みのマジックバッグは徐々に機能が停止するし、その場で展開する転移機なんかは展開を阻まれ壊れてしまう。

そう言いながらシルガは右腕を水平に伸ばして手の平に魔力を集中させた。


――キィン……!


甲高い音と共に高速で描き出された魔術式の眩しさに目を瞬かせているうちに息苦しさが無くなった。二人の身体を包むように結界が張られたのだ。アスレイヤがそっと見上げると、隣で魔法を発動させたシルガが真剣な目をして呟いた。


「ここでまともに魔法を使うには普段の3倍は魔力が要る」


その言葉ですっと胸が冷えた。


「フェルレインは……」


いなくなってから既に一日が過ぎている。もう手遅れかもしれない。それどころか自分達も危険な状況にいることを、アスレイヤは今更はっきりと感じたのだ。シルガは不安げに言葉を途切れさせたアスレイヤの背をぽんと軽く叩いた。


「本人は諦めずに助けを待ってるかもしれない。俺達はまだ切羽詰まった状況じゃないからもう少し探してみよう。まずは帰還手段の確保だけど。……灯りを」


アスレイヤは頷いて手際よく松明を作った。ボウッと音をたてて燃された炎が 闇の中からゆらゆらと風景を炙り出した。


「こんなに燃えているのに明かりが狭い。足元を照らす程度にしかならんぞ」


「瘴気が遮ってるんだよ。ほらあれ」


シルガが指した地面上で ぼんやりとした影が揺らめいている。魔瘴濃度が高くなりすぎて厚い層が出来ているのだ。影を見ながらふと視線をずらすと 苔が生えていることに気付いた。もっと広く見れば、幾筋も伸びた木の根、シダや蔦、朽ちかけた石畳がポツリポツリと残っている。仰ぎ見れば魔瘴の厚い層に覆われているが、うっすらと光が漏れ射している。


「おい、この階層……」


「ああ」


―― 謎の10階層と同じ状況だ。


そう思った時、二人の周りで地面が音を鳴らし始めた。


「何だ……?」


アスレイヤは剣を抜いて構え、息を潜めて気配を探った。


―― ボコッ、ボコ、ボコッ……


溢れ出た気泡が水面で弾けるように、揺れる地面の奥から次々と何かが溢れ出して地表を盛り上げているのだ。松明を掲げたシルガは足元のもっと奥から迫る不気味な気配の正体を察した。


―― ボコッ!


土を四方に飛び散らせ 無数の穴が黒々と口を開けた瞬間、


「還れ」


シルガは一切の躊躇なく穴の中に魔法で炎を叩き込んだ。


―― ギェエエアアアア


燃え盛る無数の穴の奥から絶叫が響く。けれど穴はそれだけに止まらず シルガ一人で全て潰すには間に合わない。次から次へとボコボコと音を鳴らし、黒い底から肉の剥げ落ちた人間がずるりと這い出してきた。


「亡者か!」


黄ばんだ骨をカタカタと鳴らし それぞれに剣や斧を手に二人を取り囲む様は亡者の軍隊だ。腐臭を放ち牙を剥く獣もいる。蠢く怨嗟の渦を眼窩からのぞかせてじりじりと攻撃の頃合いを計っているようだ。シルガが魔法を使うと同時に一斉に攻撃が繰り出されるのは予想がつく。次々と地中から出て来る亡者達を遠い目で眺めた。


(あー……消耗戦だ覚悟しとこ)


シルガは背を合わせたままアスレイヤに言った。


「ここで結界張るのは魔力消費が激しいんだけど、防げるのは魔瘴でやっとだ。攻撃をもろに受けると簡単に破れてしまう。止めを刺せなくても出来るだけ先手を取ってほしい」


「倒せるのか?」


「無力化できる。破られたら都度張り直すから離れすぎずに敵を蹴散らしてくれ」


そう言って通常の3倍の魔力で術式を組み上げると、それを見計らった亡者達が一斉に襲いかかった。

アスレイヤが一体斬り伏せると空気がずんと重くなった。対応しきれなかった総攻撃を結界が防ぎ、破れたのだ。防がれると思わなかったらしい亡者たちが怯んだのを見逃すようなことはしなかった。アスレイヤが返し刃で二体目を切り裂き、身を翻して三体目を突き刺す。ふと空気が澄んだのを感じて結界が再度構築されたことに気付くと 目の前に炎が広がった。後方の亡者達が距離を詰めることができずに足止めされている。


(今のうちだ)


アスレイヤは 結界を破られたくないシルガの意図を汲んで、近づく亡者を一掃するため ひたすら剣を振るった。


「だがキリがないぞ!」


何体斬り捨てても足元からボコボコと湧き出て来る。


「俺達がしぶとければそのうち元締めが出てくるよ!」


近くで湧く亡者はアスレイヤに任せ、シルガは中距離から後方にかけて湧き出す亡者を炎で足止めかつ焼却。たまに結界が破れるのを張り直しながら蹴散らされた亡者を焼き払いつつ、いつでも強力な魔法を使えるように魔力を制御しておく。何故ならこの後、厄介な奴が出てくるのがわかっているからだ。


無尽蔵に湧いて出る亡者の群れにアスレイヤがうんざりし始めた頃、じわりと空気が変わった。禍々しさを感じて身を捻った直後、槍のようなものが脇腹を掠めてアスレイヤの背後の木を突き刺した。


「アスレイヤ、俺の傍に!」


「クッ……!」


シルガの元へ飛び退きながら先程の木に視線をやると、その大木はしおしおと枯れていくところだった。ぞっとして目を瞠ったと同時に魔力の奔流が辺りを飲み込んだ。カッと眩しい閃光に視界を真っ白にされ、轟音が骨を揺さぶる。シルガが魔法を放ったのだ。


―― ゴオオオオオ!!!


突風が収まるのを待って目を開けるとアスレイヤの眼前は様変わりしていた。

魔瘴で遮られた視界の一部が拓け、周囲の様子が少しわかる。大きく抉れた地面の中心に何かがいた。圧倒的な存在感で平然と立っている。


「ゲホッ、 あれは何だ!?」


咳き込むアスレイヤの隣りでシルガが魔法薬をふたつ取り出し、アスレイヤに一つ渡して色の違うもう一つを空けた。


「俺はデスブリンガーと呼んでる。”死”の収集がライフワークの暇してる亡者だよ」



大きな鳥の嘴のような奇妙な頭部の下は痩せこけた体躯だ。細く尖った二叉の槍を持ち、引っ掛けるように身に纏ったローブが広がって膨らんでいる。よく見ればローブの下は幾重にも鎖が巻かれ、首から腰にかけて生えた無数の髑髏と人の首がこちらをじっと見ていた。

無言で対峙していると髑髏がカチカチと歯を鳴らし始めた。いくつもの生首がそれに呼応してケタケタと笑い声を上げる。


「なんだこれは……!」


頭に直接響いて脳を揺さぶる酷く不快な不協和音だ。気を取られたアスレイヤは 黒い影がぬるりと動くのに気付くのが遅れた。


「危ない!」


シルガは咄嗟にアスレイヤの襟首を掴み後ろに引いて、間に身体を滑り込ませてすんでのところで庇うことができた。槍の先がシルガに触れる寸前で止まり、じゅわっ、と嫌な音を立てて結界が消滅した。


「くっそ、やっぱり魔力喰いだ」


シルガが攻撃魔法を発動するよりデスブリンガーが二撃目を振りおろすのが早かった。


―― ギイイィィィン!


「クッ、は、ああああ!!」


庇われていたアスレイヤが素早く踏み込み、二撃目を剣で受けて弾き返す。それに追撃してシルガが風魔法で切り裂き、結界魔法を掛け直して態勢を整えた。しんと静まりかえった周囲には何の気配もない。ピリピリと神経を尖らせて身構えながらアスレイヤが聞いた。


「あの不気味な槍は何だ。どうやって倒せばいい?」


「奴は呪いで他者から”死”を奪い、それを能力として消費している。槍の二叉の間に”死”がある。触れられたものが”死”に相当する生命力――魔力を支払って初めて、奴の集めた”死”がひとつ消費される。俺の魔法は槍に相殺されるばっかりでほとんどダメージにならないな」


「つまり……」


「物理でタコ殴り!! 下だ、アスレイヤ!!」


―― ゴパッ!!


地中から飛び出したデスブリンガーの槍はアスレイヤに標的を絞ったようだ。繰り出した槍の穂先は明確にアスレイヤを狙っている。


「チッ!」


執拗に追いかけてくる攻撃をアスレイヤがギリギリで躱しても、掠めた槍の先が何度も結界を消滅させてその都度シルガが張り直す。シルガの魔力が凄い勢いで削られている。


(このままじゃキリがない)


リーチの長い槍を相手に確実に攻撃を入れるには自ら敵の懐に入らなければならない。アスレイヤは不気味な槍を恐れている自分を叱咤した。


(あの槍に結界を突破されても平気だ!)


なんせピホポグラッチウォーリア2世が尋常じゃない過保護さで結界を張り直してくれるのだから。


二叉槍の刃の間に渦を巻く黒い球体が物欲しそうに蠢いている。アスレイヤはデスブリンガーを真っ直ぐに見据え腰を落として対峙した。穂先をこちらに向けて水平に構えた槍が揺らぐと同時にアスレイヤは地を蹴って飛び込んだ。


「はあああっ!!」


渾身の力を振り絞り、白く輝く刀身を叩き込む。胴を斬り裂く手ごたえはあったものの相手も半歩下がって身を翻し、振りかぶった槍を勢いよく下ろした。けれど穂先がアスレイヤに届くことはなかった。瞬時に展開されたシルガの魔法が次々と炸裂し、デスブリンガーを後方へ退ける。すかさず追撃するがどれも決定的なダメージを与えるに至らない。ローブの下の髑髏と生首がケタケタカチカチと不快な音を立てている。


「くそっ!」


再び攻勢に出た二叉槍を躱し押され気味に後退するアスレイヤの目の前にシルガの魔術式が展開された。


「身体強化を付与する!ちょっとだけ無理してくれ!」


「!!」


シルガから初めて受けた支援魔法の効果は抜群だ。視野がすっきりと拓け、力が漲ってくる。見た事のない景色に気持ちが昂った。


(すごい!)


一歩踏み出せば瞬時に敵の懐の中だ。


「はあああああっ!!」


剣を振り上げデスブリンガーの胴を勢いをつけて斬り裂く。今度はしっかりとした手ごたえがあった。


「奴が呪いを使う時が勝機だ。青い炎を見たら即、退避!」


ゴシャッとひしゃげた音がして飛んで行くのを追いかけ突き刺し、繰り出された槍を剣で受けて薙ぎ払う。


(いいぞ、倒せる!)


アスレイヤが追撃のために踏み込んだ瞬間、鳥の嘴のような頭部の眼窩の奥に青い炎がぼうっと灯った。


「青い炎……!」


ずん、と空気が重くなり、危険を悟って飛び退いたが間に合わない。完全にアスレイヤを捉えた穂先が真っ直ぐに向かってくる。


――ゴウッ!!


物凄い質量の圧が直進で迫り、アスレイヤを避けて二つに裂けた。うっすらと瞼を開けると 胴を貫かれた岩の巨人がアスレイヤを庇うように立ちはだかっている。


「ゴーレム!?」


はらはらと崩れていく様を呆然と見ながら、信じられないくらい重たくなった身体をどうにもできずに座り込むしかなかった。立っていられないほどに脱力し倦怠感が気力を削ぐ。


「はあっ、ぜぇっ、はっ、は……はぁっ」


なんとか視線だけ巡らせばシルガが魔術式を描いているところだ。デスブリンガーの足元に展開させた魔術式から荊のようなものが飛び出して その身体を拘束している。鳥の嘴のような頭部にある大きく窪んだ眼窩から黒い靄が噴出し、青い炎を纏ってシルガに向かって行く。


「ピホ……あぶない!」


未だ展開されない魔術式に焦れてアスレイヤが叫ぶと同時にシルガの周囲が白く輝く。


「召喚――山姥…じゃなかった、山姐さま」


すんでのところで発動した召喚術式はシルガを庇うように間に割り込み、襲い掛かる黒い靄を飲み込んでいく。シルガが召喚したそれは徐々に形が明確になり、大きな鍋であることがアスレイヤにも見て取れた。黒い靄が大きな鍋に吸い込まれているのだ。


「……の、鍋」


ガポン! と閉じたのはお鍋の蓋だ。


――― うふふ、おいしくなろうねぇ……!


どこからかそんな声が聞こえた直後、空気を引き裂くような絶叫が響き渡る。カチカチガチャガチャ音をさせて鍋が煮えたぎっているようだ。ぎょっとして顔を上げたアスレイヤの指先に何かがコツンと当たった。魔法薬の瓶が転がっている。


(二本目だ。こんな短時間に……大丈夫なのか?)


ふと目をやれば、黒い靄を出しきったデスブリンガーの身体を2体のゴーレムが取り囲み、その剛腕を振り下ろしている。しばらくするとデスブリンガーの身体はさらさらと崩れ、ゴーレム達も土に還ってあっけなく終わった。


シルガが召喚した”山姐さまの鍋”はすっかり大人しくなっている。カポンと僅かに蓋を開け黒い塊をペッと吐き出し、そのままスーッと消えた。

地面に落ちた黒い塊を拾ってシルガが歩み寄った。


「助かったよ。ゴーレム相手じゃ呪いを使ってくれないんだ」


未だ立てないでいるアスレイヤはシルガの手の中のものに胡乱な目を向けた。


「その黒いのが奴の本体か」


「本体というべきか微妙なとこで……複数の魂の残滓を練りあげて出来た羊羹みたいな」


「ようかん?」


「なんかエネルギーの塊的な」


「……」


例のごとく意味不明な喩えである。


「ハイクラスの魔法薬作りに必要になる希少な素ざ……あ、要る?」


「……いらん」


見るからに禍々しいオーラを放つ黒い塊、そんなもんマジックバッグに入れたくない。半眼で拒否するアスレイヤを余所に嬉々としたシルガがまた何か見つけた。


「ほら槍、これも再加工できる優秀な武器素材だよ。デスブリンガーの武器がこんなに良い状態で手に入るのは稀なんだ」


「……」


無邪気な少年のように目をキラキラさせたシルガが掲げた二叉の槍は、幾分大人しくなっているとはいえ、明らかにアレだ。鑑定拒否されたうえに引取り拒否される未来が目に見えるようだ。


「王都の鍛冶屋で魔器専門の職人に任せれば かなり良いものになるんじゃないか?デスブリンガーランス改・バイデント零式とかどう?」


「いらんわ!なんだその命名!」


「希少な素材は山分けすべきだ。君のマジックバッグに入れとくよ」


「…………」


シルガはさりげなくアスレイヤに怪我がないか確認しホッと胸を撫でおろしていた。


(倒せてよかった)


正直なところかなり相性の悪い敵だ。不死者の巣窟である幽囚の森は素材採集でも進んで行きたくない場所の一つだった。養い親は今ほど魔法が使えるわけでもない幼いシルガと二人で行っていたのだ。嫌々ながらも強制参加させられて良かったかもしれない、とシルガは思った。


(俺だけじゃ倒せなかったよなぁ……)


諦めずに敵と戦い抜く闘志は初めから備わっていたが技量が上がっている。しみじみとアスレイヤの成長を嬉しく思った。ふっと笑みがこぼれると同時に眩暈がして足元がふらつく。


「あ、おい。大丈夫か?」


「ん、平気へーき……でも少し休憩しよう」


駆け寄ったアスレイヤにそう言って腰を下ろすとそれに倣って隣に並んだ。お茶とサンドイッチを渡してしばし休憩だ。ちらと横目で見ると、ちまちまと齧っている様子はやはりなんとなく上品だ。こういう仕草が可愛いのである。


「デスブリンガーは……死んだのか?」


アスレイヤの問いかけにシルガは少し考えた。確かに不死者の死というのは気になる問題で、シルガも養い親に聞いたことがある――明確な答えはなかったが。


「いや、うん。死んだとも言える……いや言えないか。奴の”死”は、ほかの何者かが能力の――自分の一部として握っているはずだし」


「更なる強者がいるのか」


「ああ、不死者の理は蟲毒の壺に似てるよ」




小休止を挟んだ後二人は探索を開始した。

松明に再度火を灯して周囲を見回してみると この階層は緑豊かな森だ。木の幹は太く、低木も茂り、歩けば枯葉がサクサクと鳴る。徐々に魔瘴が濃くなるのを感じながらも二人は進んだ。歩けそうな獣道を頼りに進んでいると、こんもりと土が盛り上がって出来た丘のようなところに出た。


「うん……?」


シルガはこの丘にどことなく既視感を覚えた。


「おい、石畳だ」


人工物を追って行くアスレイヤの後を慌てて付いて行く。少し歩くと小さな祭壇のようなものがあった。唐突に突き出た太い柱に囲まれた祭壇――見覚えのあるものだ。


「迷宮の入口に似てるな」


苔むしてボロボロに削れたそれを覗き込んでみると、魔術式が刻まれている。


「これは転移術式かな?ちょっと辿ってみよう」


「いきなり発動したりしないだろうな」


「発動しても術式の中に入らなければ大丈夫だよ」


かなり風化して術式が途切れているのを補いながら辿っていく。さっぱりわからないアスレイヤはふと思い出した。


「そういえば貴様の魔術式に似たものを見たぞ」


「え、何だそれ。俺も見たかった」


ふわりと術式が光を帯びた。


「あ、やっぱり転移術式だ。と……俺の転移魔法は使えるのかな」


ひょっとしたらということで、シルガが階層内を転移できるか試した結果、術式を組み上げることができなかった。術式が展開されるよりも魔瘴が浸食する方が早かったのだ。


「これが唯一の帰還手段か」


確実に濃度を増している瘴気の中で帰還術式が煌々と輝いている。ふと見れば、入口と同じように階段があることに気付いた。


「この下にまだ階層があるのか?」


しゃがみこんだアスレイヤが松明を掲げたその時、地底へ続く石段の奥からぶわりと黒い靄が噴き出した。


「しまっ……アスレイヤ!!!」


魔瘴に見えたそれはいくつもの黒い腕だ。地の底へ引きずり込もうと群がる無数の腕はアスレイヤを引き倒して絡め捕って離さない。シルガは必死にアスレイヤの身体にしがみついた。


(なんだコレ!俺の結界が弾かないのはどういうことなんだ?攻撃の意図はないのか?)


得体の知れなさが不気味だ。


「ピホポグラッチ、あれを!」


アスレイヤの足元から黒い塊が近づいてくる。爛々と輝く二つの眼がひと際鋭く煌いた。


「ゴメンちょっと痛いの我慢してくれ!」


シルガは身体強化で思いきりアスレイヤの身体を掴んで引っ張り 飛び退いた。地底から追って出てきた黒い塊が、靄を吸収してどんどん膨れあがる。体からいくつも生やした腕が揺らめき手招きしているように見えた。


―― ゴシュッ


鈍い破裂音と共に噴き出したのはどす黒い霧。


「魔瘴だ」


―― ゴシュッ、ゴポッ


黒い塊の身体から次々と破裂音がして魔瘴が噴き出している。この奇妙な生物が魔瘴の発生源なのだ。噴き出した魔瘴がゴウッと音を立てながら周囲を真っ暗に塗りつぶした。空気が一段と重くなり、浅く息をするのがやっとだ。


(この濃度は……ちょっともう、探索は無理)


シルガは視線を巡らせた。不気味な化物の向こう側に帰還術式の光が漏れさして見える。抱え込んだままのアスレイヤをぐっと強く抱きしめた。シルガの結界は耐え切れずに消滅している。ローブが危機を察知し自動で結界を張っているが、この濃度の魔瘴の中ではそう長くは作動しない。


帰ろう、そう言おうとしたときだった。


―― ガアアアアアアアッ


「「は??」」


二人は呆然として目の前の出来事を眺めた。

先程まで丘だった地面が盛り上がり、中から巨大な竜が飛び出し、黒い塊を口の中に入れた――飲み込んだのだ。


―― グォオオオオオ、ガッ、ォォオオオ


「なんで竜が、あれ竜なのか!?」


「古代竜だ。ルーンシェッド大森林にも一頭だけ眠ってた」


巨大な竜は口を大きく開けて更に魔瘴を吸い込んだ。ほんの少し空気が軽くなったのを感じてシルガは結界を張り直した。黒い魔瘴の靄をズルズルと啜るように飲み込み続けていた古代竜がゆっくりと二人の方に顔を向ける。


「なんだ……?」


―― ウ”ゥ”ア”、ア、オ”オオオオ


苦しそうに呻き、後ろ脚を折って何かを訴えている。所どころ肉の剥げた大きな身体は膨大な魔瘴を吸いこんだせいか黒く変色して腐っているようだ。胸の前に前脚をやると ぐずりと音を立てて肉が溶け落ちた。


―― グゥウウアアオオオォォ


叫びながらもそっと差し出された前脚が、アスレイヤの目の前にどさりと何かを置いた。


「フェルレイン!!」


賊に襲われた階層でちらりとしか見てないが 確かにあの時に見た女子生徒だ。呼びかけても目を覚ます気配はないが魔瘴汚染は軽く、回復できるレベルだ。


「大きな怪我もなさそうだな。たぶん、竜が瘴気から守ってくれてたんだろう」


「なんで……」


アスレイヤは安堵したのと同時に 胸が苦しくなって古代竜の黒い瞳を見上げた。大きく息を吐く様子はとても苦しそうだ。上下する身体に合わせてボトボトと肉が腐り落ちている。


「あ、ありがとう、助けてくれて」


黒い瞳がキラリと輝き、徐々に濁っていくのがわかった。


―― オオオオオオ!!!


「アスレイヤ、魔化だ」


異臭を放つ身体に残る理性は少ない。滅茶苦茶に暴れようとするのを必死で抑えているようでもあった。


―― グオオオオオオオ!!


―― ゴシュッ、ボコッ、ゴプ……


「あれが魔化……」


古代竜の身体から瘴気が噴き出し周囲の空気がまた重苦しくなっていく。このままではもとの木阿弥だ。シルガは呆然と立ち尽くしているアスレイヤを急かして脱出しなければならなかった。


「早く脱出しよう、帰還術式は……」


――― シルガ


轟音の中でもはっきり聞こえる精霊の声に シルガはぎくりと動きを止めた。


「……うん?」


――― シルガ、なかまたすけて


振り返ると いくつもの光の粒がふよふよと浮かんでいる。


――― けいやく


精霊たちの有無を言わせぬ声の響きがシルガの自由を奪った。



******



突然現れた精霊を目にしてアスレイヤは嫌な予感を覚えた。背を向けたシルガの表情はわからない。


「アスレイヤ」


固い声で呼ばれて身体が強張った。


「帰還術式で脱出したら、転移道具で白狸亭に帰る。そして店主に馬車を手配してもらって王都へ向かうように。実は君に渡す予定だったマジックバッグを店主に預けてあるんだ。それを受け取ってほしい」


淡々と指示される内容はわかったが理解したくない。


「ちょっと中途半端になってしまったけど中におやつも入れてるよ」


「いやだ!」


シルガはようやく振り返り、叫ぶように拒否したアスレイヤを真っ直ぐに見た。ちょっと困った目をしている。


「そう言われても俺はここから動けないんだ。逃亡防止で精霊に足止めされてて」


「凶悪な奴らだ!こんなところに貴様一人で残って、いったい何ができるんだ?俺は嫌だからな! ひとりでは……帰らない」


「フェルレインがいるじゃないか」


ぐっ、と言葉に詰まる。フェルレイン捜索はアスレイヤが望んだことだ。ぎりりと奥歯を噛んでぐっと拳を握り込む。悔しそうなアスレイヤに苦笑してシルガは続けた。


「俺は対価を支払うために何か、彼らのお願いを聞かなければならないが……それによって命を落とすほどの大きなものを要求されないことはわかってる」


「……何故だ」


「契約した精霊達は、現時点では人の命を対価に差し出させるほどの力を持ってない。俺が差し出した契約の証が持つ価値は低い――俺の名を呼ぶ人がいないから。大きな力を行使することは 互いにできない。上手くやれば必ず帰還できるってこと」


ぽんと肩を叩く。


「だから大丈夫だよ」


アスレイヤは縋るような頼りなげな、子供らしい真剣な目をしてシルガを見上げた。軽く流そうとしていたシルガはウッと面食らってうろうろと視線を彷徨わせた。この表情には少し弱いのだがどうにか言う通りにしてほしい。必死に口実を考えた。


「俺は下僕の義務を軽んじて君に激怒されたことがあったよな。あれはとても堪えたよ。そういうわけだから、君は主人の義務を果たしてくれると信じてる」


「……」


俯いて黙り込んだアスレイヤはどんな表情をしているのか見えないがとても苦しそうだった。


「主として、下僕の頑張りに報いてくれ」


「…………わかった」


苦渋に満ちた声を絞り出してアスレイヤは承知した。シルガはまだ14歳の少年にそんな決断をさせたことを申し訳なく思ったが黙って頷くだけに留めた。

アスレイヤは決めてしまえば行動は早かった。フェルレインを背負って転移術式のあるらしい場所をじっと見据えた。今いる場所から結構な距離があり、油断したら術式の光を見失いそうなほど魔瘴が濃くなっている。この結界だって何度も張り直して維持しているのだ。


「この魔瘴、これを防ぐほどの結界なんて俺は……」


「心配いらない」


ばさりと鳥の羽音のような音がした。アスレイヤの視界は見知ったローブの色でいっぱいになり、次に目に入ったのは金色にふち取られた新緑の瞳だ。それが ふっと困ったように微笑った。


「これがあれば 転移術式まで程度なら安全だ」


シルガが着ていたローブを脱いでフェルレインを覆うようにしてアスレイヤに掛けたのだ。

一度だけ見たことのあるパサパサの白髪。青白い顔には幾筋も亀裂が走り、目の周りにできた隈が不健康さを際立たせ、ぎょろりと落ちくぼんだように見せている。唇はカラカラで生気がない――けれど、たしかに一目見たらぎょっとするかもしれないが、アスレイヤは冬期休暇中、出会ってからずっと隣にいたのだ。初めて晒されたシルガの容姿をぼうっと眺めた。


(なんだ)


見た目が異様だから晒したくないと言っていた。怖がられて追われることが常だったらしく、それが怖いのだとも言っていたけれど。


(――きれいじゃないか)


そんなことを思いながらぼんやりと見惚れているアスレイヤに気付くこともなくシルガは収納鞄から魔法薬らしきものを取り出した。そして、何をしたらそんな色になるんだという風体のその不気味な液体を飲み干した。


「そうだ」


シルガはフェルレインを背負ったアスレイヤの両腕に触れて目線を合わせた。あの毒液みたいな魔法薬は魔力回復薬なのだろう、ふわりと白い光がシルガを包んでいる。白い指先の亀裂が消え、顔全体に広がる亀裂が消え、白い髪が輝きを取り戻していく。ゆるい曲線を縁取った白金の睫毛がわずかにふるえるその奥で、アスレイヤの好きな新緑の瞳が祈るようにこちらを見ていた。


「なにか祝福の言葉をくれないか? 君がくれるものなら何でも、きっと帰路の澪木になってくれる」


そう言って微笑んだシルガはとびきり美しかった。その微笑みがあまりに幻めいて、アスレイヤは急激に不安を覚えた。もともとピホポグラッチウォーリア2世はどことなく曖昧な存在感だったのだ。気紛れに消えてもおかしくない気がしていた。


「……」


戻って来るのか?ちゃんと戻ってこい?どこにも行かないで?どれもしっくりこない言葉だ。じっと目を合わせたまま、必死に言葉を探していた。


「…… ……」


言いたいことならいくらでもあるはずなのに、アスレイヤは何を言えばいいのかわからずにただ、ぬるい熱が頬を濡らしては冷たくなるのを繰り返し感じていた。とても長い間そうしていたような気がした。


アスレイヤに落とされた影がそっと離れていく。シルガは腕に触れたまま身体を離してくるりと向こうを向かせた。スッと右手を伸ばした先に帰還の転移術式が輝いている。


「アスレイヤ、あれを目指すんだ」


「……」


アスレイヤ、と呼ぶ声が好きなのだと気付いた。

背中を押されて一歩踏み出すと横風がビョウビョウと吹きつけてくる。その激しさによろめき、今まではシルガの結界の中にいたのだと改めて解った。アスレイヤは気を引き締めてフェルレインを背負い直し、ローブをしっかり握りしめて転移術式を目指した。視界は濃い魔瘴に覆われてすこぶる悪い。風に煽られ移動する瘴気の層が転移術式の光を時折隠した。アスレイヤは必死に唯一の帰還手段を目指した。


バチバチと音を立てて瘴気を遮っていたローブは 転移術式に辿り着くころにはすっかり大人しくなっていた。結界を張る役割をもうほとんど果たしていない。煌々と輝く術式の中に入って、アスレイヤは振り返った。

顧みたアスレイヤの目に入ったのは、ゴウゴウと吹き荒れる魔瘴に巻かれるシルガの後ろ姿だ。いい加減にバツバツ切られた白金の髪が風に煽られ、星のように輝きながら きらきらと揺れている。周囲が真っ白に霞んでも 完全に見えなくなっても、アスレイヤはまばたきすることさえ惜しくて、ほかのものなどないかのように、それだけを見つめていた。



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