第三章 雛沢ももえの46才

3ー1 ナメてかかってもいいヤツ

 202X年、某月。


「おはようございます、雛沢です。」

「………おはようございまーす」


 声優事務所・ボルケーノのデスクの【柳瀬】は来訪者に目を合わせる事なく気怠げに返事を返した。


 ボルケーノ入社3年目の柳瀬は機嫌の良し悪しが露骨に顔と態度に出るタイプの女である。売れてもいないド新人や事務所への貢献度が低い社員・タレントなどの「ナメてかかってもいいヤツ」とみなした相手にはその傾向がより顕著になる。

 一応、入社当初には新社会人としてそれなりの殊勝さと懸命さを持ち合わせてはいたのだが、それらはこの事務所の売れていない&これからも荒れる見込みのない所属声優共の「ボルケーノ活火山」という名前とは裏腹な死火山同然の自堕落さに汚染され、早々に腐り朽ち落ちた。


 そして来訪者は約25年前に放送されたTVアニメ「魔法少女キューティ☆フレイル」で華々しく主役デビューを飾るも、程なくして様々な騒動と事件の渦に呑み込まれて敢えなく売れ損ない、そしてその後ずっと、ずーっと売れ損ない続けている同社の所属声優・雛沢ももえこと安沢とし子(46才)だ。

 即ち柳瀬にとっての「ナメてかかってもいいヤツ」である。

 柳瀬は別に取り立ててとし子の事が嫌いな訳ではない。ただ、好きでも尊敬してもいなければ興味もなく、好意的に接したとて一ミリのメリットもなく、何より今後役者・声優としてブレイクする見込みは全くないとみなしているだけだ。


 1年程前、機嫌が悪い時にとし子に小言をぶつけられ「そんな事より雛沢さんはもうちょっと売上を挙げられるタレントになって貰わないと」と反射的に半笑いで言い返してしまって以来、とし子は露骨に柳瀬を避けている。

 が、まあいい。別に自分は困りはしない。事務所としてもコイツがいなくなったとて一ミリも困りはしない。

 売れていないタレントに人権はない。


 この雛沢ももえとかいうこっぱずかしい芸名の売れないおばさん声優の様なキャリアダウンを経験した「後ろ盾を失い、後に不穏な評判だけが残ってしまった一発屋声優」は業界を見渡せば珍しくはない。中にはちゃんと才能も魅力もあるのに、色んな人間関係のこじれによってそうなってしまった、ちょっと勿体ない人も居る。

 ただコイツは若い柳瀬から見ても分かりやすく怠け者だし、売れ損なって当然の人間だ。だから、ナメてもいいのだ。


   ◆


 とし子が雛沢ももえを名乗り、このボルケーノという事務所に籍を置いてもう25年。

 入所歓迎会の時にとし子の手を取って応援を約束してくれたマサヤという新入社員は翌週に癇癪を起こして辞め、その1週間後には社長の親戚のタカオという社員が出社して来ず「給料が出ないんなら俺も辞めます」というメールだけを事務所に送って来た。

 タカオに給料が払われていなかったと知った時には驚いたが、怒りに任せてタカオに電話した社長の権田原が「親戚ならタダで働かせてもイイって法律で決まってんだぞ!」とデタラメな事を大真面目にほざいたのにはもっと驚いた。

 その後25年の間に自治体や債権回収会社からの毒々しい色の封筒の督促状や裁判所からの郵便物で事務所のポストが埋まったり社長が何の前触れも予告もなく行方不明になったり(それも一回ではなく複数回)したものの、どうにかこの会社は存続出来ている。何故「どうにかなった」のかはとし子にはよく分からない。

 数年前の飲みの席で権田原が「肝臓はもう一つ売っちゃったからなあ」と冗談めかして言っていたのを周りの人間がサラッと聞き流していて驚いた事があるが、アレは本当に冗談だったのだろうか。

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