1-9 水で割ってるから無問題

『江花ー! この契約書どうなってんのー?』


 俺が働くことになった芸能事務所『コスモス・プロダクション』通称コスプロのオフィスで。

 フロアの奥から幼馴染兼同僚となった江花晴海えばなはれみを呼ぶ声があった。

 

 俺の背後の席で彼女は『はいはい~今行きますのでお待ちを~』と言って、水筒から自前のカップに何やらを注いで飲んだ。

 カップの中でカランと氷が揺れる。


「……まさかとは思うが、職場でも酒飲んでるんじゃないだろうな」


 俺が皮肉でそう言うと、


「えへへ~ちゃんと大丈夫~」


 などとコイツの場合冗談か本気かさっぱり分からないことを言って立ち上がり、フロアの奥へとゆったりとした足取りで歩いていった。

 途中で一瞬振り返って『あ、書類いっぱいあるけど今日中に書いといてね~』と手を振りながら俺に言う。


 あいよー、と俺は答えてから溜息を吐く。「ったく、あれマジで酒の可能性あるな……」


「ふふっ」


 うん?

 今、笑った? 女神が?

 

「本当に仲が良いのですね。江花さん、よく中本さんのことを話してましたよ」


 女神――月城つきしろさんは顎に指の関節をあてて、口元を微かにあげて言った。


 うん。

 今、笑ってる。女神が。


 しかも晴海を通して、俺のことも事前に知っていてくれたらしい。

 その事実に緩みそうになる頬を、手の甲で無理やり抑えつける。

  

「幼馴染というか……ただの腐れ縁です。地元が近くて、しかも東京に出てきたよしみもあって」

「羨ましいです」

「え?」

「私には、そういった関係の方はいませんから」


 そう話す横顔は、どこか寂しそうにもみえた。

 

 思えば。

 俺が知っているのは【月城なゆた】だけだ。

 いわば月の表面だけ――地球われわれには見せていない〝裏側〟の部分を、俺は当然まだ知らないし。

 これから知ることになるとも、今の段階では思ってもいない。

 

「書類は書き終わりましたか?」


 しばらくデスクに向き合った後。

 眼鏡のつるをつまんで上げながら月城さんが訊いてきた。


「え、あ――あともう少しで。でもほとんどは終わりました」


 困っていたのは〝住所〟の欄だった。

 なにしろ前の会社の社宅はあと1週間のうちに引き払わなければならない。

 実家のある愛知から通うのはさすがに遠すぎる。(東京までの新幹線代を会社が支給してくれるわけもきっとないだろう。試しに聞いてみる手はあるが……その場ではやんわりと断られて、後の飲み会とかで『あの新入社員、東京-名古屋間の定期代要求してきたんだけどw』と話題にされ変なあだ名とかつけられるに違いない)

 

 ――まずは家探しだな……。


 そんなことを考えて気を重くしていると、淀んだ空気をすべて吹き飛ばすような美声が左隣から降り注いできた。

 

「それでは、出かけましょうか」


 我が女神――月城さんだった。

 

「……うん? 出かける、とは?」

「ランチです。あ、江花さんから伺っていませんか? 今日いらっしゃる中本さんと、お昼をご一緒するようにと」

「そ、そうだったんですね。晴海――じゃなくて、江花サンは?」

「打ち合わせがあって遅くなるようで。ですからで……いかがでしょうか?」


 

 断るわけなど。



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